「終わった」
 どしゃ、と最後の一人が倒れ、トンファーを手にしていた雲雀恭弥が相手に目もくれずにつかつか歩き出した。「ちょっと雲雀くん、後片付けが残ってますよ」「冗談じゃない。それは三下のやることだろ。僕は帰る」僕の横をすり抜けてトンファーを折り畳んだ彼に、はぁと息を吐く。
「…前から思っていたんですけどね。どうして喧嘩事のときと同じように勢いよくに接することができないんですか」
 呆れながらぼやくと、ぴたりと足を止めた彼がじろと僕を睨んだ。とんと自分の胸を叩いて「そんなものを渡すくらいで、何をそんなに戸惑ってるんですか君は」彼の胸ポケットには変わらず指輪が入っていた。普通そういうものはケースに入れるというのに、この男はそのまま持ち歩いている。まぁ、らしいと言えばらしいことだ。
 できるだけ建物を傷つけるなの言いつけをだいぶ破っている崩れた壁を睨みつけて、長い沈黙のあとに彼はぽつりとこぼした。
「君、なんで生きてるの?」
「……それは嫌味ですか。君は僕に死ねと」
「まぁそれでもいいけど、今のはそういう意味じゃない。…長い間気付けなかったけど、どうやら僕は、に生かされてきたようなものだと実感してね。もう失くすようなことしたくないんだ」
 はぁ、と相槌のようなものを打ってから「なら尚のこと、それを渡してしまった方がいいでしょう」と言えば、彼はまた僕を睨んだ。
「どう言えっていうんだ」
「今の言葉をそのままで十分なのでは? つまり君は、に心底惚れていて、彼女がいないと生きられないくらい愛しているんでしょう? そう伝えればいいじゃありませんか」
「…君には恥ってものがないの?」
「おや。君にも人並みの恥がありましたか」
 くふふと笑ったらトンファーをぶん投げられたのでひょいとかわしておく。「もういい」とそっぽを向いた彼はつかつか早足で広間を出て行った。
 ふむ、と腕を組んで考える。どんな手を打てばあの小心者が彼女に指輪を渡すという行為に至るのか。想いは確固たるものだというのに、あと一手、決め手が足りない。
 なぜ僕がこんなことを、と考えながら片付けに散った部下に「あとを頼みますよ。何か不備があったら連絡を」「了解しました」敬礼で見送られながら古城を出ると、帰路を辿るはずの車はすでに出発したあとだった。はぁと息を吐く。全く、彼女のことになるととにかく落ち着きのない男だ、本当に。
 あとを追うようにして遅れて空港のある街に戻ると、雲雀恭弥が入口で右往左往していた。「よくも置いてきましたね雲雀くん、って何ですか。何をうろうろしてますか君は、落ち着きなさい」「うるさいな。がいないんだよ」舌打ちまでして携帯を引っぱり出した彼が電話をかけ始めた。本当に忙しない男だ。最も、彼女はこんな雲雀恭弥を知らないのだろう。当然か。彼女がそばにいれば彼はいつもと変わらないのだし。
 ふうと吐息して「僕の弟子がついているんです、心配ありませんよ。観光しに少しここを離れているだけでしょう」苛々を表すように革靴で煉瓦の地面を叩く彼にじろと睨まれた。肩を竦める。そりゃあ僕の予想ですが、事実だと思いますよ。
を探して連れてきて。今すぐに」
 繋がった携帯の相手はどうやら彼女ではなく自分の部下のようだった。彼の下についてこんな命令をされて、部下の方もかわいそうに。心ばかりの同情をしながら適当な喫茶店に入る。籠城戦の間まともなものを食べていなかった。今のうちに何か食べておこう。
 携帯を閉じた彼はどかと席に腰かけただけで、何かを頼むことはしなかった。
「食べておいた方がいいと思いますが。君、あまり物を口にしてませんよね」
「…いらない。吐くから」
「は? ドイツの料理は口に合いませんか?」
「そうじゃないけど……。がいないと、食事、おいしくないんだ。何食べても」
 ぼそぼそとしたぼやきにはぁと相槌のようなものを打って、運ばれてきたシチューにスプーンを入れた。スライスされたパンの載った皿を彼の方に押しやって「少しくらい食べなさい。君が倒れたらが泣きますよ」「…………」本当に仕方なさそうにパンを一枚手に取ってちぎった彼が、おいしくないを顔で表しながら、本当に少しずつ食べ始めた。
 彼女の名前を出すと少しは動いてくれるようだ。全く、どうして僕がこんなことをしないとならないのか。
 三時間喫茶店に居座っていると、カランカランとベルの音が響いて、彼女が現れた。厳重に警護していますという顔のリーゼントの男四人に囲まれていて、傍から見ているとかわいそうなくらい困っていた。それも店内に視線を巡らせて僕らを見つけるまでのことで、ぱっと笑顔を浮かべると「雲雀さん、骸さん」とこっちに駆けてきた。リーゼント男四人のあとから弟子がやって来て、何か足りないなと考え、白い影がないことに気付いた。

「雲雀さん」
 仲睦まじい夫婦のようにお互いを呼び合って、手を取り合って、おまけに額を合わせて笑い合って。これでどうして指輪一つが渡せないのかと僕は呆れてしまうばかりだ。
『あーあ。見せつけてくれるなぁ』
 その声に一つ瞬きしてから視線をずらす。壁をすり抜けることなど当たり前と言った顔で、白蘭が上半身だけ壁から生えていた。けれどその姿が少し薄くなっていることに気付いた。『いいなーいいなー、僕だってとあんなふうに笑いたかったなぁ』「…あなた」ぼそりとぼやいてから口を閉じる。彼女へと伸ばした指先は、すでに空気に溶けるように消え始めていた。
 彼女がすとんと雲雀恭弥の隣に座って頭を下げる。「ごめんなさい。フランと少し遠出していて…私のわがままに付き合ってくれたんです」ね、と話を振られた弟子は微妙に離れたところに立っていた。その目は彼女と、そして消えかかっている白蘭を見ていた。
「はぁ、まぁわがままというか観光でしたけど。リーゼント男四人に囲まれたときには何かと思いましたけどねー。さんが止めなかったら真面目に攻撃してましたー」
『そーそー。っていうかなんで部下リーゼントなんだろ。さすがにイマドキないよねぇリーゼントって。まぁ分かりやすいとは思うけどさぁ』
 彼女をここまで護衛してきたリーゼントの四人はすぐにいなくなった。店の奥で萎縮していた店主がカウンターに戻ってきて、ちらちらこっちに視線を向けてくる。三時間居座っていることにプラスして今のはなんだとでも言いたげな顔だ。
 メニューをばさりと彼女の前に置いた雲雀恭弥が「お腹が空いた」などと言うから、僕は思わず顔を顰めてしまった。「君、さっきは…」言いかけた僕をじろりと睨んだ灰色の目に、ああはいはい余計なことは言うなってことですねと肩を竦める。首を傾げていた彼女がメニューに視線を落としてから眉根を寄せた。「フラン」「はーい」呼ばれててくてく歩いて行った弟子がメニューを持ち上げる。どうやら彼女はドイツ語が読めないことに眉根を寄せたようだった。
「どんなもの食べたいですか。何でもいいなら適当に頼みますけど」
「私もお腹空いちゃったから…雲雀さん、どのくらい食べますか?」
「二食分くらい」
「はぁ、食べ切ってくださいね。野菜肉魚でリクエストは?」
「私は何でも」
「…に任せる」
「じゃあ適当に頼みますー」
 メニューを持って店主のところへ行った弟子から視線を外した。静かになっている白蘭を見やる。呆とした空っぽの表情で彼女を見つめている。その彼女は鞄からいくつかポストカードを取り出した。それを雲雀恭弥に見せて「ここ行ってきたんです。ほら、有名なお城」「…ノイシュヴァンシュタイン城。そっちはホーエンシュヴァンガウ城だろ」「はい」笑った彼女に白蘭が小さく笑みをこぼしてふらりと立ち上がった。その身体の手足は末端がもう溶けて消えている。
「心残りはいいんですか」
 口の中だけで訊ねると、白蘭は笑った。『今更僕にどうしろって? 何もできないよ。声は届かないし、触れることもできないしね。それにいいんだ。さ、僕のこと結構考えてくれてたんだよ。そんなの、わざわざ僕のお墓を作ったって時点で分かってたことなんだ。…だからさ、これでもいいや。あんなに笑ってるし。幸せそうだし』白蘭の身体が透けていく。もうもたない。彼はこれで消える。それが自然の摂理であるべき姿。死んだ者は還るのだ。彼もそうして終わるだけだ。
 彼女に危害を加えることなく、強く願えばできたかもしれない何かをすることもなく、見守るだけ見守って、彼は消えることを選んだ。
「雲雀くん、失礼します」
「は?」
 ガタンと席を立って彼のスーツのポケットに手を突っ込む。がっと腕を掴まれて「何してんの咬み殺すよ」「いい加減じれったいのでお手伝いして差し上げます」「誰も頼んでないっ」「まぁまぁそう遠慮などせずに!」取っ組み合いの結果、ピンと弾かれた指輪が上手いぐあいにテーブルに落ちた。僕らに困った顔を向けていた彼女の目が指輪へと移る。
「これは…?」
 そろりと手を伸ばした彼女が指輪に触れた。僕の腕を振り払った彼が射殺さんばかりの勢いで睨みつけてくる。ひょいと肩を竦めて席に座り直す。あとは自分でやりなさい雲雀くん。
 贅沢にダイヤをあしらっている指輪を見つめた彼女の視線が彼へと移った。途端、僕を睨んでいた瞳がその鋭さをなくし、そろりと彼女に窺うような視線を向ける。
「もう少し踏ん張りなさい」
『なぁんだ。用意してたんだ、一応』
「…案外小心者なんですよ、雲雀恭弥という男は」
 口の中だけで告げると、白蘭はあはっと笑った。すっきりしたというような顔をしている彼の身体はもう胸辺りまでしか残ってはいない。『っていうか今の、僕のためにわざとやったわけ? 物好きだねぇ骸チャンも』「うるさいですね。化けて出たあなたに言われたくありません」…言われるまでもなく、自分が物好きなことをしているのには気付いていた。けれど、中途半端に消えるなどあなたも本意ではないはずだ。ここまできたなら終わりまでしっかり見届けさせたい。
「あの…雲雀さん、これは」
 小さく訊ねた彼女に、雲雀恭弥の視線が泳いだ。
 全くそこでどうしてさらっと言うことができないのか。誤魔化しようのないものを見られたのだから割り切ればいいものを。
「……あげる」
 やがて聞こえた声は、絞り出されたように小さなものだった。「え」とこぼした彼女の目をようやく見た彼が「に、あげる」と繰り返す。彼女は目を丸くして何度も瞬きを繰り返し、指輪と彼の顔を何度も見比べた。
「え…え? でもこれは、普通の指輪ではない、ですよね。ダイヤ、ですよねこれは。雲雀さん」
 どういうことですか、と困惑してる顔に、彼も負けないくらいの戸惑った顔だった。
 全くじれったい。それ以外言いようはないものか。あげるなんて軽い言葉ではなく、受け取ってくれないかとか、言い方は色々あるだろうに。
 空気を読んだ弟子が料理のトレイ両手にこっちへ戻る道中立ち止まった。その目が二人から消えかかっている白蘭へと移る。白蘭は淡い微笑みで事の成り行きを見つめている。もうその肩も消えかかっていた。
 意を決したという感じでわしと彼女の左手を取って、その薬指に指輪を押し込むようにした彼が言う。

「僕はがいないと食事がおいしくないし、何より落ち着かない。だから、僕とずっと一緒にいてよ」
「…私。私で、いいんですか」
「当たり前だろ。僕は君を、…愛してる」

 …雲雀恭弥という男もほとほと面倒くさい。背中を押しても踏み出さないから蹴飛ばしてやって、ようやくこれだ。
 両手で顔を押さえて小さくなった彼女を抱き締めて、「返事ちょうだい」と彼が言えば、彼女はこくこく頷いた。それが答えだった。ふっと息を吐いた彼が彼女の頭に額をぶつけて目を閉じる。
『うん、満足』
 聞こえた声に視線を上げた。白蘭はもう目から上しか残っていなかった。そしてその目は最後まで彼女のことを見ていた。
『じゃーねのこといつまでも愛してるよ。だから、ずっと、幸せにね』
 僕の分まで、という言葉を残して、白蘭は消えた。
 その表情の全体を見ることはできなかったけれど、恐らく笑っていたのだろう。言葉の通り、満足そうに、彼は逝ったのだ。彼女の幸せを最後まで願って。

(きっと彼は報われたのだろうなんて、僕が自分を納得させたいだけの、ただのエゴなのかもしれないけれど)