僕の幼馴染が軍の施設に引き取られて5年が経ち、ボクらが15歳になったとき、劇的な変化はやってきた。新開発された薬とやらで、が奇跡的な回復を見せたのだ。
 終始ベッドの中にいることが多い彼女が部屋の入り口で一人で立ってボクを出迎えたとき、ボクはもう感極まってしまって、思わず彼女を抱き締めてしまった。少しの衝撃も身体に響く彼女にはなるべくそっと触れるようにしていたのに、だ。自分の愚かな行為にすぐに気付いてばっと手を離したけど、彼女は苦しそうではなく、ただおかしそうに、そんなボクを笑っていた。
 笑っていた。とても自然な笑顔で。
 10歳からこっち、ベッドの中だけで語れる生活しかしていなかったのに。いや、ボクが見ていたのがその姿というだけで、この施設で彼女がどんな治療を受けていたのかなんて、極秘情報扱いで、ボクは全然知らないのだけど。

「そんなにびっくりした? わたし、グレイが生きてって願ったから生きたのよ」

 彼女が笑う。ボクは馬鹿みたいにこくこく頷く。「元気になってよかった?」と小首を傾げる彼女にまたこくこくと頷く。言葉が出てこなかった。そんなボクに彼女はやっぱり笑う。部屋の中を普通の足取りで歩いて「まだリハビリ中なんだけどね」なんて言うけど、それにしては普通の足取りだった。この間来たときはベッドの中で、やつれた顔で笑っていたものだけど。
 奇跡って存在するんだ。神様はボクの祈りを聞き届けてくれたんだ。ありがとう神様、ありがとう、なんて感極まっているボクは、気付かない。彼女はどこか暗い顔をして窓の外を見ていることに。
 彼女はこの軍の施設に収容されるとき、契約書を書いている。彼女の身柄は軍の所有であり続けるという、誓約書のようなものだ。彼女の病への治療で劇薬や新薬を投与し、仮に死んでしまっても、仕方がない。受け入れる。逆に奇跡的な回復を見せたとしても、軍から解放されない限り彼女は未来永劫軍の所有物だ、というその契約書の内容をボクは暗記するほど熟知している。それを承知で彼女に話を勧めたのはボクなのだから。
 …に生きてほしかったからこそ。どんな可能性にでも賭けたかった。の回復を諦めた彼女の両親みたいには絶対になりたくなかった。治らないことを前提にしているようなことしか言わない医者だって大嫌いだった。だから血眼になって彼女が助かる可能性を探して、探して、捜して、見つけたのがこれだった。
 間違っていなかったんだ。これでよかったんだ。やっとそう分かって、ボクの頭の中は今までの葛藤とか疑問とか後悔とかでぐちゃぐちゃになった。
 ぼふん、とベッドに腰かけた彼女がボクを呼ぶ。ちょいちょいと手招きする、その姿にふらふらと寄っていく。隣に座れとベッドを叩く君の隣に腰かける。普通に座って、顔色だって普通に戻って、こけていた頬だって少しマシになっている君が、ボクに笑いかける。
 ボクにはその笑顔が生きる糧だった。

「あのね、グレイ」
「うん」
「わたし、人殺しにならないといけない」
「うん…って、え?」

 彼女の口からあまりに似合わない言葉が飛び出たことに素で驚いた。つまらなそうな顔でベッドから浮かせた足をぶらつかせる彼女が「わたし、今よりもっと元気になるんだって。普通の人よりも元気になって、視力もよくなって、力も強くなって、超人みたいになるんだって」「……何それ。冗談?」「…違うよ」苦笑いした彼女が緩く首を振る。それからうーんと考えて、ベッドスタンドに立てかけられた松葉杖を手に取った。さっきの調子なら君はもうこんなものなくたって歩けるのだろうけど、ひょっとしたら少し前にはそれを使って歩く練習をしていたのかもしれない。鉄かアルミでできている松葉杖。それを両手で水平に持って、そして、ぐにゃっと曲げた。こんにゃくみたいにくにゃっと曲がった。
 …一拍遅れてから曲がったままの松葉杖に触れてみる。当たり前だけど硬い。でも曲がった。彼女の力で簡単に。手品みたいに。
 僕の反応を見ていた彼女が、松葉杖をまっすぐに戻す。どことなく曲がったあとのある松葉杖をボクに渡した。試しに同じように持って曲げようとしてみたけど、曲がるはずもなかった。ちょっとぎぎっとはなるけど、こんにゃくみたいにくにゃってなったりはしない。
 ということは、だ。彼女の言った力が強くなるとかいう話は、どうやら本当らしい。
 を劇的に回復させた『新薬』。どうやらそれは人を人以上のものへと変える、タヴーに触れているものだった。

「ねぇグレイ」

 呼ばれて、松葉杖から視線を引き剥がす。鉄をも簡単に曲げられる手をかざして「これでもわたしのこと好き?」とこぼす君に、ボクは一度視線を伏せた。逃げるためではなく、決断するために。
 幼くて弱かった女の子はここへ来て変わった。ベッドから抜け出る生活をできるようになった。普通に歩けるようになった。普通に笑えるようになった。だけどそれには大きな代償が必要だった。
 君は人を辞めなければならない。
 …ならボクだって人を辞めよう。そう考え頷くことは、それほど難しいことでもなく、抵抗のあるものでもなかった。

「ボクはのこと好きだよ。今も、昔も。君が人を辞めるっていうならボクも辞めるし、君が人殺しになるっていうなら、ボクも人殺しになる」

 あっさり決断したボクをが丸い目で見つめている。微かに開いた唇から「グレイ、あなたって…」すごく馬鹿なのね。感心したようなしみじみしたような声で言われて、むっと眉根を寄せる。国家試験をパスする頭を持ってるボクに馬鹿って。「馬鹿って何さ」「だって。わたしにすごく馬鹿じゃない」「それはまぁ…馬鹿なのは認めるけど」ぼそっと言うと君は笑った。くすくすと笑って、笑っていたのになんでか泣き始めて、そんな君に慌てて、もう触れても握っても身体が軋むことのない君のことを抱き締めた。
 今までの君には、こんな簡単な愛情表現もできなかった。
 万が一にも病気がうつるかもしれないからって君が譲らないから、キスだってしてこなかった。
 ボクは別によかったのに。君と同じ病を抱えて、隣り合うベッドで同じ苦しみに侵されるなら、それすら受け入れたのに。

「君が人殺しになるなら、ボクだってそれになるし、君が何したって、どんなふうになったって、受け入れる。そうやってでも生きてって願ったのはボクだからね。君はボクの願いを聞き入れてくれた。生きてくれた。嬉しかった。嬉しいよ、今も」
「…そう?」
「そ。が行くとこどこへでもついていく気でいるから心配しないで。ボクが頭いいのは知ってるだろ? どんなとこへだって登り詰めて、君の近くにいられる場所を勝ち取るさ」
「……そうだね。うん。グレイならそうするだろうね。本当、わたしに馬鹿なんだから」

 悪かったね、と笑ってボクは彼女の額に口付けることにした。少しでも愛情表現がしたかったけど、唇は、きっと君が許さないだろうから。ボクのために嫌だっていうだろうから。今回は額ということで。
 まだ少しパサついて栄養の足りてない髪を撫でる。これも次に会うときにはすっかり艶が戻って、弾力のある髪になっているんだろうな。
 君はボクの腕の中で大人しかった。
 その細い身体に簡単に松葉杖を折り曲げる力があるのなら、ボクのことを折り曲げるのだって簡単だろう。骨を折ることだって。それを恐れているみたいに、君は自分からはボクに触れない。
 …とにかく、だ。ボクがこれからすべきことは決まった。あとはそこへ向かって突き進むのみだ。
 たとえそれが誰を裏切る行為になっても、怨みを買うことになっても、人を殺すことになっても、別に構わない。赤い色の先で君が笑ってボクを呼ぶなら、ボクはどんな場所へだって行くと、幼い頃から決めていたのだから。