「……ん、ん…?」
 喉が渇いたなと夜中に目を覚まして、ベッドの中で一度寝返りを打って、何か違和感に気付いた。
 何か狭い。ベッドは余裕のありすぎるダブルサイズなのにどういうことだろう? まだ眠いと訴える目をこすって暗闇の中視界をこらせば、二つ並べて置いてある、いつもはただの飾りである二つめの枕に見知った白い頭があるのが見えた。
 …ちょっと待て。
 その白い頭で確かめるまでもなかったけど、一応布団を掴んでちょっと剥がしてみた。
 私がベッドに潜り込んだときは一人だったはずだ。確かに一人だったし部屋の鍵も普通にかけてたはずだ。だっていうのに当たり前みたいに私のベッドに潜り込んで眠ってる白蘭に、ちょっと口元がひきつった。何をしてるかこいつは。
「こら。こら白蘭、何をしてんのよ」
 べちべち白い頭を叩いて抗議すれば、がしと手首を捕まえられた。「ねむい」と訴える眠そうな声にいっそ呆れる。「ここ私の部屋」「しってる」「…眠るなら自分の部屋行きなよ。狭いでしょ」「んんー」のそりとベッドに手をついて身体を起こした白蘭は、まだ制服のままだった。こんな時間まで仕事、だったんだろうか。しまったな、寝かせておけばよかったか。ちょっとバツが悪い顔をしてる私が分かったのか、眠そうな顔で彼が笑う。
「へんなかお」
「うっさい。もともとだし」
「そんなことないよ。はきれいだからね」
 もふ、と枕に顔を埋めた白蘭がさらっとそんな阿呆みたいな言葉を吐く。
 それにいちいち照れてしまう私も私だった。ぷいっとそっぽを向いて白蘭の手を剥がしにかかる。眠いくせに案外強い力で握られていて、剥がそうとすれば同じ力を返された。つまり剥がれない。睨んでやっても白蘭は枕に顔を埋めたままでぴくりとも動かない。私の手首を捕まえてる手にはこんなに力が入ってるくせに。
「喉渇いたの。ちょっと離して」
「いやだ」
「は? カラカラなんだってば。嫌がらせ?」
「じゃあだれかよぶから、いかないで」
 ぐっと強く手首を握られると少し痛かった。
 ほんの少し、一分か二分、冷蔵庫まで行ってコップにジュースを注いで飲んで戻るってだけなのに、嫌だってなんだ。行かないでってなんだ。
(…なんなんだもう)
 それで、結局彼を甘やかしてしまう私も私である。
 白蘭の希望のままベッドから抜け出すことを諦めた私は、彼が呼んだ白い制服を来たお姉さんが持ってきてくれたジュースを飲んだ。こんな夜中でも白蘭がちょっと通信すれば誰かが飛んでくる。こういう場面を見るとき、彼はすごい人なんだろうと毎回思う。
 お姉さんが退室して、広い部屋にカチンと鍵のかかる音が響いた。
 白蘭は相変わらず枕に顔を埋めていた。…いいかげんそのままだと窒息しそうだと思ったので、白い頭をぺちぺちと叩く。「窒息するよ」「んー」「白蘭」呼べば、彼はごろんと寝返りを打ってこっちに顔を向けた。枕に押しつけてたせいで前髪がくしゃくしゃになってる白蘭はぼうっとした眠そうな顔をしていた。
「おこった?」
「は? どうして」
「なんとなく……」
「別に怒ってないし。っていうか寝なさいほら、眠いんでしょ」
「ん…」
 さらさらしてる白い髪を撫でると、まどろむように目を閉じた白蘭が細く息を吐いた。それっきり彼は眠ってしまったので、私はこっそり溜息を吐く。
 私より何でもできて、私よりずっと人として優れている人でも、どうしようもないときってあるのかな。たとえば寂しくなったりとかするのかな。人肌が恋しいと思って人のベッドに潜り込んだりとか、あるのかな。今がまさにその状況なんだけど。
 …私が怒るはずがないのに。寝てる間に部屋に入られたくらいで怒ったりしないのに。そりゃ、ちょっとカチンときたけどね。
 さらさらと彼の白い髪を撫でる。くしゃくしゃになってる前髪をそっと指で撫でつけた。
 私の手首を握る力は相変わらずで、簡単には剥がせそうにない。もうその必要もないから、抗う理由もないけど。
 喉の渇きを満たしたのだから、これ以上起きてる意味もない。白蘭の隣でベッドに転がって天井を見上げて、視線を横に流す。猫背気味に背中を丸めて眠ってる彼はどんな夢を見るのだろう。夢なんて見ないくらい熟睡する派かな。無駄な部分がないもんね、白蘭って。
 そんなことを考えながら、天井を見上げて眠るのはやめて、ころんと転がった。
 せっかくなら、普段はガン見することのないイケメンさんを眺めながら眠ろうじゃないか。そしたらいい夢見れそう。あーいや待てよ、寝ても起きても白蘭とかそれもどうなんだ私、バカップルか、なんて自分に呆れたり一人ツッコミを入れたりしてるうちに意識はまどろみへと誘われ、夜の海へと沈んだ。
 朝目を覚ますと目の前でが眠っていて、少し思考が固まった。三秒ほどの硬直から解かれてああそうか、昨日長ったらしい会議が終わってからここへ来たんだっけとぼんやり自分の行動を思い返しつつ、のろのろと起き上がる。しまったなぁシャワーも浴びてないよ。髪もぼさぼさだ。ちょっとかっこ悪いところ見せちゃったかな。
 片手で髪を撫でて、いやにぎこちないと感じる自分のもう片手を辿って、いっそ呆れた。
「…そんなに離したくないのかなぁ」
 ぽつりと自分に向けて呟いて、どうやら眠る前に捕まえてから今まで掴んだままだったらしい彼女の手首を離した。ずっと同じ形を保っていたせいで強張っている手の筋肉を解しつつのろりと起き上がって、どうしようかなぁと考えた。視線を投げればまだ眠っている彼女がいる。今ここを抜け出して仕事に行くほど、僕は仕事優先人間じゃあない。
 よし決めた、サボろう。通信がうるさく来るだろうけどまぁいいや。
 もう一度ベッドに転がって枕に頭を預ける。白い枕に散らばる彼女の黒い髪に手を伸ばしてつまんでみた。
 黒。黒い色。それが気に入らない。だけど一度も染めたことがないって髪質のことを誇ってるに染めてなんて言えるはずもない。なんだっけ、ほら、髪は女の命? みたいな言葉だってあるし。髪型くらいは提案するけど、さすがに染めては怒られそうだ。
 ぼんやり寝顔を眺めていると、むにゃむにゃと唇が動くのが見えた。寝言かな、と顔を近づけてみると「た、ぃやき…」「…鯛焼き?」反芻して、首を捻る。確か食べ物だっけ。食べたいのかな、鯛焼き。
 さらにぼんやり寝顔を見つめていると、キスがしたくなってきた。寝てるんだしちょっと触れるくらいならいいかな、いいよねと誰に言うでもなく頷いて黒い髪のかかる頬を指で撫でた。キスしようとしたところでばちんと掌で口を塞がれて一つ瞬く。寝てると思ってた彼女はどことなく赤い顔でこっちを睨んでいた。そんな顔もかわいいなと思ってにこりと笑えば、ますます睨まれただけだった。いいんだけどね。
「何しようとしてんの」
「キスだけど」
「さらっと言うな。人が寝てるうちにそういうことはしないっ」
「えー。じゃあもういいでしょ、起きたんだから。キスしよ?」
「馬鹿じゃないの。鏡で自分にちゅーしてください」
「僕はそういう趣味はないなぁ」
 いつまでも口を塞いでいる手を捕まえて剥がした。うっと身構えるの逃げ腰に腕を回せば「こら変態」とか罵られたけど、まぁ君になら許してあげよう。
「ねぇ、キスがしたい」
 黒い髪に隠れてる耳に囁いてみれば、彼女のもう片手がばちっと耳を塞ぐ。「聞こえない聞こえない私には聞こえない」と硬く目を閉じたに小さく笑った。
(本当に嫌ならさ、耳を塞いだその手は口を塞ぐべきだったよね。ねぇ、じゃあまんざらでもないって、僕はそう思っていいんでしょう?)
 それが間違った解釈とも思えず、キスをした。
 これで何度目かなんてこともう忘れた。二桁辺りまで記憶してたけど、三桁に入ってから頭の中の数字が曖昧になってしまった。
 羞恥心とかそこら辺のもののせいでいつも少しだけ皺の寄ってる目元とか、肌に触れる吐息の感覚とか、やわらかくてぬくい温度の唇とか、その全てを記憶に刻み込む。
 もう何度だって重ねた口付けなのに愛しかった。彼女の全てが愛しかった。ただそれだけだった。
 自分がどうでもよくなるくらい、体裁を忘れるくらい、壊れるくらい、彼女のことが好きだった。
 好きな人ができる。自分を投げ出してもいいくらい想う人ができる。それは理性で制御しきれない本能のような衝動を伴って僕の身体や頭を支配し、ついには君という人がいないと使い物にならない、そういうものへと僕を変化させる。
 初めて人を好きになった。死にそうになってもただ一人を思って最後まで僕に媚びず、僕を睨んで僕の手を払いのけた君が、初めて好きになった。
 だいたいの世界で君は僕を知らず、知っても僕が敵になってから。
 そんな君が嫌で、過去の自分へ意識を飛ばした。
 誰かの隣に立つ君が嫌で、烏みたいに黒いアレの隣に当然のように立ち続ける君が嫌で、僕は過去を変えることにした。
 それがどういう影響を及ぼすのかなんてこと少し考えれば分かったけど、この世界はほぼ僕の掌の上だから問題ないさ。僕が生きていて君が生きていれば、世界が滅んだって構わない。それでも僕は君が欲しい。
 という人が僕だけを見ていられるように、君を取り巻く環境を変え、僕の望まないものは全て排除して、君と僕を必然のように引き合わせた。
 特別邪魔だった雲雀恭弥とその他ボンゴレ諸君には早々に消えてもらった。おかげでこの世界でミルフィオーレは敵知らずで、全てのことが上手く運びすぎて、少し退屈なくらいだ。
 その退屈もようやく手に入れた君との時間を過ごすために消化されていくのだから、おおよそ幸せ。そう、僕はここにきてようやく自分が幸せであることを実感していた。

 ただ、僕が飛べる十年前に、彼女はもう雲雀恭弥に出会っていたから。その他ボンゴレ諸君とも顔見知り程度の関係を築いてしまったあとだったから、今後を考えて、その記憶を全て消させてもらった。
 僕に都合がいいように君という人を作り変えた結果、僕の知ってる君とは少し違う君ができた。
 多少の性格の違いがあれど、君が君であることに変わりはない。僕がどうしようもなく君に惹かれていることも、僕には君が必要なことも、君へのこの想いも、全て変わらない。
 君を抱き締めて好きだと告げる。大好きだと言う。愛してると囁く。そういったことに少し反抗的な君はすぐに僕を肯定してくれることはないけれど、やがて折れて、僕のことが好きだと言ってくれる。
 その瞬間の幸福なことと言ったら。
 言葉では表せないくらいの充実感。もう他には何もいらないなと思うくらい胸がいっぱいになるあの感覚。
 痛いくらいに君が好きで、意識も無意識も苛まれるくらいに君を愛していて、世界の何よりも君のことが大事で、壊れるくらい、君のことが愛しくて。
 君を抱き締めて緩く背中を抱き返されたとき。繋いだ手を握り返してくれたとき。僕が笑って君が笑い返してくれるとき。僕はようやく幸せになれたんだな、と実感する。
 ……だから、ときどき感じる不安に似たこのわだかまりは、この罪悪感のようなものは、きっと忘れるべきなんだろう。
「僕はね、のことが本当に好きなんだよ。愛してるんだ」
 朝食の席でそう言ったところ彼女はジュースをすすっていたところから盛大に咳き込んだ。自分の胸を叩いてどうにかジュースを飲み下すと僕を睨みつけて「節操ってものはないの白蘭」とか怒ってくるから、へらっと笑っておく。
「本当のことだからね」
「それは嫌ってほど知ってる」
「伝わっててよかった。じゃあもはいどうぞ、僕への愛を叫んで」
「お断り」
 ぷいっと顔を背けたがクロワッサンを掴んで口に押し込んだ。若干赤い顔のままもくもくとクロワッサンを頬張るを眺めていると、クロワッサンを平らげた彼女がばんとテーブルを叩いてやけくそ気味に「はいはいはい私も白蘭が大好き、これでいい? ご飯食べなさい」「ん」手をつけてない朝食をびしっと指差されて、へらっと笑って仕方なくスープのカップを持ち上げる。朝はお腹空かないんだけど、が心配するなら少しは胃に押し込もうか。

 この世界で君は僕のもの。君と僕を引き裂く全てには消えてもらった。だから君はこれから先もずーっと僕のもので、僕だけを見ていて、他の誰も見ることなんてない。

 スープのカップを空にして、テーブルに頬杖をついて苺やらブルーベリーやらをヨーグルトに入れる彼女を眺めた。ちらりとこっちに視線をやった彼女が呆れた顔をする。「スープだけ? もっと食べてよ。白蘭細いんだから」「んー」受け流すと、彼女は一度口をつぐんでヨーグルトにフルーツを放り込む作業を続け、最後にメープルシロップをかけてふうと一つ息を吐いた。
「どうしたら食べてくれる? あーんてすれば食べる?」
 眉間に少し寄ってる皺とその言葉を聞くに、どうやら彼女は僕の小食なことを心配しているようだ。
 君にはいあーんてされたら、そうだな。もうちょっと食べてもいい。そう思えたから笑って「それいいなぁ。そしたら少しは食べるかも」と言えば彼女は仕方なさそうに席を立って僕のそばにくる。フルーツミックスヨーグルトにメープルシロップをかけた甘いそれをスプーンですくって「はいあーん」と言う顔は眉間に皺が寄ったままだ。朝食その他の控えで立ってる部下を気にしてるらしい。かわいいなぁ。
 彼女の手からヨーグルトをもらって食べる僕は、普段の無鉄砲非情ぶりからすれば相当おかしく見えるんだろう。呆気に取られたような顔をしてる部下を意識から除外して、目の前の彼女だけを見つめる。僕に食べさせたあとは自分も食べて、また僕に食べさせて自分でも食べて、を繰り返して器を空にした彼女は、次にスコーンを手に取った。真ん中から二つに割って生クリームとジャムをつける姿を眺めて、目を閉じる。

 痛いくらいに君が好きで、意識も無意識も苛まれるくらいに君を愛していて、世界の何よりも君のことが大事で、壊れるくらい、君のことがただ愛しい。

「白蘭あーん」
 言われるまま口を開けてスコーンをかじった。香ばしい香りとジャムに生クリームが口の中を埋めていく。
 これは夢じゃないかなんて漠然とした不安が渦巻いて目を開ければ、そこに君がいて、片手で僕にスコーンを食べさせつつ、もう片手で満足そうな顔でスコーンを頬張っていた。
 その手に掌を重ねればよく知っている温もりが沁みる。
 ああ夢じゃない。これは現実だ。君は僕のものなんだ。そう思うと本当に幸せで仕方がなかった。
「もっと食べる?」
「ん」
 スコーンを平らげると、次はアップルパイを用意された。フォークで切り分けて「あーんして」と言われ、口を開ける。そうやって過ごす時間が痛いくらいに頭の中を埋めていて、他の全てを麻痺させていく。
 君はまるで麻薬みたいだな。ぼんやりそんなことを思いながら朝食を終えて、仕方なく今日も仕事に行くことにする。
 シャワーを浴びて新しい制服に着替えて部屋を出るとき、君のことを考えた。新作のゲームがしたいって言ってたから、きっと今日はゲームばっかりしてるんだろうな。それで全然いいけど。
 ふらっと会議室に顔を出せばショウちゃんがきっと僕を睨んで「白蘭さん遅刻です! 朝の会議まですっぽかしてあなたって人は本当に…!」「ゴメンゴメン。そう怒らないでよショウちゃん」へらへら笑いながらガチャンと白い椅子に腰かけて一息。仕事の顔を作って「んじゃ始めよっか」と笑みを浮かべながら起動したパソコンで僕は違うものを見ている。
 新作のゲームをプレイしてる彼女の部屋を眺めながら会議の方も滞りなく進め、問題なく終える。お昼になってプチっと通信ボタンを押して「ーお昼だよ。一緒に食べようよ」と言えばびっくりした顔で部屋を見回した彼女がはぁと息を吐いた。『はいはい』と返ってくる声に満足してプチっと通信を切る。
 別におかしなことなんて一つもない。
 僕は他の全てを捨ててでもいいから彼女のことを手に入れたくて、壊しただけだ。扱いやすい環境を揃えて僕を好きになってくれるようにしただけ。少し記憶をいじって壊しただけ。君と僕の間にある邪魔なものを全部取り払っただけ。
 愛しい君の記憶を壊すことには少し躊躇ったけど、僕のためで、行く行くは君のためだ。だからこれは仕方のない処置だった。
 痛いくらいに君が好きになった。何が正しくて何が間違っているのかの基準を君としてしまうほどには君が僕の基準になった。
 僕になびかない君を初めてちゃんと見て、僕以外を見ている君が嫌で、殺してしまった。殺してしまってから後悔して時間を巻き戻し過去へ行き、変えた。未来を変えたくて過去を変えた。あるはずの未来はそうやってどこかへ埋もれた。
 君がいないと僕が機能しなくなった。
 君が僕の心臓になった。
 君が僕の全てになった。
 だから仕方がない。そのままの君では僕のことを見てくれないっていうんなら、僕はそんな君を壊すだけだ。
 壊して、作り変えて、僕だけの君にするだけ。
 別におかしなことなんて一つもない。
 ねぇ、恋ってそういうものでしょ。好きってそういうものでしょ。愛ってそういうことでしょ。
 痛いくらいに君が好きなんだ。壊れるくらいに君が好きなんだ。それが真実で、現実なんだ。
「はいあーんしてー」
「自分で食べます」
「つれないなぁ。朝のお返しなのに」
「お昼休みの時間決まってるんでしょ。ちゃちゃっと食べる」
 つんとそっぽを向く君にちぇ、と舌を出してパスタを巻いたフォークを自分の口に運んだ。
 僕と君しかいない部屋で隣合って昼食のパスタを食べる。僕は地中海風のなんたらってやつで、はボロネーゼ。空いてる片手はさっきから彼女の手を撫でたり握ったりと落ち着きがなくて、そんな僕に呆れた顔をしながら彼女はパスタを食べている。
 半分くらいパスタを食べた頃、落ち着きなく手や指をいじり続ける僕の手を君が握り返してくれた。
 たったそれだけのことでもじぃんと頭が痺れるくらいに嬉しくなって、僕は幸福の穴に落ちる。
 僕のために、行く行くは君のためにあるべき未来を葬って今を作った。君の記憶を壊して僕を見てくれる君を作った。それは間違っていなかった、と僕は自分を肯定する。
 だから忘れよう。不安にも似たこのわだかまり、この罪悪感を、忘れてしまおう。
「あのね、僕はホントにのことが好きなんだ。愛して止まないんだ」
「はいはいはい」
「本当だよ。ねぇ、僕のこと愛してるって言って」
「ご遠慮します」
「お願い言って。聞きたいんだ」
 ぐっと強く手を握ると彼女は顔を顰めてパスタから僕に視線を移した。ふうと息を吐くと眉間に皺を作って「一回だけよ」「うん」「…あ、愛してる」もにょもにょ語尾の消えかけた愛してるだったけど、十分だった。照れ隠しで眉間に寄せた皺も、伏せられた視線も、全て愛しかった。愛しさのままにフォークを手離して抱き締めたら「こら、こら食事中っ」と慌てた声を上げるから、そんな君もまた愛しくなる。

 ここにいる君は僕のことを愛している。
 僕も君のことを愛している。ただ望んでいる。心の底から。
 君の記憶を壊したことも邪魔な全てを壊したことも肯定しよう。
 そうして僕を想う君が残るのなら、君が僕を愛してくれるのなら、構わないさ。