「はぁ、観光ですか。さんはそういうのに興味があるんですね」
「ドイツは初めてで…イタリアとかなら何度か行ってるんだけど」
『僕はだいたいどの国にも行ったかなぁ。あ、ヒマラヤの上にはまだかも。ああ、エアーズロックとかもまだかも。なんだ、まだ行ってないとこあったなぁ。行っとけばよかったかなー』
 会話に割り込むように声を出すと、緑の髪をした子にちらりと視線をやられる。どうやら彼にも僕が見えているようだけど、肝心の彼女は僕の方を振り返ることはない。「ねぇフラン、あ、フランて呼んでいいのかな」「どーぞお好きなように。あ、蛙はナシで」「そんなふうには呼ばないよ」笑った彼女が愛おしくて手を伸ばした。当然、触れられずに終わる。するりと彼女の肩をすり抜けた自分の手は白く、身体全体も白っぽく、そして少し透けていた。

 どうして僕はここにいるのだろう。
 確かに死んだのに。この時間軸にいる僕は、どの世界でも死んだ。確かに死を感じた。最後までこの手は彼女に届くことなく地に落ちたのだ。
 それなのに、気付けば僕は白い墓碑のそばに立っていて、そばには彼女がいた。墓碑に話しかけるように言葉を紡ぐ彼女が幻なのか、それともここにいる自分が幻なのかと考えて、自分が死んだことを思い出した。きっと僕は幽霊とか魂だけの存在になってしまったのだろうと思った。そうでなければ、ここにいるはずもないのだから。
 少し、ほっとしていたのだ。ようやく終わったと。
 夢を追い続けることに本当は少し疲れていた。休む場所もなかったし、そんな暇もなかったから、きっと余計に疲れていたんだろう。
 そんな中見つけた小鳥。そばに置いておきたいと、僕はその小鳥を鳥籠へと閉じ込めた。
 閉じ込めた小鳥は崩れた籠から外へ飛び立ち、この手をすり抜け、僕でない男のもとへ行ってしまったけど。
 できればこの肩に止まっていてほしかった。
 届かない彼女に手を伸ばしたまま意識が白く染まり、何も分からなくなり。気付いたら、また君が見えた。見えてしまった。
 きっと想い過ぎたのだろう。それか、愛を侮っていた僕への、神様からの罰ってヤツだ。

 すぐそこに彼女がいる。煉瓦の舗道を黒いワンピースのドレスで歩いている。とても楽しそうだった。僕といるときには見せることのなかった表情で彼女はそこにいる。
「ね、ドイツは何が有名だっけ。あ、ロマンティック街道だっけ。ノイシュヴァンシュタイン城とか」
「そうですね。有名な街道はいくつかあります」
「あっ、これが木組みの家かぁ。なんだか童話の世界みたいだね!」
 駆けていった彼女が楽しそうにくるくる回った。そんな彼女に呆れた顔を向けている緑の子は、僕の動向を窺っているようだった。「さーん、転ぶとシャレにならないので回るのはやめましょう」「はぁい」たんと煉瓦の舗道に踵をつけて、彼女が苦笑いする。
 目を細めてそんな君を見つめた。
 僕がもし普通の人間だったなら、今君の隣に立つことができたんだろうか。その手を取って観光案内でも何でもして、その笑顔のために、自分なんかどうでもいいと尽くすことができたのだろうか。
「…あなた、確か白蘭サンじゃありませんでしたっけ」
『へぇ。僕のこと知ってるの。ま、つい最近までミルフィオーレの頂点にいたんだから当然っちゃ当然か』
「死んだって聞きましたよ。まぁ、師匠とミーくらいしか視えてないようですから、あなたは確かに死んだんでしょーが。それにしたってどうしてさんに憑いてるんですか」
『随分はっきり言うなぁ。まぁいいけど。んーそうだなぁ。愛しちゃったからじゃないの』
「はぁ。それはまた迷惑な愛ですね」
『本当減らない口だね君』
「だってそうでしょう。さん、わざわざあなたのためにお墓を作ったって聞きました。それってあなたの魂が安らぎますようにってことですよね。せっかくの心遣いを見事無駄にしちゃって、本人が気付かないだけマシですけど、迷惑な愛ですよ。それ。本当に愛してるなら成仏を願った彼女の想いを汲んだらよかったのに」
『…簡単に言ってくれるね。僕だって終わったと思ってたんだよ。だけどまた醒めた。のこと、それだけ想ってしまってたんだ。自分で思うよりもずっと深く、泥沼にはまって、とっくに未練になってたんだよ。今更きれいごとで消えることなんてできやしない』
「はぁ。そうですか」
『……何か言いたそうだけど』
「いえ別に。ただ」
『…ただ?』
「世界の頂点に立った男といっても、所詮は人間なんだなってしみじみしただけですよ」
 一週間と少し。彼女は緑の彼と一緒に行けるところへ行った。あまりに僻地は移動に時間がかかるし、雲雀恭弥達から離れすぎてもいけない。しっかり観光本を持ってる彼は気乗りしない様子だったけど、彼女を守れという言いつけはしっかり守っていた。
 彼女に僕の声は届かない。最初の三日こそ一緒になってはしゃいでいたけど、届かないっていうのは辛いなと後半はすっかりはしゃぐ気力もなくなっていた。
 大きなソーセージを切り分けて食べている彼女を眺めていると、「いやに静かですね」と緑の彼にツッコまれた。『まぁねぇ。だって騒いでもさ、には届かないし。それが嫌ってほど分かったからさ』ソーセージを食べている彼女は嬉しそうだった。きっと本場物だからおいしいのだろう。僕も食べたかったな、ソーセージ。
「フラン、私バウムクーヘン食べたいな」
「はーい。少々お待ちを」
 席を立った彼が辺りに意識を飛ばしてから彼女のそばを離れ、店の中へと消えた。
 音も立てずに空いた席に座って頬杖をつく。彼女はソーセージにマスタードをつけておいしそうに食べている。
 そういう顔を生きてるうちに見たかった。いや、今だって別にいいんだけど。でもやっぱり生きてるうちがよかったな。だってさ、そうしたらこの手は君に届いていたのに。
 すかり、と僕の手は空を切る。君に届くことはない。中途半端に君の顔に僕の手が埋もれていた。その手を引っ込めて頬杖をつき直し『おいしい?』と話しかける。彼女は答えない。
『僕も食べたかったな、本場の味。食事にはあんまり興味湧かなくてさ、結構適当なものばっか食べてたんだよね。味よりも利便性が大事だったっていうか。あ、マシュマロは好きだったけどね』
 彼女は答えない。僕は一人で話し続ける。
『ねぇ、愛してたよ。いや、愛してるよ。今でも。ねぇ、最後に言った言葉は本当なんだ。本当に愛してるんだよ
 彼女はやっぱり答えない。バウムクーヘンの箱片手に戻ってきた緑の彼を振り返っただけで、僕を見ることはなかった。
 それからまた観光が始まり、僕は彼女についていったけれど、時間がたてばたつほどに、君の世界の中に僕がいない現実が胸を抉るようになっていた。
 夜になり、適当なホテルに入って、疲れたようにベッドに座り込んだ彼女がごろりと寝転がる。
「歩いたー…」
「歩きましたね。しっかり休んで、明日も元気に行きましょう」
「フランは疲れてないの? ごめんね、ずっと連れ回しちゃって」
「ミーなら大丈夫です」
「うん…」
 眠そうにまどろんだ瞳を覗き込む。そこに僕は映らない。彼女に僕は見えない。緑の彼が顔を顰めたのが見えた。あの子に伝わってもなぁ。君に伝わらないと全然、意味がないのに。
『ねぇ。僕のこと分からないの?』
 まどろんだまま、彼女の目はぼんやり天井を映しているだけで、僕を映すことはない。
「ねぇフラン」
「はい」
「白蘭て、知ってる?」
「…知ってますよ。ミルフィオーレファミリーのトップだった人でしょう?」
 悲しくなって目を伏せたとき、彼女の声が僕を呼んだ。もう一度その瞳を見つめる。相変わらずその目に僕は映っていないけれど、彼女は独り言のように続けた。「そっか。有名だったものね」「…ええ」ちらりと緑の彼が僕に視線を投げた。彼女は相変わらず僕に気付かない。分からない。それでも言うのだ。「私、彼にひどいことしちゃったと思うの」と。僕は緩く首を振った。『そんなこと全然ないよ』と。けれど彼女には伝わらない。
 まどろむように目を閉じて、君は言う。
「あの人、私のこと好きでいてくれたみたいなんだけど。私あの人のことちゃんと見れてなかった。見れないまま、終わっちゃった」
「……当時の状況は聞いてます。雲雀恭弥のもとから無理矢理引き離されて、閉じ込められて、人形よろしく扱われて。それで相手のことちゃんと見るだなんて、できなくて当然なんですよ。さんが悔いることありません」
 緑の彼の言葉は真実だったけど、遠慮がなかった。一応本人がここにいるんだけどなと小さく笑ったとき、彼女が目を開けた。がばと起き上がる拍子に僕をすり抜ける。「でもね、あの人寂しそうだった。…少し雲雀さんに似てたから分かるの。そういう人だった」膝を抱えた彼女が深く息を吐き出した。
「ねぇフラン、こういうときはどうすればいいのかな。なんだか最近白蘭のことばっかり思い出すんだ」
「………」
 こっちを一瞥した緑の彼にお前のせいだと言われている気がした。けれどそんなこと気にならないくらい、僕は今歓喜に打ち震えていた。
 届かないと思っていた。彼女の心に少しも触れられないと諦めていた。諦めながらも求めていた。だから雲雀恭弥を殺そうと。それで君が泣いても僕を嫌いになっても憎んでも、僕なしではいられなくなるくらいに支配してやろうと。思っていた。そんな最低な人間だったのに、それでも君に届いていた。少しは届いていたんだ、僕も。
 なんだ。そっか。全く届いてないわけじゃなかったんだ。僕のこと、考えていてくれたんだ。
 …当たり前か。わざわざお墓まで作ってくれたんだから、そうだ。当然だ。君の中からきれいに僕が消え去ることなんてきっとありえない。生きてる限り、僕と過ごした記憶がある限り、君が僕を忘れ去ることなんてありえない。
『…いいんだよ。確かに寂しかった。君は僕を見ないで、雲雀恭弥のことばっかり考えてたから』
 彼女の前に座り込む。膝を抱えている彼女は顔を上げない。『少しも届かないと思ってたんだ。だから、雲雀恭弥を消して、君の全てを僕で埋めようと思ってた。僕なしでいられなくなるくらいにしてやろうって。どうだい、僕は最低な男だろ? だからいいんだよ。君が、そんなふうに悩む必要なんてないんだ』手を伸ばす。届かず、空を切る。華奢な肩に触れることも叶わない。それでも今は十分だった。君がそうやって僕のことを考えてくれていた、そう分かっただけで、満足だった。
『だからいいんだ。忘れてくれても、いいんだよ。君がそんなふうに泣くこと、僕はちっとも望んでないんだ。…君だけには笑っていてほしいから』
 だから、泣かないでいいんだよ。僕のこと忘れてもいいんだよ。そうしてもいいんだよ。今は、そう思える。
 緑の彼が溜息を吐いて彼女の頭を撫でた。「…ミーがちょっと引っかかりそうですけど、バーにでも行きませんか。そういうときはカクテルでも飲むと気分も落ち着きます」ゆるりと顔を上げた彼女に緑の彼は微笑んだ。目をこすった彼女が笑ってその手を取る。
 僕は、それを見送った。ついてこないのかという目で緑の彼が僕を見ていたけれど、彼女が座っていた位置に腰かけてぼんやりしていると、部屋のドアがロックされる音が響いて、足音は遠くなっていった。

 彼女が幸せになるまで見届けるつもりでいる。雲雀恭弥はどうにも決定的な台詞を口にしないで曖昧にしている部分があるし、彼女はそんな雲雀恭弥のそばにいて、それで満足しているような節もあるし。確かにそういう曖昧な時間も心地いいのだろうけど、僕としては二人がちゃんとくっつくまで見届けたい。彼女を愛した男の一人として、そうしたい。
 もう君は大丈夫。そう思えたら、僕はきっと消えることができるから。

『…愛してた。いや、愛してる』
 改めて彼女への想いを口にする。
 けれど、掲げた自分の両手は、以前より透けていた。
 …もうあまり時間はないと、誰かに言われているようだった。
 ぐっと拳を握って目を閉じる。
 せめてもう少し。あと少しだけ。ちゃんと彼女が幸せだと分かったらもういいから。僕は消えるから。だからもう少しだけ、時間をくださいと、祈った。