わたしが10歳のとき、大げさに言っても、未来が決定した。住み慣れた家を売り、食費や生活費を削ってまでわたしの病が治るようにと医療費にお金をつぎ込んでくれていた両親が、ついにわたしのことを諦めたのだ。どんなにお金をかけても病はわたしを侵すばかりで、回復の兆しが見えなかったことも、両親の疲労を呼んでいた。だからわたしは両親がわたしを諦めたことも、自分の未来についても、仕方がないな、と受け入れた。
 仕方がない。未だ憶えきれない長く複雑な病名のついた病だ。おまけに主治医が変わるとその病名も変わる。つまり、そういうものなのだ。診る人によって病名すら変わる未知の病。治療方針だってその度にがらりと変わる。でも、今まで好転したことはない。それだけが共通している。
 治るか治らないかも分からない治療費にお金を注ぎ続ける財力はもううちにはないことをわたしも知っている。だから、仕方がない。そうやって諦めた。
 そんな両親とわたしを叱ったひとがいる。それが幼馴染のチャールズ・グレイ。ありふれた自分の名を嫌う彼のことを、わたしはグレイと呼んでいる。

「控えめに言わせてもらっても、あんた達は親失格だよ」

 グレイは、控えめどころかはっきりとわたしの両親のことを切り捨てた。憎悪すら感じさせるような、そんな顔と声音で。
 変わって私には厳しい表情を向け、「だ。勝手に諦めるな」とわたしの手を取った。もう車椅子にすら乗れず、寝たきりになったわたしの手を握って「諦めるなよ」とこぼす彼は、なんだか泣きそうだった。
(でも、グレイ。この結末は仕方がないよ。わたし、息をしているのが辛いときすらあるの。だから、このまま、心臓に薬を打ってもらって、死んだ方が。きっとみんなのためなんだよ)
 そんなふうに思ったりするわたしのことを、グレイが好いていてくれるのは、分かっていた。
 わたしの最後の現実への架け橋はグレイだった。わたしと世界を繋いでいるのはグレイだけだった。グレイが、彼がわたしのことを呼び止めるから、繋ぎ止めるから。だからわたしもここまで生きてきたのだ。
 もうわたしの治療費に疲れ切ってくたびれている両親は、グレイの暴言にさえ何も言い返さない。ただ、親失格だという言葉のどこかしらに感じる部分があるのか、うなだれて黙っているだけだ。
 わたしの手を握って額に押しつけた彼は、わたしの未来を諦めていなかった。泣きそうだったけれど、涙が滲んだ瞳をしていたけど、涙をこぼすことはなかった。歯を食い縛ってそれに耐えていた。
 彼はわたしの未来を諦めていなかった。
 たとえそれがどんな形になろうと、わたしのことを諦めていなかった。
 …だから、わたしは、わたしを生かそうと必死な彼を生かすために、彼の提案を受け入れることにした。
 それは、難病に侵されている自分を差し出して治療を受ける、というもの。診せるのではなく診てもらう。有名な軍の施設へ自分を売って、いい噂を聞かないそこで、最先端の試験的な治療を受け、一か八かの賭けに出る、というのだ。
 ……どうせこのまま放置されたらわたしは死ぬのだろう。そう遠くない未来、一週間後とかに死んでしまっている可能性もある。
 もうわたしを生かすだけの財力のない両親は、わたしを生かせない。そしてグレイはそれを理解して、苦渋の表情で、この決断を話したのだ。
 わたしは。息をするだけで苦しいこともあるし、満足に話すことだってできない日がある自分を知っていて。どうせ駄目なんだろうな、という半分諦めた気持ちで、それでも、グレイが心配だったから、その契約書に震える手でサインをした。
 試験的な治療は、がんへ対抗する人が放射線治療を受けるようなものに似ていた。
 一定期間行い効果が得られなかった治療はすぐに次の治療に代わる。それでよくなったりするし、悪くなったりもする。おかげで何度となく瀕死状態になったり意識不明の重体に陥ったりしたけど、どうせ死ぬはずだったわたしだから、それについては斜に構えず、流れるがまま、治療に全てを任せた。
 できるなら、よくなってくれればいい。そしてまたグレイと一緒にボードゲームをしたりカードゲームをしたりしたい。
 …一ヶ月に一度、必ず彼が会いに来てくれる。
 どんなにやつれたわたしでも彼は受け止めた。グレイはまだわたしが生きることを望んでいた。両親が諦めたわたしが生きることを。わたしも、そんな彼がいたからこそ、彼と一緒に生きられたらいいなと考えていた。
 彼がわたしを諦めたのなら、わたしも自分を完全に諦めるつもりでいた。
 だって、ねぇ。誰も生きることを望んでくれる人のいなくなった世界で、苦しみながら息を重ねる理由なんて、ないもの。

「ここ、持ち込み検査とか厳しくってさ。許可下りたのこれだけなんだ」

 その日グレイがわたしの部屋に持ってきたのは、高そうな木目のチェス盤に、黒と白の大理石でできた駒達だった。「…たか、そう」とこぼしたわたしに彼は笑った。「ちょっと骨董品市でね。ほら、あっちはもうボロボロだし、これなら置いてあっても格好つくだろ」子供の頃に買ってもらってプレイのしすぎで傷のたくさんあるボードと駒を指した彼がわたしにウインクする。そんな彼に、変わらないなぁ、とわたしも笑う。どうせ持つならいいものを長くって、あなたのこだわりだもんね。
 駒のキングがわたしの手に置かれる。「落としても大丈夫な強度はあるよ」と言う彼がわたしの手に駒を握らせる。「そうなの」とこぼしてわたしは手の中の駒を意識する。前のよりちゃんとしていて大きい。石だから冷たい。気持ちいい。
 ふう、と息を吐いて、わたしはボードに手を伸ばした。こっちは重たくてとても持ち上げることは無理だったので、ベッドの隅に置かれたボードの木目の表面を指先で撫でた。
 今日はあんまり調子がよくないから、チェスをするのは無理だ。これは使えてもまた一ヵ月後ということになる。

「グレイ」
「ん? 何?」
「…もし、わたしが。死んだら。どうする?」

 もし、というか。それがこのままいけば辿ってしまう道だった。遠くない未来だった。
 彼は笑顔をなくした。でも、わたしから俯けた視線は逃げるためではなかった。ぐっとわたしの手を握って、わたしに生きろと言った彼がまっすぐにわたしを見つめた。「すぐに追う」なんて、馬鹿みたいなことを正直に、まっすぐにぶつける彼が眩しくて、わたしは曖昧に微笑んだ。
 彼がいるからわたしは生きている。彼がわたしが生きることを望むからまだ生きている。望んでくれなかったら、彼がいなかったら、私は生きていない。
 彼さえいなかったらわたしは死ねていた。楽になれていた。
 最近そんなふうに思ってしまう自分が嫌いだ。とても、嫌い。