八月の三週目の土曜日であるその日は朝から曇りがちの天気だった。
 テレビでもウェブでも天気予報は午後の天気は下り坂だと言い張り、夕方からの降水確率は八十パーセント。つまりほぼ確実に降る。そして予報通りに夕方からはぽつぽつとした雨が降り出し、次第にその激しさを増していき、その日に予定されていた花火大会は雨天延期になった。
 なんなら今から晴れにしてあげようか。僕がちょっと意識すればできることだし。彼女があんまり残念そうにしていたからそう言ってみたけど、天気が回復しても花火が上がらなきゃね、と苦笑いをこぼされた。
 ああそうか。うん、花火を上げるっていうのはしたことがないから、僕一人でやれる自信がちょっとないな。空を晴らすくらいは朝飯前だけど、花火大会まで遂行するのは面倒くさそうだ。
 仕方がないから、次の週の土曜日に持ち越した花火大会の日を待つため、僕は日本に一週間余分に滞在した。
 今年は花火でも見て夏を終えようと思っていた。それに意味は特にない。一人だったらそもそも花火を見ようとか考えもしなかったろう。
 夏は暑いからあまり動きたくないし、日本は余計に暑いからさらに動きたくなくなるし。だっていうのに、僕は何をしてるんだろう。物好きだな。そんなことを考えながら花火大会までの一週間、ただぼんやりしてるのもアレだしとを連れて適当なところに行った。
 一日目は海。
 都心から車でのドライブを満喫して海へ向かった。陽射しが強いから浜辺で波と戯れることくらいしかしなかったけど、彼女もそれで満足してくれたようだ。僕も久しぶりに車が運転できたから気分転換になった。
 海は光を反射してきらきら眩しすぎたけど、その景色の中で波に足をさらわれて冷たいと笑う君に、きらきらした光はよく似合っていた。

 二日目は山とか高原。
 別にアウトドアが好きなわけじゃないけど、この機会を逃したらもう無理だろうな、という予感のようなものがあった。あとからああやっぱり行っておけばよかったなんて思うのは億劫だったから、僕はその予感を信じてその日も外に出かけた。
 当然山や高原は都心から距離がある。目的地までの移動時間が馬鹿にならないので、そこはちょっとだけリングの力を使った。一般人であるには魔法のように見えたのだろうけど、これは種も仕掛けもあるただの手段の一つだ。
 無駄な時間を使いたくなかったから普通の人には感知できない速度で移動しただけなんだけど、彼女の驚きようと言ったらなかった。
 さっきまで確かに都心にいたのに今はもう有名な高原の入口近く。その現実に彼女は目を白黒させていた。その顔を見てたら十分くらい笑いが止まらなくて、久しぶりにこんなに笑った、と笑いすぎて涙の浮かんだ目をこすったときに思った。

 三日目は夏の大セールを開催してるらしい色々な場所へ行った。
 アウトレット系の店が集まるショッピングモール、雑貨街、ギフト品の解体処分市まで、普段だったら行かないような店にもたくさん顔を出した。
 は僕が思ってるより体力があったらしいと今日思い知った。こんな暑い中荷物の紙袋を両腕に下げて元気に次はあっちのお店と前方を指差す彼女に疲労の色はなく、僕が疲れたーと主張しないと休憩さえ入らない勢いだった。
 白蘭大丈夫? ハンカチを濡らして戻ってきた彼女が心配そうな声音でそう言い、濡れたハンカチをぺたりと僕の額に当てた。
 強い午後の陽射しに、両腕いっぱいの荷物に、この蒸し暑さ。日本の夏は侮れないな。むしろもう来たくないな。絶対イギリスとかにいた方が涼しく快適に過ごせるだろう。素直に夏を避暑地で過ごせばよかったのに、僕はどうして日本にいるのだろう。
 そんなコト、自分でも分かりきっているのに。
 自問に対する解答は目の前にある。
 君がいるから、僕は仕方なくここにいる。それだけだ。

 四日目はさすがに休憩の日にした。
 僕はもともとそう運動したい人じゃない。一日読書で潰すことだって珍しくはなかったインドア派だ。やることやるようになってから外に出ることが多くなったけど、読書とかチェスとか、頭を使う運動の方が僕は好きだ。
 だけどはそういうことは不得意だった。何度も教えたけど、基本のルールを憶えるだけで手いっぱいで、僕の相手ができるほどチェスの腕前は上達しなかった。
 私頭よくないから、と彼女は言う。チェスのガラスの駒をわざわざクロスで拭ってきれいにしていく姿を見ながら、それは確かにその通りだ、と思った。僕はその言葉に対する反論を持たない。君はお世辞にも頭の回転が速いとは言えない。チェスも、囲碁も、将棋も、麻雀も、どれも上手ではない。ゲームをしても必ず僕が勝ってしまうから、始めた瞬間から勝敗は決まっているようなものだ。
 それでも。一手に集中してゲームに没頭する君は、馬鹿みたいにまっすぐだった。

 五日目は東京案内をしてもらい、名前くらい聞いたことはある場所をいくつも回った。
 こんなに小さな島国なのに、色々なものがある。どうしてこの島国は発展したのだろう。そんなことを考えながらあちこちを回り、記念に自分用のお土産をいくつか買って、最後は今日のお礼にとホテルの夕食に招待した。適当な場所の適当なフレンチだったけど、彼女はすごく嬉しそうだった。
 ありがとう白蘭と笑顔を絶やすことのない君に、僕も少し笑っていた、気がする。

 そして六日目。
 だいたい夏っぽいことはしたし、この暑い中頑張って観光もしたわけだし、もう十分だろう。あとは明日の花火大会を見納めて、それでおしまいだ。
 ホテルの涼しい部屋でのんびり読書していると、フロントから電話がかかってきた。
 僕にお客様だそうだ。相手が誰か聞かないでも分かっていたから、読みかけの本をソファに投げ出してエレベーターで受付のある階まで下りた。予想通りそこにはがいた。ホテルに来るときくらいは少し大人っぽい格好をするようだ、と二回目の訪問で気付いた。
 白蘭と呼ばれて片腕を挙げて答える。どうしたのと訊けば君は曖昧に笑って、お茶しない? と僕を誘う。
 そういえば小腹が空いたと言われて気付いて、ホテルの最高階のラウンジに行った。甘いものが食べたかったし、お金を出し惜しみする気もなかったから、一番おいしい紅茶でアフタヌーンティーセットを頼んだ。
 紅茶が来るまで、君は視線を俯けて染み一つしない白いテーブルクロスを見ていた。
 やがてぽつりと白蘭、明日で行っちゃうんだねと口にする。頬杖をついてホテルの様式や置いてある家具を眺めていた僕は視線を向かいの君に戻した。
 そうだね、明日花火見たら帰るかな。色々予定が詰まっちゃってるし。そう言うと君はやっぱりというどこか落胆のような表情を見せて、すぐにその顔を笑顔で塗り替えてそっか、寂しくなるなと小さな声でこぼした。
 一週間滞在期間を延ばしたおかげでその後の予定が詰まっている。使える部下に仕事は命じておいたけど、やっぱり自分の目で確かめたいとこもあるしね。花火を見たら僕は日本を出なきゃ。
 それは最初から決まっていたことだった。
 偶然の雨で花火大会が延期になった。だから一週間滞在予定を延ばした。花火を見たら僕は日本を出る。やるべきことがまだたくさんあるから。
 …それならどうして、君と花火を見るなんて小さな目的のために、それ以上の大きなことを放り出しているのか。
 思考を中断させるように紅茶が運ばれてきた。テーブルの中央にはティースタンド。下段がサンドイッチ、中段がスコーン、上段がケーキ類。お決まりのパターンだから僕は特別感慨を覚えないのだけど、は違った。携帯を取り出してパシャリと何枚か写真を撮って、すごいね、と笑う。
 何がどうすごいのか、君のように生きてこなかった僕には少しも分からない。
 スコーンを割って生クリームをつけた。さらにジャムも。かじりつけばシンプルな甘みと焼きたての食感が楽しめた。口の端についたクリームを舐めて甘いなと思う。食べたいと思ってたからいいんだけど。
 紅茶のカップに息を吹きかける君を見て、思う。
 ああ、このまま明日がこなければいいのにね、なんて。
 そして、八月の四周目の土曜日、天気は一週間前とそう変わらない曇り空。
 天気予報はこのままもつだろうと言っていたけど、外れた。夜になってぽつぽつとした雨が降り出したのだ。花火は雨天決行になるはずだから僕はそう心配していなかったけど、きれいに見えるかなぁと彼女は不安がった。
 その不安をさらに煽るように雨脚が少し強くなる。
 腰に巻いてたパーカの上着を彼女の頭に被せて「濡れるよ」と言えば、「白蘭が濡れちゃうよ」とこっちを見上げる日本人色の瞳と目が合った。
 やろうと思えば、雨を弾くことくらい簡単だった。ちょっとだけリングに炎を灯して全身をコーティングしてやればいいのだ。
 でも、君は驚くだろうし。本当に何の力も持たない君の隣にいて力を使っていると、君と僕との差があまりに広大な気がして、嫌だった。
 雨に濡れながら「ダイジョーブ」と返して屋台の焼き鳥をかじる。
 君はそんな僕を見て困ったような顔をしていたけど、手にしたままのたこ焼きのパックを片付けるためにパキンと割り箸を割った。
 予定の時間までまだ三十分あって、お祭りの屋台とか雰囲気とかいうものも十分堪能した。あとは花火が上がってくれればそれでいい。
「ねー、カキ氷食べる?」
「食べる」
「じゃ買ってくる」
 暑いから、冷たいものが恋しかった。場所取りでずっと座り込んでいた河原の端で立ち上がってジーパンを払って屋台が並んでる祭りの中心に戻る。
 シロップの味をどれにしようかと考えて、夏らしいマンゴーにした。スプーンを二つもらって彼女がいる河原へ戻って、足が止まる。
 そういえばこの一週間僕とずっと一緒だったから、君は一人でいることがなかった。一人にする時間がなかった。僕と一緒にいるときは必然的に二人になるから、君を一人にするということがなかった。
 カキ氷を買いに少し離れた間に、は男二人に言い寄られていた。帽子だけ被って引っかけているパーカのせいでその表情は見えない。
 ナンパかぁ、と思考の片隅で笑って、その笑顔を貼りつけて彼女のもとへ行き「僕の連れに何か用事?」と男二人にわざとらしい声をかけた。夏らしく浴衣を来た男二人は僕を振り返ると揃ってなんだ男がいたのかよって顔をした。酒でも入ってるのか若干赤い顔だ。いいから失せろよ掻き消すぞと声には出さないけど顔に出したら男二人はそそくさと退散した。なんだ、骨のない。
 よいしょとの隣に座って「はい。マンゴー味」とスプーンの片方を差し出す。パーカを被って見えなかった彼女の表情は、今はほっとしたものになっていた。
「ありがと白蘭……困ってたの」
「そーだろうね。日本はナンパなんてしない国かと思ってたよ」
 しゃく、と細かく砕かれた氷をすくう。これはまだ食べたことがなかった。日本の風物詩ってやつか。
 困ったように笑った彼女は「ここ東京だよ。色んな人がいるからね」と説明になってるようななってないようなことを言う。
 初めてのカキ氷は冷たかった。頭がキーンとするほどに。
 花火が上がるまであと二十分と少し。
 その時間が終わり、花火を見終わったら、君とはお別れだ。
 ああしまったな。やっぱり予定が詰まってるからと断って帰るべきだったんだ、と空にしたカキ氷の器を眺めながら思った。器の底には暑さで食べる前に溶けてしまった氷の一部がシロップと混じって液体になって残っている。
 白蘭って僕はね、目的を果たすためならどんなことだってする奴なんだ。人殺しでも騙し合いでもゲームでも勉強でもスポーツでも、僕はなんだって負け知らずで、いつだって自分の思い描く場所に立ってきた。僕を脅かす何かなんて排除して、望まないものは全て葬って、僕はいつだって頂点に立ってきた。
 この世界でもそうなる。僕は一番上に立つ。
 …そこには誰もいない。並ぶ誰かがいたら、僕はきっとこれまでと同じように、壊してしまうから。
「あと十分だね」
「うん」
 携帯で時間を確認した君が空を見上げた。相変わらずぽつぽつと雨が降っている。
 僕と君の間に置いてあるビニール袋にカキ氷のカップを突っ込んだ。スプーンも入れて、ゴミ袋の口を縛る。
 これ以上、考えてはいけないと思った。だからへらっとした笑顔を浮かべて「そういえばさ、気になってたんだけど」と君にどうでもいい話を振る。
 どうして今日浴衣じゃないのとか、髪結えばよかったのにとか、君が退屈しない話をたくさんして、時間よ早く過ぎろと願った。
 十分という何気ない時間がとても長く感じて、僕の話に笑顔を咲かせる君の顔を見ているのがだんだん辛くなってきた。
 ようやく過ぎた十分と、小雨の降る中で上がった花火の一番手は、赤い色で曇り空の中に咲いた。
 隣にいる君を窺えば、どこかきらきらした目で花火の上がった曇り空を見上げていた。
 僕だって花火くらい見たことはある。祝砲の代わりに上がることも多いし、年が明けたら上がるものだし。
 ただ、誰かと一緒にわざわざ空を見上げて眺めたのは初めてだった。
「…早く終わればいいのに」
 花火の音に掻き消される独り言を漏らして、一人で苦笑いする。
 この花火大会の延期が決まった時点で僕は帰っていればよかったのだ。今回は縁がなかった、また今度にしておけばよかった。そうしたらこの一週間の君との時間なんて経験せずにすんだ。君のことをその他大勢の死んでも別にダイジョーブな人で終わらせることができていた。
(なら、今は?)
 手を伸ばして、躊躇う。僕より小さい、本当に何も知らないその手を、僕なんかが握っていいものかどうかと。
 どーんと上がった花火の音と周囲でざわつく人の声に心もざわついている。ぽつぽつと肌に当たる雨粒はさっきより少しだけ強い。雨のせいでぺたっとしてきた前髪を片手でかき上げて、一つ息を吐いて、上がった花火を見つめる。
(これで最後にしようって、思ってたんじゃないっけ)
 自問してみても自答はなかった。多分、それが答えだった。
 伸ばしかけていた片手で一度拳を握り、ゆっくり解く。その手でぎゅっと君の手を握ると、空を見上げていた瞳が僕へと移った。どーんと上がった花火の音と、君の瞳に映る花火の黄色。その光を見ながら僕は口を開いて「ねぇ」と言葉にする。君と過ごそうと日本に行くことを決めた自分を思い出しながら。
「日本に心残り的なものってある?」
「え? 私?」
「そー」
「心残り…とか、ないけど」
「そ? じゃ海外でもいい? たとえばイギリスとかアメリカでもいい? 暮らしていける?」
「え? え、うん。英語とかできないけど…」
 どーんと花火の上がる音がうるさくて君の声も僕の声も途切れがちで、顔を寄せたら君は反対に後退った。じりっと距離を取ろうとする君の手を捕まえているからその行動にあまり意味はないと思うんだけどね。「別にキスじゃないよ。声が聞こえないからさ」「え。え、」キス、って言ったら面白いくらい君の視線が泳いだ。
 どーんと花火の音がする。連続で打ち上がる音を聞きながらさらに顔を寄せると、君の目はさらに泳ぐ。面白いなぁ。
「じゃあキスしようか」
「え、」
 答えを聞かないで唇を寄せた。うん、頬に。軽く触れて顔を離すと何度か瞬きした君が頬を膨らませて「か、からかった…!」とか僕を睨むから、僕は笑ってみせる。「騙されたー」なんて、本当は唇にしたいのを我慢したんだとか、いつ言ってあげようか。
 どーんと花火が打ち上がる音が耳にうるさい。

 僕が座り直せば、君もそうした。ぽつぽつとした雨はさあさあとした小雨に変わり、僕と君を濡らしていく。
 打ち上がる花火を見ながら「僕と一緒に来てね。これからパスポート取ったり色々しなくちゃいけないけど」と言えば君は少し黙った。視線を投げると、君は目をこすっていた。ぱっと笑顔を浮かべると「うん」と笑う。
 君の手を握ってない方の手を伸ばしてその目元を指先で撫でた。目を細めて「なんで泣くの」と言えば君は困った顔で「うん、なんか、感動? したみたい」「疑問系?」「ごめん。自分でも上手く言えないんだけど、嬉しい、から。嬉しい、から…」白蘭、とこぼして君が僕の肩に頭を預けた。どーんと花火が打ち上がり、雨に負けて少し頼りない光をこぼして早くに消える。
 僕が一方的に握っていた手が、いつの間にかお互いが指を絡めて繋ぐ手に変わっていた。
 言ってしまおうか。君との一週間で確信してしまったこの気持ちを。

「うん」
「僕ね、君のこと」