秘書武官というのは、つまり何でもできなければこなせる職務ではないと分かっていた。
 残念ながらそれなりにできた頭と健全な身体を持って生まれたため、ボクは大抵のことは何でもこなし何でもする。勉学だろうが教示だろうが宗教だろうが作法だろうが馬術だろうが大抵憶えてしまうとできるだけに退屈になり、そのうちやらなくてもいいことまで退屈しのぎでやり出した。剣、武術、読書、手をつけなくていいものからより深いものまで何でもやった。やってみてできないことがあるとそれに夢中になり、こなしてしまうまでになると途端に厭きた。
 ボクはそういう性分らしいと気付いたのは少ししてから。気付いたとしても別に何が変わるわけでもないと思い、その日はそれなりにできると英国で評判の剣術師を呼んでさらに上の技を磨いていた。
 だけどやっぱり退屈はやってくる。
 そんなときに都合がよかったのが、当時のボクにとっての彼女という存在だった。

「今日は剣をやったの? すごいねグレイ」
「別に。ボクよりすごい人なんてたくさんいるよ。これくらいできて当たり前」
「そっか。そうかなぁ」
「そうだよ」

 メイド服の裾をいじって彼女が納得してなさそうな顔をする。ボクはと言えば当然のように貴族の格好で、使用人と並んで他に誰もいないベンチに腰かけて空を仰いだところ。まだ夕暮れまで時間がある。部屋に戻ってもすることがない。あったとしてもめんどくさいからしたくない。やりたいことなら別だけど。
 彼女はボクの親戚に当たる。だけど使用人だ。身分の違いってやつで。家が没落したんだったかそんな事情もあった気がするけど忘れた。ボクにとってそれは些細なことで気にすることじゃなかったから。

「グレイは」
「うん?」
「きっと、すごい人になると思うな。私の感」
「すごい人ねぇ…そうかなー」

 幼少時代、ボクの傍らには彼女がいて、ボクのために微笑んでいた。
 彼女がにっこり笑う。ボクを肯定する。ときどき否定の言葉も言う。嘘を吐かない素直な彼女にボクは使用人以上の人として接した。彼女に心を許して預けていた時があった。彼女もボクにだけ見せる笑顔があるのだと分かっていた。たとえ使用人内でどんな問題が起ころうとも表立ってボクは彼女に手を差し伸べることはなく、また彼女がそのためにボクに駆け寄ることもなかった。表立ってボクがどんなに親にぐちぐち言われようが、彼女はただ使用人として表情を変えず部屋の隅に控えていた。ボクと彼女はそういう関係だった。
 少なくとも、ボクが家を継ぐことよりも興味のあることを優先する時までは、ずっとずっとそうやってボクらはお互いを信じてこれから先も一緒に生きていくのだろうことを疑っていなかったのだ。
「え? グレイ、今なんて」
「秘書武官っていうのやることになった。試しに受けてみたら女王陛下のとこの試験に受かっちゃってさー、そっち行ってみる。兼執事までくっついてくるから退屈とは無縁でいられそうでね。厭きるまでやってみようと思うから、家からは出ないとならない」
「…そっか」
 決まったことを報告した、何年か経った日の夜。ボクの就寝の手伝いをする彼女が見る限り納得した顔をしていない。まぁそうだろうと予想してたので用意してた言葉のどれを言おうかと頭の中でチョイスしてたところに「あのね」と声がかかった。「うん」と返事をすれば彼女は床の赤い絨毯を見つめていた。相変わらずのメイド服姿で細い指を組んで「あの、言ってなかったんだけど」と小さな声。首を捻って「何を」と続きを催促すると、彼女が視線を上げてボクを見つめた。芯がぞっとするような光のない瞳を見た気がして何度も瞬きする。現実は変わらなかった。彼女は、暗い瞳をしていた。
「私、それなの」
「は?」
「秘書武官っていうの。兼メイドだけど」
「…待った。君はボクの屋敷に勤めてるだけのただのメイドでしょ? 秘書武官っていうのは雑務以外に戦闘とかするんだよ? 君にできるわけが、」
「やってみる?」
 さらりとそう言った彼女が部屋の隅まで行ってバコンと床の一部を外した。絨毯のない石の床の下には護身用の剣が隠してあって、なぜか三つも入ってる。そのうち二つを持ち出した彼女が一方をボクに放った。思わずキャッチしてから我に返って「待ったホントに待った、ねぇ」ボクの制止の声を聞かずに彼女が剣を抜く。からんと鞘の落ちる音がして彼女が剣を構えボクを見た。
 鞘を持つ自分の手が迷う。抜かないとマズイと今までの感覚が訴えてくる。今の彼女からは、それだけの気迫に近いものを感じた。
(なんだって、こんなこと)
 彼女は通常人。ただのメイド。今まで接してきた彼女のことが頭から消えない。だけど暗い瞳でこっちを見ている彼女がそこにいる。現実にいる。それなのに剣が抜けない。柄を握ったまま手が動かない。指が一本も動かせない。
 何よりこの身体が。この頭が訴えている。今までの彼女との記憶とその感触を。過ごした日々のことを。
「…無理」
 だから、放棄した。絨毯の上にがしゃんと剣を転がす。本気で気持ちが参ってたから降参と手を挙げて「無理、ホント無理。君に剣を向けるとかできない」と宣言。
 少しして、呆れた息を吐いた彼女が「そんなんじゃ秘書武官なんて無理だよグレイ」とこぼして剣先を下げた。鞘を拾って剣を納め、絨毯に転がる剣を拾った彼女がボクの顔を見てから困ったように笑った。
「ねぇ、私がもしスパイとかだったらどうするの。今の、グレイは降参で死んでたよ」
「そんなこと絶対ありえない。君はボクを裏切ったりしない」
「そんなの分からないじゃない」
「ありえない。絶対。ぜーったい」
 ばふと布団をのけて素足で絨毯を踏んで、バコンと床板をはめ直した彼女のことを抱きすくめた。初めて彼女をこの腕に閉じ込めた。思ってた通り細い身体だった。女の子って感じ。それなのにこの違和感は、ボクが秘書武官なんて言葉を出したせいか。
 彼女は何も言わなかった。だからボクも何も言わないでぎゅううと彼女を全力で抱き締めた。そうしないと彼女がどこかにいってしまうんじゃないかと思ったし、そうでもしていないと、満足もできなかった。
「ねぇ」
「うん?」
「貴族と使用人の恋ってさ。実ると思う?」
 我ながら馬鹿なことを口走った。そう思った時にはもう言葉は喉から出てしまったあと。
 彼女は口を閉じて、それからこっちを振り返った。そこに暗い瞳はなくて、ただ困ったように笑った彼女の顔が窓からの月明かりに照らされて青く白く仄暗く光って見えた。
 付け足して、ボクの気のせいでなければ、彼女の頬は朱色に染まっていたと思う。
 その夜のことは、今でもよく夢に見て、細部まで本当によく憶えている。
「グレイ? グーレーイ」
「、」
 呼ばれてぱちと目を開ける。ソファで少し休憩するつもりがいつの間にかうたた寝していたらしい。肘掛けに預けている頭で顔を上げると彼女が見えた。夢の中より少しまた大人になって美人になった彼女が。
「おはよー」
「夕方です。フィップスが捜してたよ? 議題の整理があるのにどこ行ったって」
「ああー忘れてた。っていうか寝すぎた…もっと早く見つけてよー」
「無理言わないで」
 腕を伸ばして指先で彼女の長い髪を弄んだ。「昔はどこにいたって見つけてくれたもんだけど」とぼやくと彼女が眉尻を下げて困った顔をする。「ここはお屋敷じゃないし、お城は広いから。…ごめんね」目を伏せて謝るもんだから肩を竦めてソファから身体を起こした。別にそういう顔をしてほしかったわけじゃないのに。
 っていうか、よく寝た。フィップス怒ってそうだ。どう弁明しようか。
「あ」
「ん?」
「少し皺になってる」
 上着をつまんだ彼女がむぅと眉根を寄せた。あははと笑って「いいよいいよ、動いてるうちになくなるから。いい生地だからさぁここのやつ」白い制服の裾を引っぱって襟口のリボンだけ結び直した。「変じゃない?」「うん。大丈夫」ボクの周りをぐるりと回った彼女が頷いたので頷き返した。さて、じゃあフィップスのところに行ってこよう。
(…その前に)
 入り口まで行きかかったところで回れ右で「ねぇねぇ」と彼女を手招き。クエスチョンマークを浮かべてこっちに寄ってくる彼女ににっこりした笑みを向けて「いただき」と囁いて抱き締めた。「グ、」「二人のときくらい名前で呼んでよ。何度も言ってるのに聞いてくれないね」「…誰か、いたら困るよ。こういうの」「だぁれもいないよ。いないって分かってるからやってるの」ぎゅうと抱き締めるとはぁと吐息される。それから身体の力を抜いた彼女が「チャールズ」と名前で呼んでくれた。満足して目を閉じて「」とこぼす。彼女のさらりとした長い髪に手櫛を入れると花の香りがした。いいにおいだ。
 興味のあった秘書武官兼執事がくっついてくるこの仕事に、彼女を巻き込んだ。引き込んだとも言うのかもしれない。屋敷に置き去りにすることができなかった。紛いなりにも告白っぽいことを口走ったし、そのとき自覚もした。ああそういうことかと今までの日々で腑に落ちる点がいくつもあった。だからこそ連れて行くべきか否かで迷い、悩み、結局ボクは自分の貴族名まで使って彼女をここに入れることにした。
 ただのメイドでよかった。秘書武官兼執事の仕事をするボクのそばにいてくれればそれでよかったのだけど、彼女は試験を受けると言った。受かったボクからすればそう簡単でもないと分かってるし、できないだろうと思ったからまぁやってみたらと返した。
 今思えば、そこが間違いだった。そこでボクはボクのメイドでいてくれればそれでいいと言えばよかった。断言しておけばよかった。受からないだろうと思ったからやってみたらなんて軽いことを言ってしまったばかりに彼女は試験を受け、合格してしまった。秘書武官兼メイド。何でもできること前提の、決して楽ではない仕事。それなのにボクと同じところに彼女がいる。一緒に立っている。
 ボクは一体彼女をどうしたかったんだろうか?
 こんなふうに剣を取って人を殺してほしかったわけじゃない。お互いもうきれいな白い手でないことは分かってる。ただそれでもボクの目に映る彼女はいつも白く、細い指で剣の柄を握る。練習試合では今のところ百勝百一敗。負けてる。力と体力だけの単純計算なら絶対ボクが上回ってるはずなのに、彼女は技術と工夫の点でボクを上回る。ボクの他にも秘書武官はいて、フィップスと剣を交えることもある。こっちは確か結構勝ってるのに、ボクは彼女のことばかり気にしている。
 だって好きだから。
 理由は、それだけで十分じゃないか。
「誰かきたよ」
「……」
「グレイ」
 名残惜しさにぎりぎりまで彼女を解放できず、こつこつ響く靴音に彼女があわあわ腕の中で抜け出そうともがくでのしょうがないなぁと解放した。ぱっと距離を取った彼女と、いたって自然体を作りながら「じゃあね、また」と彼女に手を挙げて出て行こうとすれば、捜し相手のフィップスが怖い顔で腕組みしてそこに仁王立ちした。頭一個分の身長差があるからこういうときフィップスの方が優勢。
「うん、分かっちゃいるよ。ごめんね?」
「…皺になっているな。堂々とサボりか」
「だからごめんって。お詫びに明日の雑事何でも一つ引き受けるよ」
 怖い顔のフィップスの肩を叩いてきれいすぎる回廊を歩き出す。指摘された皺になってる上着の裾を引っぱりながら「行くよー」と声を上げて振り返る。釈然としないって顔をしてるフィップスが渋々こっちに歩き始め、部屋の入り口から顔を覗かせた彼女がばいばいと小さく手を振った。肩を竦めて歩き出すと並んだフィップスに「サボるのはまだいいが、お咎めをもらわない程度にしておけよ」と釘を刺される。「はいはい」とぼやきつつちらりと無表情の横顔を見上げた。表情がないだけに何を考えてるのか読みにくい。
 フィップスは気付いてるだろうか。ボクらは巧妙にここまでをやってきたつもりだけど、ボクと同じくらいの器量の奴がここにはたくさんいるのだから、あまり過信はしない方が身のためだ。
 でも一つ訊いてみたくなった。
「ねーフィップス」
「なんだ」
「最終的に我が身を滅ぼすほどのものって、剣の一撃かな。それとも老い? もっと他にあるかな」
「…そうだな。俺には想像でしかないが」
 かつんこつんと二人で回廊を歩く。「愛というやつはどうだ」そうぼやかれてボクは思わず笑った。
 なんて美しい言葉。愛だって。見聞きするだけが専門の言葉だ。思わず笑ってしまうようなチープでありふれた言葉。
「愛ねぇ。愛ねー」
「…覚えがないわけじゃないだろう?」
 かつ、と歩みが止まる。フィップスは歩き続けた。さっきまでおかしくて笑えてたのに、今のボクにはもう笑みはどこかに消えていた。たださっきこの腕に閉じ込めた彼女の体温とさらりとした髪の感触を思い出した。今すぐ駆け戻ってもう一度彼女を抱き締めたい衝動に駆られるほどに。
 薔薇のにおいに視線だけ向ければ、すぐそこに中庭の薔薇園が広がっている。
 だけどボクは薔薇の香りより、彼女の髪の方が好きだな。今日は花の手入れでもしてたんだろう、花の香りがした。違う日は太陽の香り。ふわふわやわらかい輪郭をなぞるように、彼女はいつも微笑んでいる。
「何してる。行くぞ」
「はいはーい」
 止まっていた足を踏み出してかつんこつんと回廊を大股で進み、薔薇園を横切る。
 ボクはやっぱり彼女の髪の香りの方が好きだ。

たわいのない人間としての執着心
(君は、ボクのもの)