昔から、手の届く玩具より、手の届かない空や星、どこまで繋がっているのか分からない海みたいな、遠いものが好きだった。
 手元の勉強を疎かにしていたけど、すべきときにはすべきことをやる。黒板の前に立たされれば仕方がないからその問題についてだけを考え、回答し、たいてい丸をもらう結果を出してきた。
 先生はできる子供であったわたしのことをよく褒めて頭を撫でてくれたけれど、正反対に、親はわたしのことを遠ざけ、触れないようになっていった。
 何でもできすぎて気味が悪い。まるで私達に似ちゃいない。
 政府要員養成校として名高いクロノメイに、できる子供として入学したわたしは、要するに、親に売られたのだ。
 お互いがお互いに馴染めていないことは理解していた。わたしは両親のことをつまらないことを仕事にして生きている人達だという認識でいたし、親は親で、わたしが何を考えているのか分からない、懐かない、まるで自分達の子じゃないようだと気味悪がっていただろう。
 だから、これでいい。いや、これがよかったのだ。
 わたしはクロノメイに入学したことを前向きに捉えた。
 情報管理コースには興味がなかった。医術生命コースにも興味は湧かなかった。メカニックは創造性があって少し面白そうだと思ったけれど、わたしは、将来的に自分の力で空を飛べるであろう輪コースを選んで狭き門の扉を叩いた。

 天才。
 周囲に言わせるとわたしというのはそういう存在であったらしい。
 自分でそうだと思ったことは一度としてなかったけれど、客観的によくよく考えてみると、わたしを表すにはその言葉が一番適切なのだと納得した。
 それが、気味が悪いくらいに何でもできたわたしを前向きに肯定する、唯一の言葉なのだ。

 飛ぶようにして学生過程を終了したわたしは、即戦力として艇に迎えられることになった。
 その時点で戸籍は抹消。これ幸いとばかりにわたしをクロノメイに売った両親は、わたしが輪に入ったことを知って喜んでいるだろう。なぜなら、わたしが輪に入ったことによって、あの二人には誉命金が出るのだから。ちっとも懐かなかった気味の悪い子供がいなくなって、代わりにわたしを育てた分は軽く補うお金が入ったのだ。今頃グラスを合わせて乾杯でもしているのかもしれない。
 これで、私とあの人達の間の唯一の血の繋がりも国家防衛最高機関『輪』という鎌によって断ち切られた。
 切りたいと思っていた縁。ようやくちぎれて、ほっとした。
「へぇ〜すっげーな! こんなちっさいのにもう腕輪か〜」
 指定の場所で輪からのお迎えを待っていると、やってきた赤髪の人にぐーりぐーりと頭を撫でつけられた。くしゃくしゃだ、と思いつつその手を押しのけ「どちら様ですか」と睨むわたしに赤髪の人は「同類だよ」と左手首の腕輪を示してみせる。
 同類。わたしより先に学園を卒業して輪に入った、つまり、先輩か。
 赤髪の人は朔だと名乗り、自分は壱號艇の輪闘員でわたしを迎えに来たのだと説明した。
 必要なものは支給されると聞いていたので、最低限必要なものをまとめたトランク一つを提げて、初めて壱號艇のゲートをくぐり、火不火殲滅のため行動する艇へと乗り込む。
 それが今から二年ほど前の話になるだろうか。
「朔さん……あの…」
 今のわたしはと言えば、ようやく両手の指の数だけの歳になったところだ。
 そして、そんなわたしにあれこれワンピースを当てているのは間違いなく朔さんだ。わたしの先輩。次期壱號艇長だとも噂されている、楽観主義の大雑把な人。かと思えば実は状況把握力が高くて目端が利く、上の人からは嫌われそうな性格の人。「ちょっと待て、どっちが似合うか真剣に悩んでるんだ。さすがに二つはなー。ブランドものって高いんだなぁ」目の前でしみじみそうこぼして水色でふわっと裾が広がったワンピースとハジけた橙色の裾がアシンメトリーになっているワンピースを見比べる朔さん。
 真面目だ。この人はいたって真面目に、わたしの普段着を選んでいる。
 ちょっと付き合ってくれと言われて仕事だろうかと安請け合いしたらこれだ。完・全・なる朔さんの趣味。
「あの…わたし、服ならもうたくさんありますから…」
「女の子がオシャレに無頓着でどーするよ? そんなんじゃデートいけないぞー」
「相手もいませんから…」
「それにだなぁ、お前はまだまだ成長期だ。ちょっと大きめくらいのを買っとかないとすぐ小さくなるぞ」
 ワンピースの水色を選んで落ち着いたのかと思ったら、今度はジーンズの短パンを持ってくる。齢10の子供を前に20にもなった大人が真剣な顔で短パンを見比べている。普通の紺色と海っぽく波や貝殻を描いた夏っぽいノリのパンツ、交互に当てては真剣に悩み、結局海っぽいものをチョイスした。
「朔さんっ」
 いい加減にしてくださいとわたしが怒鳴ると、彼はようやく「へいへい」と肩を竦めて大量に服が詰まったカートを押してお会計に行く。
 …その背中だけならどこにでもいそうな人なのに、とわたしはひっそり溜息を吐く。
 けれど、残念かな、壱號艇で一番優秀と言われているのはこの朔さんだ。世の中どういうカラクリになっているのか、輪に入ってからもまだよく掴めない。
 朔さんは自分の買い物にわたしを付き合わせ、ついでとばかりにわたしの服をほぼ趣味で選んで買い与える。それから腹が減ったと言ってレストランだのカフェだのに連れ込み、平門と燭ちゃんに土産を買っていこうと土産物の物色に連れ回される。
 朔さんが行く場所はだいたい一流か、悪くて二流のお店なので、レストランの食事はおいしいし、美容院代も娯楽代も全部出してくれるし。ゲームセンターで非売品のニャンペローナの大きなぬいぐるみを獲ってもらっておいて、文句なんて言えないのだけど。
 似合う似合うと店員さんにも朔さんにも囃し立てられ、引くに引けなくなった民族衣装的なスカートとTシャツと頭には花輪をのっけた姿で艇に戻ると、普段のわたしの支給品しか着ない地味めな姿に見慣れている他の闘員の人達がぎょっとしているのがよく分かった。
 ぷるぷる震える拳を握って、これ燭ちゃんが好きなんだよ、一つやるよ、と手に握らされた珊瑚の黒砂糖漬けのリボンを解き、封を破って黒っぽいのをつまんでガリガリかじる。なるほど、確かにおいしい。さすが燭さん、舌も肥えているな、と感心したのも束の間だ。
 この晒し者みたいに目線を集めている現状が、とにかく、嫌だ。
 それもこれもぜーんぶ朔さんのせいなのだ。
 広い背中をきっと睨み上げる。「買ったやつは兎が部屋に持ってってるからな」とマイペースに言うこの人はわたしの視線を感じていないのだろうか。そんなわけがないのに知らないふりか。
「朔さん」
「ん?」
「わたし、服はもうたくさんありますし、買い物へ連れて行ってくれることは嬉しいですが、ありがた迷惑です」
 どうだ。はっきり言ってやったぞ。
 ざわっと揺れる周囲を気にせず睨みつけるわたしに、ようやくこっちを振り返った人はへらっとマイペースに笑って一言。
「あー、そうだろうな。でも連れてくぞ」
「ハァっ?」
 話を聞いてないのかこの人はとプッチンしたわたしにどーどーと手をかざした彼は一言、真顔でこう言った。
「俺さ、実はロリコンみたいなんだ。といるのが楽しくて仕方ない」
 この言葉を聞いて私は貳號艇にすっ飛んで逃げた。
「平門さあぁん!」
 平門さんの部屋にすっ飛んでいってバタンと扉を開けると、紙の本を集めて読むことが趣味で満喫していたらしい平門さんが煩わしそうに顔を上げた。
 平門さんは朔さんと同期のできる人である。朔さんが大雑把で適当に事をこなす人なら、平門さんは冷静に物事を分析し判断を下す思慮深い人だ。
 朔さんがよく平門さんに絡んでいるので、朔さんに絡まれるわたしとしては、平門さんは貳號艇の闘員であってもお知り合いの、頼れる先輩なのである。
 ずれたメガネを指で押し上げた平門さんが「なんだ、どうした」とぼやく程度の声量で言い、部屋に飛び込んできたわたしを見て目を眇める。
「なんだその格好」
「つ、朔さんがぁ」
「ああ」
 それだけで彼は納得してしまったらしいが、私が言いたいのはまた着せ替え人形にされたんですよという愚痴ではない。「朔さんが、ロリコンって…ロリコンって……っ」口をパクパクさせて縋るわたしに平門さんははぁと深い息を吐いて眼鏡に手をやる。普段から本を読んでいるからだろう、平門さんの服からはほんのりと紙のにおいがする。「それがどうした」「え?」「…お前、まさか今まで気付いてなかったのか?」「…えっ」ばっと顔を上げたわたしを呆れたような顔で眺めている平門さん。
 そ、そんな。周知の事実だったなんて。それじゃあもしかして、二年前の、輪入團当初から…?
 さあっと顔色を青くしただろうわたしに、平門さんはやれやれと首を振る。「ちなみに」「…はい」「俺もそうだ」「……は?」新たなる衝撃の事実にポカーンと放心気味だったわたしは、口角を持ち上げて笑ってみせた平門さんにずざっと距離を取った。かなりの反射で二メートルくらい一気に離れた。そのわたしを捕まえようとしていたのか、中途半端に伸びた平門さんの手がひらりと揺れて「残念」と笑う。
 ちなみに平門さんも次期艇長の有力候補の一人である。
 壱號艇は朔さん、貳號艇は平門さん。そのどちらもがまさかの ロリコン疑惑。
「じ、冗談でしょう。朔さんはまだしも平門さんは、悪乗りでしょう? そうですよね。そうだって言ってください」
 本を閉じた彼が静かにソファから立ち上がったのがとても怖い。答えない代わりに微かに笑ったその顔がとても怖い。
 わたしは持てる最高の力でもって平門さんの部屋を逃げ出した。答えを聞いたところで人をおちょくるのが常の平門さん相手ではそれが真意かも分からないし、知ってからでは全て遅い気がしたのだ。
「おっ、発見! よくも逃げたなー!」
「、」
 げ。朔さんの声。わたしを追ってきたのか。「お、平門? 何してんのお前」「見れば分かるだろ。を追ってる」「はぁ? なんで」「お前と同じ理由だよ」「はー、そうかそうか。じゃあ負けられねぇな!」「…っ!」この会話を聞いたわたしはさらに全速力で逃げたものの、わたしがどれだけ天才でも、子供の体力では大人の男の人に勝てるわけがなく。エネルギー切れであっさりと捕まってしまった。
 バテてぐうの音も出ないわたしを捕まえたのはどうやら平門さんらしい。くつくつと人のと悪い笑みを浮かべて「残念だったな」わたしのクリーム色の髪をすくって唇を寄せる。
 全力で逃げすぎたらしく、過呼吸気味になったわたしは、念のためと医療室に連行された。
 この日はたまたま貳號艇にいたらしく、燭さんがわたしのことを診てくれた。ついでに平門さんと朔さんを追い出してくれた。
「輪闘員がなんて様を晒してる」
「…すみません」
「大方平門と朔が絡んでいるのだろうが? お前はあの無礼者と慇懃無礼者とは違うのだから、闘員として誇れる姿であれ。今からそれを意識すれば、お前は立派な大人になれるはずだ」
「はい…」
 いつもなら厳しく聞こえる燭さんの言葉が今はほっとする。この人は変わらないな、と。
 ちなみに燭さんは知っているのだろうか、とふと気になって、聴診器を外した燭さんに訊いてみた。「あの、燭さん」「なんだ」「朔さんと平門さんがロリコンだって知ってましたか」二人の名前が出た瞬間燭さんは盛大に顔を顰めて、続くロリコンの台詞にさらに顔を顰めに顰めた。せっかくの端整な顔が台無しである。
 それから、じろりとわたしを睨んで、頭のてっぺんからつま先までざっと眺めて、
「まぁ、マスコットなんだろう」
「…はぁ?」
「ありていに言えば、お前は特徴のない顔をしているが、それだけにとっつきやすく誰にでも馴染む。…簡単に言えば、妹のように思っているんじゃないか」
「……妹…」
 そう言われたことで、胸がざわついた。
 妹。
 家族。
 断ち切れたはずの両親のあの目がわたしを見ている気がした。燭さんの目が両親の目になった気がした。否定、された気がした。「違います。妹なんかじゃありません。わたしに家族はいません。わたしは、国家防衛機関『輪』第壱號艇闘員。それ以上でもそれ以下でもありません…」口走った声をつぐんで診察台の上でもぞりと動いて燭さんから顔を背ける。
 ここに来て振りきれたはずのものが、まだわたしを支配している。どうしようもなく。
?」
「わたし、妹なんかじゃありません。わたしに、家族はいません」
 ぐっと拳を握ったわたしの耳に「そんなことはないぜ!」と明るい声が割って入った。すかさず燭さんが振り返ったのが気配で分かる。「貴様どこから入った!」「あっちの窓が開いてたからそっから」「無闇に開け放つな! 無闇に飛び回るな! 好き勝手するための輪の能力ではないぞ!」「はぁいはぁい燭ちゃんちょっと待って。今結構大事な話を、」朔さんの親しげな声が我慢ならなくて診察台の上から飛び降りた。朔さんと燭さんから逃げるように扉に手を伸ばして、開け放った扉の向こうに平門さんがいて、走り出そうとしていた身体に急ブレーキをかける。
「どうした? 飛び込んできてもいいんだぞ」
 おどけたように腕を広げてみせる平門さんからじりっと後退る。
 嫌な感じに背中が汗をかいている。
 わたしは、輪に馴染み始めていた。わたしのような気味の悪い突然変異みたいな天才でも受け入れた輪を、それなりにできる人や先輩が集まるここを、好ましく思うようになっていた。
 けど。
「わたし、妹じゃありません」
 否定される前に否定する。自分から切り裂く。自分を切り裂く可能性を。
 平門さんはふうと肩を竦める。「そうだな。妹じゃない」「けど妹みたいにかわいいぞー」背中側からかかる声が耳にじわりと沁みて痛い。
「わたし、妹じゃありません!」
 必死に否定した。それしか分からなかった。
 また二の舞はごめんだ。平気なふりをして膝を抱えるなんてごめんだ。
 うーと猫みたいに威嚇するわたしを、不意打ちで抱き締めたのは朔さんで。「そんな必死になって否定すんなよ」とわたしの頭を撫でる。その手と腕を振り払う。「わたしっ、妹じゃ、」「分かってるさ」振り払った先で今度は平門さんの腕に捕まった。ジタバタ暴れるわたしを抱えて「だから、家族になろうって言ってるんじゃないか」と暴れるわたしを抱き上げる。
 家族。
 わたしを捨てたそれが。今度は、わたしを拾うのか。身勝手に? 好き勝手に?
「お前には、愛が足りてないんだよ。ただそれだけなんだ」
 平門さんが言っていることがよく分からない。分からないよ。
(アイって何? おいしいの? 天才だと言われたわたしに足りていないものって何? それがあれば、わたしはもう一人で部屋で膝を抱えていなくてすむの?)
 泣くなよ、と案外と広い肩に頭を押しつけられる。
 …紙の本と、古い本のにおいがする。平門さんのにおいだ。
「そーそー。俺が服買ったりレストラン連れて行くのだって立派な愛なんだぞ? さ、嫌がってるように見えたけど、実はけっこー楽しかったろ?」
 俺は楽しかったぜ、と笑う朔さんに「それはお前の一人よがりだろう」とツッコんだのは燭さんだ。「そもそもお前は馴れ馴れしすぎる。いくら相手が子供だからといってだな…」グチグチ朔さんにツッコミのような愚痴を連ねているのは、普段の鬱憤を晴らしているのだろう。
 平門さんは必要以上に人に触れない人だと思っていたけど、何度も頭を撫でられていると、なんだか眠たくなってきた。さっきまで全力で逃げ回っていたせいだろうか。
「……わたし、かぞく、きらいです」
「好きになれるさ。俺、朔、燭さんが家族だったら、毎日賑やかで楽しい気がしないか?」
「…それは……」
 もやっと想像した。手のかかる弟二人に口うるさい燭兄さん。燭兄さんに怒られても飄々としてる朔兄さんと、さりげなく言い返す図太さをもっている平門兄さん。
 そして、最後に妹のわたし。個性豊かな兄に囲まれてどうしたものかと苦笑いをこぼしている。
「それは、すごく、たのしそうです…」
「そうだろう。それでいいんだよ。たったそれだけのことだ」
 ぽん、と頭を叩かれる。
 そうか。たったそれだけのことなのか。わたし、たったそれだけのことが分からなくて、今までやきもきしてたんだ。
(なんだ……)
 ふっと吐息して目を閉じる。
 なんだ。そうか。それが本当にあるべき家族の姿なんだ。
 …もし本当にそんな家族になれたら。そんな存在になれたら。それは、きっと、賑やかで楽しい毎日に違いない。