人は十代半ばにもなれば、この世界のすべき経験は全て通り過ぎたように錯覚し、己の世界がどれだけ小さいかなんてことには気付かず、両手を伸ばしてその小さな世界を抱き締め、そこにこの世界の全てがあるかのように満足し、目を閉じて、自ら経験することを放棄する。
 世界は広大であり強大であり、山は高く、海は深く、森は濃い。せいぜい二メートルの高さにしかなれないボクら人間は、どれだけ背伸びしても一本の木々の天辺にも届かないわけだ。
 犬のように嗅覚が鋭いわけでもなく、猫のように柔軟なわけでもなく、熊のように力があるわけでもなく、鳥のように飛べるのでもなく、平凡で平均的な平べったい生き物である人間は、大して何もできやしない。物語のように魔法を使うことはできないし、普通に生きていれば普通の人生しか送れず、怠けていれば簡単に奈落まで堕ちていく。
 誰かがなくしてしまったものを代わりに取り戻すこともできず、与えることも容易ではなく。崩れやすい日常が成り立つくせに世界はとても頑丈で、強固で、剣を突き立てたところで登っていけるだけの高さなのかどうかも不明。あるいはどこまでもただ九十度の鉄壁が空を突き抜けて続いているのかもしれない。そのくせ崩れるときはミルフィーユのようにぼろぼろと頼りなく、あっさりと崩れ落ちる。それが世界だ。
 つまるところボクらは理解しているようでちっとも解ってなんかおらず、解れてもおらず、経験不足もいいところ。
 それでも世界はこれ以上ないのだろうと道の半ばで立ち止まり、長く長く続く道の果てに何があるのか、もう想像することも創造することもしなくなる。

「何してんの。そんなとこで」
 黄緑の丈の短い草が風に揺れるきれいな丘に、真っ白いものがぽつんと一つ蹲っていて、ボクが声をかけるとこっちを振り返る。その人は真っ白い服に真っ白い髪と真っ白い瞳でボクを見つめたあとに笑った。白い腕を掲げて持ち上げてみせたのは花冠だった。どうやらそれを作るためにここまで来たらしい。
 さくさくと草原を踏んで「帰るよ。今日は風が強い。雨になるかも」と言って空を指せば、通り過ぎる雲を見上げた彼女がじっと空を見上げ続ける。「何? なんかある?」雲が流れるだけの空に首を捻ると、彼女が唇を動かして何か言う。声は聞こえない。でも唇の動きからボクはその言葉を読み取る。
「渦巻いてる?」
 こくこく頷いた彼女が片手で雲を指して片手をぐるぐるさせる。あの雲が渦巻いてる、と言いたいらしい。彼女から視線を外してその雲とやらをじっと睨むと、確かに端っこの方が風で渦を巻くように消えたりしているのが見えた。
「目がいいね。ここからぱっと空を見て、キミはそんなものが見えるんだ」
 ぽつりと漏らす声が風に掻き消されてすぐに消えていく。
 ボクがじっと見つめなければ分からないことでも、キミには分かったりする。キミが知らないものをボクが見聞きしているのと同じことだろう。
 すっくと立ち上がった彼女が手を伸ばして花冠を掲げた。そしてそれをぱさりとボクの頭に置く。ひらりと視界を舞った花弁に一つ瞬いて空から彼女へと視線を移すと、誇らしげに笑っていた。きれいに笑っていた。すごいでしょう、きれいでしょうとでも言いたげな顔だった。そして似合ってると彼女は声のない言葉を口にして笑う。きれいに。誇らしげに。
 頭に置かれた花冠は計算されたようにボクの頭にぴったりだった。
 ひらりとまた一つ風に乗って花弁が舞う。そっと手を伸ばして花冠に触れて、「ボクにくれるの?」と訊けばこくこく頷いた彼女。にこにこした笑みでボクの手を取って引っぱって歩きながら似合ってると彼女は笑う。「ありがとう」と言ったボクに彼女はさらに嬉しそうに笑う。しあわせだ、というふうに笑う。
 たとえ声がなくても構わないと。そんな顔さえして、彼女は笑う。
(でもボクは、キミの声が聴きたいよ)
 白くて長い髪が、スキップしながら丘を下る彼女の背中でぴょんぴょん揺れる。軽やかな足取り。緑の丘を囲うように白い柵があり、入り口では犬が一匹ボクらの帰りを待っている。彼女が手を振ればお座りをしていた犬がぱっと立ち上がってはちきれんばかりに尻尾を振って返事をする。
 彼女の足取りとは逆に、ボクの足は重かった。どうにか口元で笑うことができたけれど、彼女の笑顔が胸に食い込む度、どうして声が聞こえないんだろうなんて考えてしまう。
 理由は分かってる。だから無理に声が聴きたいんだなんて言えない。
 でも声が聴きたい。他の誰でもないキミの声が。
 医者は言っていた。精神的なショックによるものだろうと。彼女の身体はいたって健康であり、問題があるのだとしたら心の方なのだと。
 彼女は少し前に家族をなくした。金銭目的で侵入した強盗に、帰宅時に遭遇してしまったのだ。家族でショッピングをして食事をし、他愛のない話をしていたところだったと、彼女はあとになってボクにそう教えてくれた。
 彼女の父親は警官の一端であり、正義感が強かった。当然立ち向かった。我が家を荒らした強盗を警察の名にかけても自分の威信にかけても捕まえるつもりだったんだろう。その正義が仇になり、強盗二人組みは逃亡の道をなくし、脅し目的だけで携帯していたであろうナイフで父親を殺害、悲鳴を上げた母親を殺害、逃げようとした彼女の弟を殺害。彼女が呆然と血に染まる床に座り込んだときにようやくボクが駆けつけ、強盗二人組みを殺した。
 そのときにはもう彼女の声はなくなっていた。強盗二人組みは三人の命と彼女の声を奪っていったのだ。
 事情聴取のときも、取調べのときも、彼女は喋れなかった。口を動かしてみれど声は出ず、喉をいくらさすっても呼気が漏れるだけで、言葉は発せなかった。それに彼女自身呆然としていた。
 ボクが助け舟で紙を持ってきてそれに文字を書いてもらうという方法を提案したけど、その文字も拙く、小さく、震えていた。
 家族がみんな死んでしまった。お葬式をしないといけない。でもそのお金はどうすればいいのか。どこから出せばいいのか。これからどうすればいいのか。震える小さな文字でそう綴った彼女はぽろぽろ涙を流していたけれど、やはり声はなかった。
 他者に、特に知らない異性に怯えて逃げ出そうとさえする彼女に、警察がお手上げだと言ってボクに放って寄越した。ボクが強盗から助けた、と言えば聞こえはいいけど殺される前に殺したからか、彼女はボクにだけは素直に文字を綴って話をしてくれた。
 助けてと震えた文字で訴えられて、声なくただ涙を流す彼女はとても頼りなく、これから身寄りのないたった一人きりで世界に出るには無謀すぎた。
 彼女の白い手にそっと掌を重ねて、いいよと言ったのは、ボクの心のどの辺りからきた感情なのだろう。
「おいしい? そのチーズ、いつもよりちょっと高いとこで仕入れてきたんだ。臭みがないでしょ」
 こくこく頷いた彼女が一心にスプーンを動かしてスープを飲んでいる。白い髪を汚さないように頭の後ろの方で縛って一つにして、チーズ入りミルクスープをすする彼女はほっそりしていた。フランスパンをちぎってはスープにつけてやわらかくして口に運び、ぱくぱく量を食べていくわりに、彼女は細いままだった。
 フォークをサラダに突き立てるとしゃくと音がして、緑の葉を口に入れればしゃくしゃくと音がする。自作のスープをすすってみればまぁそれなりの味で、及第点かなぁと自分のスープにスパイス要素が足りないことを自覚した。次はもう少し何かスパイスを効かせよう。
 テーブルに頬杖をついてパンをちぎる。スープ皿を持ち上げて中身を全部飲み干した彼女が息を吐いてことんと皿を置いた。それから不思議そうな顔でボクを見つめて食べないの、と唇を動かすから曖昧に笑う。「実はそんなにお腹減ってないんだよね」と。首を傾げる彼女に「仕事でちょっと食べてきたからさ。そっちの料理がなかなかおいしくてね。その味を思うとボクの料理ってまだまだだよ」はぁと溜息を吐くと白い手が伸びてぴんとボクの前髪を引っぱった。視線だけ上げるとちょっと怒った顔をした彼女がいる。
 おいしいよ、と彼女は言った。音のない声で、言葉で、私はグレイの料理が大好きと、そう言った。
 ひどく胸が痛い。
(…声が。聴きたい。キミの声が)
 彼女の手を握って「そうかな」とこぼすとこっくり深く頷かれた。ボクの手を握り返した彼女がフランスパンにかぶりつく。一生懸命噛み切ろうとしている姿を見ていたら少し食欲がわいた。片手でスープ皿を持ち上げてすすってみる。うん、やっぱスパイス足りない。今度何か買ってこよう。
 他者に怯える彼女のために人里離れた場所に家を買い、そこからわざわざ馬で人里まで下りて仕事をしに行くボクと、家で野菜やハーブの畑を作って世話をしている彼女。普段は彼女が食事を作り、仕事のない日や休みの日はボクが料理をする。最近はそんな日々がすっかり日常となっていた。
 誰かがいたらいたで怖いけれど、誰もいないのも怖いという彼女のために番犬も飼った。犬の中でも体高を誇る大きなやつで、アイリッシュ・ウルフハウンドというらしい。犬のことはよく分からないけど彼女が気に入ったからそれにした。利口で我慢強く、彼女によく懐いている。名前はなんだっけ。
 気付いたように立ち上がった彼女がボクの手を離す。庭に面した窓を開ければ、こっちを覗いて舌を出していた犬のことをアッシュと呼んだ唇が見えた。ああ、アッシュって名前なのか、知らなかった。そのアッシュは彼女の手に促されて家に上がると、マットの上で足の裏を拭いてもらうまで座って待っている。利口だ。頭がいいんだな犬って。耳も鼻も効くだけじゃなくて。頬杖をついて彼女がアッシュの足をきれいにする様子を眺める。所詮犬は犬だなんて思ってたけど、飼ってよかったな。
 席に戻ってきた彼女にぴったりとついて回るアッシュ。彼女が首を傾げてこっちを見ている。
「そいつ、アッシュっていうの? アイリッシュを略した呼び名かな」
 こくりと頷いた彼女が変かなと眉尻を下げた。首を振って「いいんじゃない。なんかどっかにいたよね、そんな名前のヤツ」スープをすすりつつそんなことを言うボク。きっちり座って背筋を伸ばしているアッシュの頭を撫でた彼女が笑う。そうかな、と。
 キミに声さえあれば、言うことなんてもう何もないのに。文句のつけようもない生活なのに。
 恋人でもないのに一緒に暮らして、手を繋いで、抱き締めて。身寄りのない一人の女の子のために家を買い、犬を飼い、その生活を支えるボク。自分の時間もお金も捧げ、料理にしたって、できることは全てやっている。
 ボクは何がしたいんだろうか。客観的に見て今のボクって何をしてるように見えるんだろう。何をしたいように見えるんだろう。
(…なんだろう。何かな)
 ずず、とスープをすすって飲み干す。ことんと皿を置いて頬杖をついて彼女を見つめた。フォークを手にしゃくしゃくサラダを食べている。よく食べるのに、君はどうして細いままなんだろうか。もっと健康的になってくれればいいのに。
 ぱちりと目が合う。彼女が首を傾げる。さらりと白い髪が揺れた。ボクは曖昧に笑う。キミのようには笑えない。
「ねぇ
 うん、と彼女が頷く。なぁにと首を傾げる。こういうのはずるいかなと思ったけど、自分から言い出せなかった。だから彼女に先に言ってほしかった。音にはならなくても確かめたかった。
「ボクのこと好き?」
 そう言ったら、目を丸くした彼女が何度も何度も瞬きをして、それからぱっと顔を伏せる。あっという間に耳まで赤くなってしまった彼女の答えは聞くまでもなかったけれど、聞きたかった。できれば声を聴きたかった。キミの中で家族を目の前で殺されたことがどれだけの傷になっているのかボクには分からないけど、理解したい。近づきたい。キミの傷を、痛みを、悲しみを、全て分け合いたい。うん、そうだ。そうなんだ。だからボクは、つまり。
(そうか。ボクはキミのことが)
「…指輪。今度買ってきてもいい?」
 少しだけ視線を上げてこっちを見た彼女にボクは笑う。自然に笑えていた。無理なく笑えていた。「シルバーがいい? ゴールドでもいいよ。真珠がいいって言うなら取り寄せるし、ルビーでもサファイアでも何でもいい。買ってくるよ」彼女が戸惑った顔をする。おろおろ視線が泳いでどうして、とその唇が動く。どうしてとボクに訊く。だからボクは言う。ついさっき自覚したばかりの感情を、声をなくし家族をなくし涙を流すキミに伸ばした手が思っていたことを。
「キミを愛してるから」
「、」
「キミの声が戻るまで。戻ったあとも。ボクはキミのそばで、キミのために、ボクのためにも、生きていく」
 テーブル越しに彼女の白い手を取ってその手の甲に口付ける。じっと細い指を見て自分の指でサイズを測って「ねぇ、指輪はどんなのがいいかな」と訊いても声の答えはないと知っていた。
 だけど鼓膜を、音が打った。
「…ぃ」
「え?」
「ぐれぃ」
 喉につっかえているような声。彼女の指から視線を剥がせば、いつかのようにぽろぽろ涙をこぼして泣いている彼女がいる。あのときは事情聴取の最中で、喋れない彼女を参考人だと言い張る警察がしつこく喋れない彼女に喋れと言っていて、傍らのボクがさすがにムカついて相手を殴り倒したとき、彼女は泣いていた。ごめんなさいと掌で顔を覆って泣いていた。自分が喋れないのだという事実に絶望し、失望して、そのことで周りに迷惑をかけていることに泣いていた。
 今は、泣いているけど、あのときとは違う。「ぐれい」とつっかかった声でボクのことを呼んでいる。呼んでいる。呼んでくれている。
…声が」
「ぐれい。ぐれ、い」
 ひっくとしゃくり上げた彼女がもう片手でごしごし目をこする。「ぐれい。ぐれい、ぐれい」と何度もボクを呼ぶ。まるで今まで呼べなかった分をまとめて呼んでるみたいに何度も何度も。何度でも。
「ぐれ、ぃ」
「いるよ。聞こえてるよ。ちゃんと、聞こえてる」
 椅子を蹴飛ばして立ち上がってテーブルを回って彼女を抱き締めると、「ぐれい」とまた呼ばれた。「聞こえてるよ」と囁いて彼女の白い髪を撫でる。ぎゅっとボクに抱きつく彼女が言う。「わ、わた、し、も、あい。してる」と。「すきだよ」と。「だいすき」と、聴きたいと思っていた声で、ボクの望んでいる言葉を何度も何度も。
 ああ、と目を閉じる。腕の中に彼女の温もりを感じる。泣きながら「ありがとう」と言う声が聞こえる。
 あのとき、助けてと震えていたキミの文字に、キミの存在に心を震わせたのは、ボクの方だったのだ。

(大げさだって笑うかもしれないけど、ボクにはキミの声が、それくらいきれいに聞こえるんだよ)