よく晴れた夏空の下、馬車に乗って、田舎のまた田舎、人の出入りなんてないに乏しい山道を進んで数時間。
 馬車に乗ってるのに飽きてきた頃、ようやく目的地に到着した。
 グレイの血を継ぎながら出来の悪い子供だと家族から疎まれ、蔑まれ、ついには捨てられた、かわいそうな妹のいる小さな屋敷に。
 両手に荷物を抱えて質素な屋敷のドアを蹴り開けた。中にいた使用人が何事かという顔でこっちを振り返り、訪ねてきたのがボクであると分かると目に見えて狼狽した。それを無視して正面の階段をつかつかと上がり、二階の一番奥の部屋に行く。
 ノックと張り紙のしてある扉をノックせずに蹴り開けると、中は暗かった。どうやらカーテンを閉め切ってるらしい。どこかでのそりと気配が動いて、「だれ?」という暗い声が響く。
「ボクだよ。チャールズ」
 名乗れば、もぞもぞ気配が動いたあと、部屋を閉め切っていたカーテンが開けられた。夏の陽射しが射し込んだ窓のそばにカーテンを握った妹が立っている。眩しそうに目を細めて何度か瞬きを繰り返し、ボクと目が合うと暗い表情からようやく笑顔を見せた。
「チャールズにいさん」
 こっちに小走りに駆けてきた妹の腕に持っていたものを押しつける。新しい服とかおいしかったケーキとかお菓子とか、まぁその他もろもろ。妹は嬉しそうな顔で「すごい、こんなに? くれるの?」「あげるよ。そのために持ってきたんだから」「ありがとうにいさん!」新しいドレスを掲げてくるくる回る妹は嬉しそうだった。それはいいんだけど、足首まで到達している長い髪を踏んづけて今にも転びそうで見ていて危ない。
 バタンと扉を閉めて、妹がドレスを手にはしゃぐ部屋を眺めた。
 ボクが買ってきたものがあるだけで、他には何も変わっていない。外にも出ていないのだろう。部屋のカーテンをわざわざ閉ざしていたことを考えるに、妹は外の世界を遠ざけていたのかもしれない。
 ふうと息を吐いて一つだけある一人掛け用のソファに深く腰掛けた。長いこと馬車に揺られているとやっぱり疲れるな。
 ようやくはしゃぐことをやめた妹が、今度は焼き菓子の箱を開け始めた。がさがさと包装紙を取って、かわいらしいクッキー缶の入れ物に目をきらきらさせてぱかりと蓋を開ける妹の姿をソファの肘掛けに頬杖をついて眺めた。なるべく気に入りそうなものをチョイスしたつもりだけど、どうかな。
「にいさん、これおいしい?」
「おいしいよ。ボクが食事にうるさいの忘れた?」
「んーん、わすれてないよ。おぼえてるよ。にいさんは、たくさんたべる」
 にこりと笑顔を浮かべた妹はクッキーの袋を破ってさっそく食べ始めた。およそ贅肉ってものがついてない妹は、見ていて不安になるくらい細すぎた。太らせてやろうと毎回色々買ってくるんだけど、その目論見が成功した試しはない。
、おいで」
 ぽんと膝を叩くと、妹が焼き菓子の缶を持ってやって来た。遠慮せずボクの上に座り込む。それなのにあまり重みを感じない。
 握り締めれば折れてしまいそうな白い手首とか、ドレスがずり落ちそうな華奢な撫で肩とか、細すぎる腰とか、全部が変わっていない。
 しゃくしゃくクッキーを食べる妹の肩に顎を乗せた。「おいしいだろ」と言えば妹が頷く。しゃくしゃくクッキーを食べて、上手に食べないもんだからぱらぱら食べクズが落ちる。呆れながら「もっと上手に食べなよ」と言えば妹が笑う。口の端にクッキーの食べクズをつけて、無邪気な子供みたいに笑う。
 妹は子供なのだ。ボクが気がついたときから今まで、ずっとずっと子供のままだ。
 妹は知的障害を抱えていて、文字の読み書きが不得意で、喋る言葉も拙く、子供のような言動が多い。十六歳になった今もそれは変わらない。
 年齢相応の勉学や行動ができない障害者として、グレイ家から妹の記録は抹消され、いなかったものとされている。家で妹の名前が上がることなどありえるはずもなく、その痕跡すら探し出すことが困難なほど、妹という存在は家族ぐるみでなかったことにされている。
 屋敷から遠く離れた森に捨て置かれ、放っておけば本当に死んでいた妹を捜し出して拾ったのはボクだ。親には内緒でこの屋敷を借りて使用人を数人雇い、妹の面倒を看させている。
 たまにボクがこうして来ては妹のためにお土産を買ってきて同じ時間を過ごす。そんな日々を繰り返して、もうどのくらいになるだろう。
「髪、切らないの?」
 自分と同じ銀色の髪に櫛を入れる。妹は鏡の前に座ってボクが買ってきた絵本を眺めていた。
「はさみ、こわいもの」
 ぽつりとした言葉に鏡の中の妹に視線を投げた。絵本を見つめたままの妹の表情はよく分からない。微笑んでいるような、悲しんでいるような、寂しいと言いたそうな。そのどれも含んだものなのか、我が妹ながらよく分からない表情だ。
 せっかくの長い髪も、手入れがなってないせいで櫛が度々引っかかって手が止まる。それでも時間をかけて長い髪に櫛を通し、緩い三つ編みを作る。先っぽをリボンで結び、頭の上の方に持っていって買ってきたバレッタで止めた。これなら邪魔にならないはずだ。「できたよ」と声をかけると妹が絵本から顔を上げた。鏡の中の自分を見て、後ろを確かめるように顔を左右に向けて鏡と睨めっこする。
 はさみ、というか刃物が怖いって言うのなら、無理に切れなんて言えないから、これは妥協案だ。
「気に入らない?」
 訊けば、妹は緩く首を振った。ぱたんと絵本を閉じると「にいさん」と呼ばれる。「何」と返せば、こっちを振り返った妹が抱きついてきた。細い身体を受け止めて、背骨が浮き出てるように感じる背中をそっと撫でる。
 駄目だ、お菓子じゃ生ぬるい。今度は何か肉を買ってこよう。そうじゃないとこのままどんどんやつれていって、妹が死んでしまう気がする。
「にいさん」
「聞いてるよ」
 細い声が言う。「わたし、いつまで、ここにいればいい?」と。ボクの肩に顎を乗せてる妹にはこっちの顔は見えないはずなのに、自然と視線が彷徨う。そうして彷徨わせた視線の先に鏡があって、その中で妹を抱いている自分と目が合った。
 少なくとも、ボクがグレイ家を離れても大丈夫なくらいの地位とお金を得てからイギリスを出ない限り、妹の安全や生活を保障できない。国内では親の目が届いてしまう。ここにこうして屋敷を得るのにも一苦労したし、家族は妹のことを死んだものと思っているから、感付かせたくない。妹が生きているなんて知れたら、がグレイ家の恥晒しだと思っている親は容赦なくその息を止めるために手を打つだろう。
 ボクが国を出ても自然な環境が整い、妹を連れて国外へ出る。それが一番安全な未来への道だ。
「もう少し待っててよ」
「それ、まえから。ずっとそう」
「…うん。分かってる」
「わたし、まってるのに」
「分かってるよ」
 ごめんとこぼして妹の細すぎる首に頬を寄せた。何度もごめんと謝っていると、妹が拙い言葉で言う。「にいさんは、わるくない」と。
「わたしが、もっと、いいこ。だったら」
 か細い声でそう言う妹の身体を強く抱き締める。壊さないように気をつけながら。
はいい子だ。ボクの自慢の妹だよ。そんなこと言わない」
 お世辞でも何でもなく、心からの本音だった。だからボクは妹を拾い上げたのだし、こうしてこの屋敷に何度でも足を運んでいるのだ。
 確かに勉強はできないかもしれない。話す言葉も拙いかもしれない。けれど、それだけで妹が死んでもいいなんて、うちの家族はどうかしてる。
 …まぁ、ボクに言えたことでもないのだけど。どうかしてるのは、きっとボクも同じだから。所詮血の繋がってる家族ってことか。嫌だな、それ。

 妹の細い背中を撫でながら「好きだよ」と伝える。妹は言葉の意味を理解していない。食べ物の好き嫌いと同じ感覚で「わたしも、にいさんがすき」と笑う。笑う妹の額に口付ければ、くすくすとした笑い声が心地よく耳に響く。
 ボクは君を妹としてじゃなく一人の人間として愛してるんだと伝えたとして、その意味が妹に理解できるとは思えない。妹の精神年齢は外見の半分ぐらいしかないのだ。愛してると伝えたとして、理解できるはずがない。
 それでいい。だからボクは手を出さずにいられる。子供のまま成長しない妹を兄として守るという大義名分で自分を誤魔化していられる。
「チャールズ様?」
「、」
 呼ばれて、意識の焦点を合わせた。ワイングラスを持ってパーティ会場にいる自分を思い出して、心配そうにこっちを窺っているお嬢様然とした子に微笑みかける。「大丈夫。ありがとう」と。ボクが妹のことを考えていたなんて知らないドレスのお嬢様はほっとしたように笑う。頬を赤らめて視線を俯け、逃げるようにするくせに、窮屈な会場を抜け出してきたボクがいるテラスには留まり続ける。
 ただの社交辞令のパーティだっていうのに、最近の子ってみんなこうなんだろうか。視線を夜の森に投げて、鬱蒼とした木々が風に騒ぐ様子を見るともなく視界に入れてグラスを傾け、中の液体を飲み干した。
「今夜は、踊られないのですか?」
「…あまり気分じゃなくてさ」
 空になったグラスを片手で弄ぶ。
 どうやらこの子はボクを解放する気がないらしい。会場に戻ったら戻ったで面倒くさいし、ここでお開きになるまでぼっとしてるつもりだったんだけどな。
 もう一回料理でも食べに行こうか。おばさん連中に絡まれるのがうざったいんだけど、ここでずっとこの子の相手をしてるのも疲れるし。
 めんどくさい社交辞令のパーティをこなしながら考えていた大半のことは、これからのことと、妹のことだ。
 地位のある人間とどれだけ引き合わされても、婚約の話を持ちかけられても、全て首を横に振った。相手がどれだけ美人でもボクの心にはあまり響かないし、甘い言葉で誘惑されてもその気にはなれない。むしろその分冷めていくだけ。
 その日、親があんまりに身を固めろとうるさいもんだからボクの我慢の限界が訪れ、啖呵を切ってどんな条件のいい話を持ってきても無駄だと吐き捨てて広い邸宅を飛び出した。
 相手の家柄に執拗にこだわる親の気持ちがボクにはさっぱり分からない。人物、人柄よりもまずはその家の歴史と血筋を調べる親がボクには疎ましくて仕方がない。
 街で買えるだけのものを買って馬車に詰め込み、長い時間をかけて妹のいる小さな屋敷へ辿り着き、ノック書いてある部屋の扉を開け放った。相変わらずカーテンがしてあって中は暗く、「?」と呼べばもそりと端の方で気配が動いた。「チャールズにいさん?」「そうだよ」憶えている部屋の家具の配置を頭に浮かべて、ソファとテーブルを避けて暗闇の中歩みを進めて壁際に行き、彷徨わせた手で触れたカーテンをしゃっと引き開けた。
 ベッドの上で丸くなって布団を被っていた妹が眩しそうに目を細めてこっちを見ていた。そばに行って膝を折り、目線を下げて妹に合わせる。眠たそうにまどろんでいる自分と同じ色の瞳を見ていると、胸の苛立ちが少しずつ落ち着いてきた。
 早くここを離れよう。なるべく早く。妹が陽の光を浴びても大丈夫な国に移ろう。
 勉強なんかできなくていい。拙い言葉でしか喋れなくていい。
 ボクの愛を、知らないままでいいから。だから二人でここじゃないどこか遠い国へ。
 長い髪をゆっくり撫でていると、ボクの手に妹の小さな細い手が重なった。
「にいさん」
「何?」
「こわいかお、してる」
「…ボクが?」
 こくんと頷いた妹に、眉間を揉み解すようにして目を瞑った。どうやら今のボクはそんな顔をしてるらしい。それは、よくない。
「ごめん」
 怖がらせたかなと思って謝ると、妹は首を振ったようだった。長い髪がシーツや布団をさらさらと打つ音がする。
 目を開けて、改めて妹を見た。眠そうにしながら起き上がった妹は変わらず僕の手を握っていて、いつかに買ってきた水色のナイトドレスを着ていた。色気なんてものには程遠い細すぎる身体に、ああしまった、肉を買ってくるのを忘れたと今更なことを思った。
 白い手の肌を指先で撫でる。「ちゃんと食べてる?」と訊けば妹は答えなかった。どうやらあまり食べていないらしい。「食事おいしくない? まずいもの出してくるっていうんなら叱ってくるけど」そう言えば妹はふるふると頭を振った。小さな手でぎゅっとボクの手を握って「にいさん」と呼ぶから「ここにいるでしょ」とその手を握り返せば妹は眠そうな顔で笑った。
「ねむたい」
「…はいはい」
 仕方なくベッドに上がる。妹を寝かしつけてベッドに寝転がって頬杖をつき、丸くなるようにして目を閉じた妹が眠るまで、ずっとそばにいた。

 縋るように握られている小さな手に、縋っているのはボクの方で。
 折れそうな白い身体を自己満足に抱き締めて、安心しているのはボクの方で。
 他の女なんてどうでもいいくせに、妹のことは大事で、とても大事で、妹以上に想ってしまってるボクは、本当、どうしようもない。