夢みたいだという言葉を使って表現するなら、私の夢みたいだと思う瞬間はいつも一人の人限定で使用される。

「…グレイ」
「や。寝てた?」
「少し…」

 夜。月明かり。青く白く夜をやわらかく照らす月光。どうやって二階の自室から抜け出したのか、気付けば私があてがわれている部屋まで彼が来ていることがしばしばある。今日も一日が終わった、何もミスをせずにすんだとほっとしているうちに眠りこけて、そんな私の部屋に彼がやってくる。残念ながら使用人として一番下位である私の部屋に鍵なんてものはついておらず、またその必要もなかった。怪しい誰かが来たのなら得意の剣で斬り捨てればよかったし、そうでなければ使用人として接すればいいだけ。
 彼は、使用人である私によくしてくれた。表立って行動することはなかったけれど、そのさりげない優しさで私は救われていた。
 夜間着のシャツと黒いズボン姿で、彼はいつものように私のそばに来て簡易なベッドにどさと腰かける。「鍵はどうしたの?」「君が預けてくれたヤツでかってきた。誰も入らないし心配しないよ。見つかってないから」「そっか」起き上がって袖で目をこする。寝てただけに眠い。
 首を傾げた彼が「眠い?」と訊くから浅く頷く。「寝る?」伸びた手が髪を一房握る。眠い顔を上げて「寝ないよ。寝たら怒るでしょ」「べっつに」「嘘。次の日拗ねてるもん」「そんなことないしー」唇を尖らせて子供の顔をする彼に私は笑う。嘘ばっかり。機嫌悪くなるくせに。
 夜ももう更けてきていると分かっていた。眠った方がいいことも分かっていた。それでも私は起き出して彼の隣に並んでベッドに座り込む。長い足を組んで頬杖をついている彼は、何かを考えてるのか、何も考えてないのか。私の髪を弄んで黙ったままだ。
「…グレイ。眠らないと、明日は少し遠くまで行かないといけないんでしょう?」
「んーまぁね。でも寝るのが惜しい気がしてしょうがないんだ」
「?」
「君と、いつものように時間が潰せない。それってボクにとって結構重大問題だよ」
 当たり前に、彼はそんなことを口にする。気に入らないって顔で私の髪を指にくるくる巻きつけてそんなことを言う。まるで出かけるのが嫌だと言うみたいに。
 そんなとき、私はいつも思う。ただの使用人で彼にとって私が時間潰しの一つの道具でしかないとしても、それでも夢みたいだな、と。こんなふうに彼が私に会いに来てくれて嬉しいとすごく思う。彼が他の使用人の一切を気にしないのに私にだけは話をしてくれるところも嬉しい。彼から色々な話を聞く。ついていけないところがあったら手が空いたときに調べて、また彼の話についていけるようにする。
 没落貴族の一人がメイドにこぎつけたのだと冷たい視線ばかりを浴びる中で、それでも私は一生懸命だった。
 彼が優しくしてくれる。私に話しかけてくれる。私に笑ってくれる。私の話を聞いてくれる。だから私も彼のために笑顔を向けて、彼のために時間を作って彼のためだけに頷く。
 どんな仕事が待っていても決して砕けることはない。どんな闇に取り巻かれていようともくじけはしない。
 剣先を照準に定めて茂みの中から盗賊の格好で馬車を襲う。まずは馬を制す御者を殺し、馬を固定している綱を全て切り放して逃亡させる。車だけが取り残された中ポケットから缶を取り出しぽんと栓を抜き、中身を適当に車にかけ、次にマッチを取り出して火を作る。
 外の私に気付いてないはずはない。カーテンを閉ざしあくまで身を守ることに徹している標的に対し、私は煽りをかける。ぴんとマッチを放れば撒いた油にすぐ火がついた。たんと地面に膝をついて私は静観する。相手がどう出るのかを。
 そのうち炎は勢いを増してめらめら車を舐めるように燃え盛り、ついに往生したらしい相手が奇声を上げながら馬車の扉を蹴破って転がり出てきた。不慣れな手つきで銃を持つ手は明らかに震えている。
 グレイ家にとって都合の悪い相手。それを葬り去るのが私の仕事の一つ。
 迷う暇はない。戸惑う暇もない。銃撃をかわすだけの身体能力はこの数年ですっかり板についた。夜闇に目も慣れた。さながら茂みから狙いを定め相手の喉元に噛み付く、私は獣のようなものだ。
 剣を薙ぐ。それで全てが終わる。
 燃え盛る馬車の炎に照らし出され、全てが赤く染まる。地面を汚す血の色を見つめてから顔を上げて、薙いで転がった絶叫顔の頭を掴んで火の中に放った。だらしなく転がる首から下の死体を切り刻んで部位を次々炎の中に放り込み、全て投げ終わってやっと私の仕事が終わる。
 血で汚れた盗賊の格好を炎の中に放り込み、生き物の焼けるにおいを努めて無視しながら夜空に顔を向ける。
 星。月明かり。炎のせいでいつもより薄れて見える。
 今日は彼がいない。だから彼はこの騒ぎには気付かない。それでいい。こんな私、彼は知らない方がいい。
 嘘を吐いてるわけじゃない。ただ彼が知らないだけで、訊かないだけで、だから私は話す機会がないだけ。彼にとっての私はただの使用人でただのメイドなのだ。それでいい。都合のいい時間潰しの相手。それでいい。
 それでいいんだと、何度だって自分に言い聞かせているのに。どうして私は、そのことを切ないと思っているんだろうか。
「…無理」
 がしゃんと音がした。私が剣先を向けているのに、彼は目の前で武器を放棄した。参ったって顔で両手を挙げて「無理、ホント無理。君に剣を向けるとかできない」と言う。予想はしていた展開だった。ただ本気で、本当に剣を捨てるとは思ってなかった。彼が私に対して剣先を向けることだって十分ありえた。だけど彼は、そうしなかった。それが現実だった。
 だから私は息を吐いた。なんて甘い人なんだろうと、そう思った。
「そんなんじゃ秘書武官なんて無理だよグレイ」
 こぼれたのは本音。今まで自分がこなしてきたことを思えば、今の場面で両手を挙げて降参してしまうようじゃ彼に秘書武官なんてものは勤まらないと思った。剣を鞘にしまって絨毯に転がるもう一方の剣を拾い上げ、ふと視線を上げれば彼は表現しにくい表情をしていた。かなしいのか、さみしいのか、つらいのか、そんな顔。だから私は困ったなと笑う。
「ねぇ、私がもしスパイとかだったらどうするの。今の、グレイは降参で死んでたよ」
「そんなこと絶対ありえない。君はボクを裏切ったりしない」
 迷いのない声で彼が私の言葉を切り捨てる。
 信じてる、のとはまた違うのかもしれないけど、私達の間には言葉で表すよりも確かな絆が存在している。それを信頼と言うのなら、私のこれは、彼も感じているこの想いは、信じているということになるのだろうか。
 確かめ方の分からない気持ちに「そんなの分からないじゃない」とこぼせば、「ありえない。絶対。ぜーったい」とまた否定の声。剣を隠し場所にしまって床板を元通りにした私を後ろから抱きすくめた、彼の腕の感触。ずっとずっとそばにいながら触れることのなかった体温。使用人と主人であるのだから触れようのない一線があったのに、こんなに汚い手をしてる私なのに、彼は私を抱き締める。強く強く。
 夢みたいだ。そのときほど強くそう思ったことはない。
 逃げることを拒むように、抜け出すことを拒むように、彼は腕の力を緩めない。
 ただの使用人よりずっと質の悪い私のことを、彼はきっと知らない。だけど彼の口から秘書武官という言葉が出てきたのだから世も末だ。何も知らなかったのかどこかで何かを知ったのか、彼の好奇心と探究心が尽きない限り、きっと彼は秘書武官をやり通すのだろう。
 私は、グレイ家に残って、彼のいないお屋敷で日々を過ごすのだろうか。そんな絶望にも似た不安が過ぎる。日々の記憶から彼を切り取ってしまえば私に残るものは何もない。ただ手を汚していく自分しか残らない。
「ねぇ」
 甘く囁くような声がして「うん?」と返事をした自分の声が少し変になった。私の耳元に唇を寄せた声が「貴族と使用人の恋ってさ。実ると思う?」と囁く。私は束の間放心して、考えた。からかってるだけなのかなと。そっと振り返ってみると、彼はいつものように私を見て微笑んでいた。月光の青と白を受けて彼はきれいに笑っていた。だから私も自然と笑っていた。口元がほころんでいた。
 彼が笑ってくれるなら、私はなんだってしよう。どこまでだっていこう。その夜、改めてそう思った。
 キスをしたこともないし、今抱き締められたばかりで、何も誓いを交わしたことのない相手だ。彼はからかってそういうことをする人じゃない。分かってる。お世辞にもきれいなんて言える私じゃないけど、そんな私でも、彼は変わらずこうしてくれるんだろう。それが望みであって希望であって、私の願いなのだ。
 ぱちんと薔薇園の白い薔薇を一つ摘んだ。棘を取り除く作業をしてから虫食いがないのを確かめ、陛下の部屋に白薔薇を飾りつける。赤より白がいいわとのご所望だったので、今日はそういう気分らしい。たまたま手が空いていた私がその仕事を引き受け、それも今終わった。陛下はすでに他国の謁見で出ており、部屋は空だ。
 一国の女王になると、貴族のお屋敷よりもずっとずっと偉い身分。部屋の装飾も一つ一つが貴族のものより何倍も丁寧で何倍も華美だった。
 私はグレイ家の方が好きかもしれない。何度も出入りしているうちにそう思うようになった。
 自分の制服姿を見下ろしてから部屋を出て、控えの部屋に戻る。ここから三十分だけ休憩が取れる。少し疲れたから休んでおこう。
「や。休憩?」
「、グレイ」
 部屋に戻ったら先客がいて、私の部屋なのに私よりくつろいでいる彼が手を振ってきた。もうと息を吐いて「乙女の部屋だよ」と頬を膨らませると笑われた。自分でも乙女っていうのは似合わないなとは思ってるけど笑わなくたって。
 彼の座るソファの隣に腰かけて、どうしても気になってる制服のスカートの裾を引っぱって「これ、短いと思うんだけど」とこぼした。お屋敷ではずっとメイド服だったし、そうじゃないときは仕事用の格好だったし、こういうのは慣れない。どうして足が出るデザインなんだろう、いまどきはこういうのが流行りなんだろうか、でも陛下はいつもドレスだしとぐるぐる考えていたらその間じっとこっちを見ていた彼が「いいんじゃないの、別に。似合ってるし」「…似合ってるかなぁ」「うん」ずいとこっちに顔を寄せた彼に思わず顔を逸らせてソファに埋もれた。逃げ道を塞ぐように顔の横に手をついた彼が「まぁちょっと目に悪いよね。男の理性的な意味で」と言ってにっこり笑う。じろりと睨んで「何それ」と返すと「言葉のまんまの意味」と言って手袋を外している手が太ももの上を撫でた。指先がニーソに引っかかる。
「…グレイ」
「何にもしないよ」
 ぱっと手を離して私から離れた彼がソファにぼすと深く埋もれた。睨んだままでいるとはぁと息を吐いた彼が「ボクでなくたってそうすると思うよーその丈。気をつけてよね」ぷいとそっぽを向く。気をつけるって、どうやって。
「ねぇ」
「うん」
「身を滅ぼすほどのものってなんだと思う?」
「…? 銃撃とかそういうこと?」
「そー」
 どうでもよさそうに彼がそう言った。少し考える。その間に彼が「剣の一撃、肉体の老化、そっち系は挙げ出したらキリがないよね」「じゃあ、何が言いたいの? 身を滅ぼすほどのものでしょう?」いまいち彼が何を言いたいのか分からず首を捻った。死ぬかもしれない確率の話なら、挙げたらキリはないけど。
 ソファに置いた私の手を彼の手が握った。手袋をしてない手に触れるのは少し久しぶりだった。ソファに埋もれたまま彼が言う。「愛ってどう?」と。だから私は瞬きした。
 愛? 愛って、愛してるとかの愛?
「…愛って、身を滅ぼすもの?」
 よく分からなくて首を捻った私に、彼が「じゃあ例え話」と言って反動をつけて起き上がった。もう片手が私の太ももに触れて「ボクじゃない奴がさっきみたいに君に触れたとします」「…うん」「 は我慢できる?」「状況によるけど…我慢しなきゃならないんだったら我慢するよ」今は我慢しなくていい状況なので彼の手をべちと叩く。ちぇっと拗ねた顔で「まぁそうだろうね。それくらいのセクハラ耐えないとならない場面、いっぱいあったんだろうね」とこぼして目を閉じた。
「君は我慢できるかもしれない。でもボクが我慢できない」
「え?」
「君に触れた奴が例え死体になってすでに墓の中だろうと、発いて死体を刻んでばら撒いてやって、それでも多分ボクの気は治まらない。どれだけ無意味なことをして愚かだと笑われても、怒りに、身を任せると思う」
「…グレイ?」
 痛いほど、手が強く握り締められた。「どうも指摘されてから気になってさ。いつも通りを貫こうとしたんだけど無理っぽいや」笑ってそんなことを言ってるくせに、今の彼は間違いなく怒っていた。何に怒ってるのか分からないけど怒っていた。だけどそれに私が怒る場面でないことは、会話からもう分かっている。彼は、
 彼は。グレイは、チャールズは、私のことを。
(…夢みたい)
 ぼんやり、いつかにも思ったことを思った。
 決定的な言葉はない。まだキスだってしたことない。こうして触れる機会が少し増えて、こうして言葉を交わす機会が増えただけだ。一緒にいられる時間がお屋敷のときより少し多くなって、その代わり会えないときは本当にずっと会えない。秘書武官兼という仕事をする私達に自由な時間はあまりない。
 退屈でなくていいと、彼はいつかに笑ってみせた。私は彼が笑えるのならそれでよかったし、どこだってついていこうと決めていた。
「…秘書武官兼執事とかしてるしさ。君は兼メイドだし、お互い楽なことしてないけど、言っていい?」
「…何を?」
 心臓がどきどきしている。走ったときや剣を構えたときとは違う高揚感。血が踊るのとは違う全身の熱さ。
 彼の顔がすぐそこにある。貴族の人らしく整ったきれいな顔。小悪魔みたいに気紛れに笑い気紛れに剣を向け気紛れに生きてきた人が私の頬に手を添える。「 」と真摯な眼差しで私を見つめて「愛してる」と口付ける。キスをする。唇に彼の体温が触れる。
 私は目を閉じて、祈った。
 どうかこれが夢ではないことを。夢みたいなこの現実を現実のまま私のそばに置いておいてくださいと、祈った。

馬鹿にもなれない
(もう、お互い知らないフリはできないね)