本当に人間というのは馬鹿らしい。とても愚かだ。たった一人がいなくなったくらいで世界が死んでしまったかのように沈黙するのだから、本当に人間という生き物はどうしようもない。
 どうしようもないとは思うが、そのどうしようもなさが起こしうる様々な出来事もまた私は体験している。今回もあまり経験する機会のない貴重な体験をした。
 主は魔を扱うには未熟すぎる少女に自らの魔法を跳ね返され死に至った。正しくは魂が抜けたような状態と表現するのかもしれないが、年齢のことも考慮すれば主の身体はそうは持つまい。間もなく死に至る彼女の魂は私が貰い受け、私はまた首輪をなくした獣になる。
 少女は、全身全霊、自分の全てを懸けた。だから主の魔法を凌ぐ力を発揮した。もとから才のあった少女だからこそ成し得た奇跡だった。
 その代わり、少女は死にかけた。短時間で命を削りすぎた身体は生命活動の停止を訴えていた。にも関わらず少女は満足そうに笑っていた。少年と一緒に地面に転がる様は哀れにも思えたのだが、少女は満足そうだった。このままでは近く終わってしまう命だということを理解していないのだろうかといぶかしんだが、そうではない。少女は少年を守ったことに本当に満足しているようだった。
 私は今の主が死ねば制約のない獣になる。
 主は力を貸せと私に命令したが、自分の命を守れなどという命は下さなかった。少女の才を甘く見た主の自業自得の結果だ。
(…このまま死なせてしまうのも惜しい気がしますね)
 安らかな寝顔をしている少女に手を伸ばし、触れる。体温が低下してきている。放っておけば五分ともつまい。
 さて、ここで私の選択肢は二つほどある。一つはこのまま少女が死ぬのを待ち、その魂を食らうこと。魂を捕食する悪魔からしたら当たり前の思考だ。そしてもう一つは少女を生かすこと。そののち契約を交わすもよし、飽きるまで観察してから殺すもよし。まがりなりにも少女に興味を抱いた私としては、ここでこのまま死なせてしまうのは惜しいという気がする。
 考えたのは五秒ほどだった。
 慈善事業をしているわけではないので、少年の方は放っておく。少女の方にだけ手を施し、消費しすぎた魔という生命力を注ぎ込んで命を繋げさせる。
 そこで少しの意地悪を思いついた。
 少女の記憶を読み取り、一冊の本を創造する。少女の白いドレスから連想したやわらかい白の装丁の本を。ぱらぱらとページをめくれば少女の文字でこれまでの日々が綴られていく。今日の出来事も含めて全て。
 ぱらり、と最後のページで手を止めた。
『いつの日か、また会えるように』
 祈りのような言葉だった。それは現実になりますよ、と胸の内で返して本を置き、少女を抱えて立ち上がる。抜け殻状態になってしまった主には興味が湧くはずもないので放置した。
 意識のない少年の方を見下ろす。
 王子様には申し訳ないが、少女の身は今しばし私が預かるとしよう。この先の生命維持活動に支障がないと判断すればその腕に返却する。それまでは彼女の記憶で我慢してもらおう。
 それが二日前のことだ。
 私はすっかり顔色のよくなった少女を抱えたまま嘆息する。
 見つけ出した少年は、まだ森の中にいた。少女を探すように彷徨っていた。傍らに白馬がついて回っているが、先ほどから少年に乗れと言っている。帰ろうと声をかけている。それを全て無視して白い本を抱えて少年はただ歩いている。定まらない視線があっちへこっちへ彷徨っている。少女を探しているのだ。二日もたったというのに。
 あの様子では眠ってもいなければ食べてもいないのだろう。人間はなんて愚かなのだろう。なんて馬鹿なのだろう。心から呆れて吐息し、とんと木の枝に踵をつける。
 あれもまるで抜け殻だ。前主は死亡を確認し、その魂は貰い受けた。あちらは動かない抜け殻、こちらは動く抜け殻。どちらもましなものじゃない。
 時間はあったのに帰るという選択肢を取らなかった少年を見つめ、少女に視線を落とす。
 愛というのは簡単に人を破滅させる。かわいらしい寝顔をしているこの少女への愛が、この少女の愛が、少年を苛み追い詰めている。
 ああ全く。人間というのはどうしようもなく愚かだが、面白い生き物だ。
 何日かは疲労のような症状が出るかもしれないが、それだけで済むようにした。悪魔の私がここまでしてあげたのだからこの少女には生きてもらわなければならない。生きて、その生き様を私に見せてもらわなくては。
(さて、それでは)
 片腕で少女を抱えてすっと片手を伸ばす。ぱちん、と一つ指を弾くと世界が灰色になって止まった。落ちる木の葉も馬の息遣いも陽射しさえも時間を止め、世界が死ぬ。動かない景色の中少女を抱えて少年のそばへ下り立つ。死んだような目をしている少年に本当にどうしようもないと吐息し、その視線が上がったときに目に入るだろう木の根元にそっと少女を下ろした。演出には少し木漏れ日がほしいところだ。視線を上げて目を細めると、灰色の木の葉が音もなく左右に少し分かれた。灰色の空がその間から覗いている。
 これは慈善事業ではない。興味のある魂にこちらの暇潰しに付き合ってもらうため、必要なことをしたまで。
 私がしたのは少女の命を繋ぎ止めるだけの処置。回復しようと思うのは彼女の意思次第だ。まぁ、そちらは考えるまでもない。
「…では、契約の件。よいお返事をお待ちしていますよ」
 意識のない少女にそう告げて頭を下げる。すっと手を伸ばしてぱちんと一つ指を弾くと同時に、世界が息を吹き返し、私の姿は世界から掻き消えた。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 ざく、と土を踏む。白い本を抱えたまま森の中を彷徨い彼女の姿を探してもう二日。やっぱり見つけられない。
 笑うよって約束したのに、全然笑うことができない。笑顔なんて思い出せない。ボクは今までどうやって笑っていたんだっけ。そう思ってしまうくらいに全て、彼女を失ったことでどこかにいってしまった。
 もうボクは。絶望だけが残る胸でざくと土を踏み締めて、木漏れ日が眩しくて目を細めた。木の葉の間から覗く青い空が陽の光を落としている。あんなに大きな陽だまりは今まで見なかったな、と視線を落として、自分の見たものが信じられなくて足が止まった。
 木漏れ日の中眠るようにして木の根元にいるのは、間違いなく、彼女だ。
っ!」
 もつれる足で走って彼女のもとへ行った。憶えのある白いドレスのまま彼女は眠っていた。息を確認する。ちゃんとある。眠ってる。眠って。
 笑うよという約束をまた破ってしまった。滲んでいく視界で彼女の手を握り締めて「よかった」とこぼす。

「…、」
 うっすら目を開けた彼女がボクを見る。ボクは彼女に笑いかけた。今度は約束を守れるように。何度か瞬きした彼女がボクに手を伸ばして「グレイ、ないてるの?」と言うから「泣いてないよ」と返す。「君がいるのに泣くことなんてない」と。彼女が口元を緩めて笑った。両手で祈るように握った彼女の手がボクの手を握り返すのが、こんなに嬉しいなんて。

 そして、視界の先で白い装丁の本は木漏れ日に溶けるように消えてなくなった。