人の嘲笑というのはまるで剣のようだった。剣のように鋭く尖っていて、冷たく温度がない。その鋭さで容赦なくこちらを貫き、突き刺し、ときには薙ぎ払うことさえする、剣のようだ。
 ぽたぽたと滴が落ちる。髪から、肌から、服から。
 わたしは嵐の夜の中、傘一本で外にお使いに放り出された。この天気じゃどこも店じまいしているなんてこと考えなくても分かるのに、最低限のお金を握らされて『パンを買ってこい』と言われた。新入りメイドのわたしは、傘じゃとても庇えない雨風に曝されながら、雨水でぬかるんだ泥の道を歯を食いしばって歩いていく。
 長いスカートが邪魔だ。雨のせいで肌に纏わりついて歩きにくい。短く切ってしまいたいくらい。
 ぬかるんだ地面はとても歩きにくくて、雨水は安物のブーツを侵食し、足はもうすっかり冷え切っていた。
 強い風が吹いて傘の骨をボキッと折った。ただでさえ役に立たない傘がさらなる役立たずになったので、無理矢理閉じて、帰りに拾えばいいとその辺の茂みに投げ入れる。
 それでもわたしはパンを買いに行かなければならない。なぜなら、それが先輩の命令だからだ。強い雨風でちゃんと目が開けられなくても、泥の中を進むような悪路でも、わたしは行かなければならない。そうでないと酷い仕打ちが待っている。
 こんなにビュウビュウと風がうるさくて、ザアザアと雨が辺りを穿つ音が満ちているのに、わたしには違う音が聞こえている。わたしを嗤う声。くすくすと嗤ってわたしにパンを買ってこいと命じ、最低限のお金と傘一本を握らせてこの嵐の中に放り出した、ろくでもない先輩たちの悪魔のような嗤い顔が、嗤い声が、まだ聞こえる。
 ああ、全く、嫌なお屋敷に拾われたものだとつくづく思う。
 貧民街から拾われて、まだわたしにも運があったんだなんて最初は思ったけど、そんなことなかった。働くからには最低限の寝床や食事は与えられる。でも、逆を言えば、それだけだ。それ以外は何もない。そう、何も。
 くすくすとわたしを嗤う声がまだ聞こえる。
 泥に沈んだ足を引き上げるのに失敗したわたしは、バチャッと音を立ててぬかるんだ泥の中に転んでしまった。
 ザアザアと雨の音がする。
(…このまま)
 今はまだ3月。春先の雨の中に身体を投げ出せば、凍え死ぬことができるかもしれない。
 どうせ貧民街にいたってろくな人生は送れなかった。それはメイドになっても同じだった。どこへ行っても生まれで物差しを決められる。わたしには身分なんてない。わたしを保証するものは何もない。未来も、人生も、なんにもない。
 先輩に献上するためのパンを買うためだけに、そのためだけに、歩いて一時間はあるだろう道を、この嵐の中歩いて行くなんて、馬鹿げている。
 ああ、本当に、馬鹿げている。
 冷たい雨が流れ込んで濁る視界の中で思う。わたしはきっと玩具だったんだ、と。貧民街に転がっている価値のない命。それを気紛れに取り上げて、遊んで、棄てる。どうせ貧民街で終わっていたろう命だ。わたしはもの。壊れたら替えのきく玩具…ああ、そう考えれば彼らの心ないアレやコレにも説明がつく。わたしは人間として見られていないんだ…。だからこんな、悪魔の所業が平気でできる……。
 もう、諦めよう。そうしよう。
 このまま身体を刺すような冷たい雨に打たれていよう。身体が凍えて死ぬまで打たれ続けよう。この雨はそう簡単には止まない。わたしの命を奪ってくれるだろう。
 わたしは目を閉じた。
 ろくでもない人生だった。
 わたしは、生まれてこない方が幸せだった。
 泥に沈んだ身体。雨を吸って重くはりついたメイド服。指一本動かすのが億劫だ、と思うような冷たさが肌を打っている。
「ん? あれ、こんなところにメイドの死体が…」
 ………声。誰かの。
 気を失っていたのか、すぐに誰かが通りかかったのか。わたしには分からなかった。ただ、瞼同士がお互いにぴったりはりついて離れないのと、とても眠いので、声のことなんてすぐにどうでもよくなった。ぴったりくっついて離れない瞼を引き剥がすことは諦め、目を閉じたまま、意識は再び泥に沈む。
 次にぷかりと浮上したのは、ろくでもない先輩しかいないあのお屋敷の、与えられている共同部屋で、だった。
 見慣れ始めていた天井のぼんやりとした輪郭に、わたしは、絶望した。
 神はわたしを楽にしなかった。さらに苦しめとわたしを生かした。なんてろくでもない神様だ。何も罪を犯してない子供を鞭で打って生きろと強要するなんて。
 絶望した次に、わたしはまた諦めた。きっとまた剣のように鋭い先輩たちの嘲笑がわたしを貫くのだろう…。傘を駄目にして、満足にお使いもできないのかと、わたしの頬を平手で張るんだ。暖炉の火掻き棒で背中を殴られるんだ。
「起きたぁ?」
「…、」
 声、にぎちこなく顔を向けると、見慣れない白服の誰かがいた。声からして男の人だろうか。少年? 青年? 年齢はよく分からない。ただ、着ているものはいいもののようだった。使用人じゃない。それに、この屋敷の人でもない。初めて見る人だ。
 白い髪に灰のような青のような瞳をしたその人はにっこりと笑顔を浮かべた。「いやー、死体かと思ったよ。ぴくりともしないで泥の地面に倒れてるからさぁ」話しぶりから察するに、この人がわたしを助けてしまったらしい。
 わたしが黙っていると、その人は首を傾げた。「ん? 目開けたまま寝てる?」「……そんなわけない。です」ぼそぼそ返すと彼はまたにっこり笑った。「君、この屋敷の新入りメイドなんだって?」「…それが、どうかしましたか」「ここに馴染めてないどころか、君、イジメられてるでしょ」「………」黙ったわたしにその人が無造作に手を伸ばしてわたしの腕を取った。誰かが着替えさせたのか、濡れたメイド服ではなく乾いた寝間着の袖が二の腕まで滑って落ちると、タバコを押しつけられた火傷の痕があちこちにある肌が顕になる。
 わたしは視線を逸らした。きっともう消えないだろう傷跡は、まだあちこちにある。
「あのさ、他人の事情に首突っ込むのも野暮かなとは思うんだけど、言っとくよ。このままここにいたら嬲り殺されるだけだよ。逃げな」
 彼からしたら、ただのお節介で、わたしのためを思ったのかもしれない。でも、わたしから言わせれば、それはとても無責任な言葉だった。
 ぶるぶると震えた腕でその人の手を振り払った。きっとわたしより随分と身分の高い人で、こんなことをしたらあとでどんな目にあうか分からないと知っていながら、怒りで震える身体を制御できなかった。涙すら出てきて、わたしはベッドから跳ね起きて噛みつくようにその人に向かって叫んだ。
「無責任なこと言わないで! あなたみたいになんでもある人とは違うの! お金も、身分も、わたしには何もない! なんでも持ってる人が何も持ってない人に気安く言葉をかけないで! 偽善なんかで救える命なんてないっ!!」
 彼の腰に鞘があることにわたしは今頃気付いたけれど、後悔なんてしなかった。一度でいいからなんでも持ってる贅沢な人間をこうして罵倒したかった。たとえ無礼者と剣で斬られても満足だ。そうしたら今度こそわたしは楽になれるだろう。長く続けなければいけない勇気と、ほんの少しの間の勇気。どっちが楽かはわたしでも分かる。
 きょとんと目を丸くしたその人は、怒るでもなく、罵るでもなく、肩で息をするわたしにふむと首を傾げた。
「ま、最もだね。ボクも偽善なんてクソ食らえだと思うよ」
 そう言って、彼は腰の鞘に手をやった。剣の柄にするりと指がかかる。
 この人は顔に出さないで気持ちを処理する人なんだ。上っ面が上手な人ってことだ。世の中を渡り歩くのが上手な部類の人はみんなこうだと聞いた。笑顔を浮かべながら平気で相手を傷つける……この人もそうなんだ。
 レイピアみたいに細い刀身の剣を抜き放ったその人は、わたしを一閃した。それで、わたしは終われる、はずだった。
「……、」
 ぱら、と何かが首から落ちた感覚がして、つむっていた目を開けてみる。シーツの上に落ちていたのは赤いリボンだった。新入りの印だ、なんてつけられた、首輪。
 わたしの首を斬らないで首のリボンだけを切り落としたその人は、チン、と鞘に剣を押し込んだ。粗末な木の椅子から立ち上がると天井に向けて腕を突き出してうんと伸びをする。
「ボクもそうなんでも持ってる人じゃないんだけど…まぁ、無責任はよくないよね。うん。口先だけの人間ってボクも気に入らないし。そういうヤツにはなりたくないな」
 一人ブツブツ言って頷いたその人は、わたしに向かって手を差し出した。
「ボクはチャールズ・グレイ。君は?」
 気軽に向けられる声に視線を俯ける。そう、そんなものですらわたしは持っていないから。
「わたし…名前とか…ない」
「ふーん…じゃあボクがいい名前つけてあげるよ」
 その言葉に、そろりと顔を持ち上げる。彼は思案するように顎に手を当てて考え…やがて、わたしにという名前を与えた。
「さぁ、ボクの。君は今からボクのものだ。君が仕えるべきはこの家ではなくてグレイ家。オッケー?」
 わたしの首輪であったリボンを容易く切り、わたしになかった名前を与えたその人、チャールズは、にっこりと笑顔を浮かべてわたしの手を取った。
 身体はまだ泥に浸かっているように冷たかったけど、チャールズがコートを貸してくれたので、大きな黒いコートに包まれて、わたしはほくほくしながら彼の後ろについて歩いた。肌触りもいいあたたかいコートだ。
 そういえば、わたしは泥の中に倒れたはずだけど、顔も手もきれいになっている。誰かがきれいにしたのだろうか。チャールズが? あるいは、チャールズが命じて使用人の誰かが? まぁ、どちらでもいいか。瑣末なことだ。
 彼に屋敷の中を案内してくれと言われて、わたしは彼の行く先の部屋の説明をしながら、人のお屋敷で勝手気ままな彼についていく。
 途中、使用人の何人かと行き合ったけど、頭も下げなかったし声もかけなかった。どうして? それは、わたしがもうチャールズのものだからだ。
「ここはー?」
「旦那、様、の私室、です。入ったことないから、中までは…」
 ついさっきまで主だった人のことをなんと呼ぶべきか悩んで、結局そう説明してみる。
 チャールズはふぅんとぼやいて剣を抜き放った。目を丸くするわたしの前で、このお屋敷の主人の部屋の扉を切り刻んで破壊する、という暴挙に出る。「なんてことを」慌てるわたしに剣を抜いたままチャールズが部屋の中に踏み込んでいく。
 暖炉の前では、読書に耽っていたんだろう旦那様が破壊された扉を見て呆然としていた。
「何奴」
「どーもォ。女王のお使いとして来てあげたよ、こんな田舎まで」
 にっこり笑んだチャールズが部屋の入口で立ち尽くしているわたしを親指で指して「あの子、ボクがもらってくよ。新人の教育もまともにできないような貴殿の使用人達には任せておけない」さらさらっと言ってのけたチャールズが抜いたままの剣を無造作に振るった。無造作。それでいて完璧な突きが旦那様の左胸を、心臓を貫く。旦那様が悲鳴を上げる暇もなかった。
 思わずコートの袖で口元を覆ったわたしは、なんとなく廊下の左右を確認した。
 だって、殺人現場だ。わたしは、チャールズに加担している。もし使用人の誰かに見られていたなら、その人も殺さなくては。
「で、アンタには死んでほしいって女王のご要望なんで、死んでね。武器の横流しはよくないよ」
 チャールズは、簡単に旦那様を殺して、感慨なんてなさそうな、むしろつまらなそうな顔で血のついた剣を払った。こういうことに慣れているのか、白い服には返り血の一点もない。
 くるっとこっちを振り返った彼は、笑顔だった。「さ、ボクの仕事これでおしまい。帰ろうか」「え」「え?」「え、あ、えっと、じゃあ、お屋敷の使用人とか、は」「さぁ。知らないよ。給料払ってくれる奴が死んだんだから、適当にやってくんじゃない? 性悪な使用人がどうなろうがボクにはどうでもいいし」これもまたさらっと言ってのけたチャールズが当たり前の顔をして廊下を歩いていくので、あとについていく。一度だけ旦那様の部屋、壊れた扉が散らばっている場所を振り返って、すぐに前を向いた。
 あの人は良い人ではなかった。確かに、ときどき強面の人達を屋敷に呼んでいた。話の中身までは知らなかったけど…何か、納得した。
 悪いことをしていたのだ。だから使用人も自然とそうなった。法則としては合っている。
「雨、です。馬車を呼ぶにしても、時間がかかる、です」
「馬くらいこの屋敷にもいるんだろ? それで帰る」
「…あの、わたし、乗馬なんて」
「ボクができるから、君は振り落とされないように座ってればいいの。オーケー?」
 主人にオーケーかと訊かれたら、わたしはイエスと答えるしかないのに、卑怯な確認だ。
 きっとまだすごい雨が、と覚悟して屋敷の正面扉を押し開けると、すっかり小雨になっていた。風も弱い。この雨なら悪路に嫌そうな顔をしても馬も走ってくれるだろう。
 馬小屋に案内すると、「どれが一番乗りやすいと思う?」と訊かれた。顔を上げたわたしを灰とも青ともつかない瞳が見下ろしている。…試されているんだろうか。わたしは乗馬なんてできないし、馬の世話は管轄外だった。本来ならよく知りもしない。…でも。
 わたしは、一番性格が優しい子を指した。三頭いる馬の中で一番のんびり屋さんで、草むしりを命じられたわたしの横でむしゃむしゃ抜いた草を食べて片付けてくれていた。放牧されているときは、一生懸命砂利道の枯れ葉を拾って掃除するわたしについてきていた。たぶん、心配してくれていたんだと思う。馬にそんな思考があるなら、という話にはなるけど。「この中で、一番、優しい子」もそもそ説明したわたしに彼は一つ頷いた。慣れている手つきで馬の装備を始めるので、乗馬のじの字も知らないわたしはチャールズと馬を眺めているしかなかった。
 5分で支度をした彼は、まず私を馬に乗せた。高い目線におっかなびっくり背中を丸くするわたしをばしっと叩く。「背筋伸ばさないと転がり落ちるよ」「う…」そろそろと姿勢を起こすわたしに、チャールズは慣れた足取りでひらりと馬に跨った。鞍は当然一人が座るように設計されているので、二人で座ったら窮屈だ。ぴったり密着する。「コート…」そういえばわたしが着たままだった。脱ごうともそもそするわたしにチャールズが呆れた顔を寄せてくる。近い。「着てて」「で、も」「死にかけてたんだから着ててくれる? 帰ったら一応医者に診せようと思ってるんだから、ここで変に体調悪くされても困る。はウチの使用人なんだからね」「…はい」すごすご引き下がって鞍の持ち手にしっかり両手で掴まる。
 腹に一蹴りされて、馬はカポカポと蹄を鳴らしながら小屋の中からぬかるんだ地面の外へと歩き出した。
 あんなに酷かった雨が止みそうだ。風も弱くて、さっきまでの嵐が嘘のよう。
 チャールズが連れてきたんだろうか。すべてを。
「ちょっと。寄りかからないでよ」
「…ごめんなさい」
 ちょっと体重を預けただけなのにあっさり気付かれてしまった。馬の上って思っていたより揺れるのにな。旦那様を屠ったことといい、大した人だなぁ、と笑いながら、笑った自分に気付いて目が丸くなる。
(生まれてこない方が幸せな人生だった。わたしは、生まれてこない方が、よかった)
 そんな人生は、変わるのだろうか。これから。この人によって。
 ぬかるんだ馬を操るチャールズが向かう先の雲はほんのりと途切れて、陽射しが見える。このまま晴れるのか、一時的に天候が回復したのか…どちらにしても晴れた。また雨が降るのだとしても、晴れた。
「陽の照りながら、雨の降る」
「ん? 何?」
 バチャッ、と馬が水溜りを蹴飛ばしたので、チャールズには聞こえなかったようだ。わたしはゆるりと首を横に振った。