親同士が決めた結婚相手。私は一国のお姫様、相手は一国の王子様。二人の結婚を機にこれから国同士手を取り合って仲良くいきましょう、という儀礼的な結婚に、私は少し憂鬱だった。
 だって結婚だ。一生に一回のものだ。平民であれば別かもしれないけれど、私はお姫様。姫の結婚が二度も三度もあるはずがない。だから私にとって結婚とは最初で最後のチャンス。この先の未来を共に過ごす伴侶を得るという人生で一か二を争う大事なこと。
 だけど私にとってとても大事なその結婚も、親や国のお偉い人達からすればただの通過儀礼であり、国同士が歩み寄りなおかつ結婚という形で相手の国にどこまで政略的に入り込めるかという、そういう黒くどろどろしたものも含まれている。表立って喜ばれ祝福され祝われるけど、その裏では政治が動いているのだと知っている私はやっぱり憂鬱気味になってしまう。
「何さ。さっきから溜息ばっかり吐いて、景気悪い顔してるね」
「…だって」
 そんな私に声をかけたのは結婚相手である王子様。向かい側でスコーンをさくさく平らげて紅茶をすすっている彼がさらにクッキーへと手を伸ばす、その指先がふいに止まってクッキーから離れ、私の前髪をさらりと払った。何気ない行動と王族にはあまりない気軽さというものを持ち合わせている彼は、景気の悪い顔をしてるらしい私に笑いかける。「せっかくいい天気なんだから、ティータイム楽しもうよ」と。そう言われて私は手元に視線を落とした。彼が食べていたのと同じスコーンが少しも手をつけられずにお皿に載ったままだ。
(食べないと、もったいない、かな。こういう時間、そう長く取れるものでもないし)
 彼の指先が頬を滑り落ちた。その手がどうぞとお皿を示す。もう片手で頬杖をついてこっちを見ている視線から逃げるようにスコーンを手にしてはむとかぶりつく。
 彼の影響で私もちょっとお行儀が悪くなった。親には怒られるかもしれないけど、向かい側の彼が満足そうに笑うから、まぁいいかなと頬が緩んでしまう。
 グレイという名前の彼とは最近知り合った。隣の国の王子様なのだと噂に聞いてはいたし、剣の腕が達者で稽古が好きな人なんだと聞いてはいた。乗馬やスポーツが得意で、あとは紅茶に詳しいんだとか、結構な量の食事をぺろりと平らげてしまうんだとか、噂はたくさん聞いていた。だけど噂は噂であって、私は彼に一度も会ったことはなかった。
 隣の国との国境付近で昔からいざこざの絶えなかった歴史に終止符を打ちましょう、なんて私の親が言い出したときには何事かと思ったけれど、つまりはこれだ。政略結婚。国民に言っていたことがどれくらい本当なのか知らないけれど、私は結婚する。結婚させられる。そこだけは事実なのだ。
 でも、別に、すっごく嫌なわけではない。グレイは私によくしてくれる。政略結婚だということも百も承知だ。だから彼はそういう話をした私に笑ったものだ。ブサイクなお姫様だったらどうしようかと思ったけど、よかったよ君でとばっさり言って笑ったものだ。私は眉根を寄せて負けじと言い返した。私だって、ブサイクな王子様だったらどうしようかって思ったわと。彼がこてりと首を傾げてそう、じゃあにボクはどう見えてる? なんて真顔でこっちを見つめて訊いてくるから不覚にもちょっとどきっとしてしまった。お世辞ではないけど、彼はかっこいい人だ。よく食べるのに全然太っていないし、肌もきめ細かくて白い色で、馬に乗るのも得意で剣劇だってやってみせる、かっこいい人だ。
 ごにょごにょとかっこいいと思うと言うと、きょとんとしたあとに彼が盛大に笑った。どうしてそこで笑われないといけないんだと拳をふるふるさせる私にお腹を押さえて笑いを堪えながらああ、びっくりしたんだよごめん、ごめん怒らないで。すっと伸びた手が拳を握っている私の手に触れて、その体温にどきりとする。射抜くように鋭い瞳に見つめられると自然と拳を握る力が緩んだ。
 、かわいいよ。君は理想的なお姫様だ。ボクが君と結婚できるなんて夢みたいだよ
 さっきまでの笑いを引っ込めた真面目な顔が私にそんなことを言う。初めての対面で短い時間だけの二人の交流で、彼はそう言って笑った。王族にあるような気取った笑顔ではなく、周囲に威張り散らす笑みでもなく、同年代の少年少女がそうやって笑う、王族の人はあまりもたない類の笑顔で。
 大丈夫。たとえこれが仕組まれたことだとしても、その骨格は全部ボクが壊してあげるから。絶対に君を幸せにしてあげる
 私はその笑顔にストライクだった。やられた。真面目な顔もすればころころ笑ったり退屈そうに欠伸をしたり、彼は自由気ままだった。王子の枠にとらわれることなく様々なことをやっていた。私はそんな彼に憧れや好意、様々なものを抱いた。だから、私は彼と結婚すること自体に異議は見出せなかった。
 結婚式が迫っている。そう思うとなんだか落ち着かない私だったけど、グレイはいつも通りだった。だから私もいつも通りを心がける。
 彼は自分のペースを崩さない。それは彼のすごいところの一つだ。
「…最近気になってる噂があるんだ」
「? 噂?」
「そ。も耳に入ってない? 森の魔女の噂」
「ううん、知らない」
「…そっか」
「……何か、深刻なこと、なの?」
「ボクにとっては至極ね」
「…? グレイにとっては、ってどういう?」

 かちゃんとカップを置いた彼が素早く周囲に視線を飛ばした。お行儀が悪いのを承知でずるずると椅子を引きずって私の向かいから隣へと移動して腰かけ直す。控えている執事やメイドが微妙に眉根を寄せたのが見えた。それを今は見なかったことにする。
 私の耳に唇を寄せた彼の声はこう言った。「君を狙ってるって話なんだよ」「……?」理解が追いつかずに瞬きを繰り返す私に吐息した彼。さらに三秒くらいたってからようやく彼の言葉を呑み込んだ私は困惑した。「え、私? どうして?」とおろおろ視線を彷徨わせる。森の魔女なんて呼ばれてる人とは面識なんて一切ないのにどうして私が、狙ってるってどうして。
 無意識に握っていた拳をゆっくり掌で包み込まれて少しだけ気持ちが落ち着く。私の指を解きほぐす指が誰のものか知っているからだ。「落ち着いて、大丈夫」という声が彼のものだと分かるからだ。きっと不安の表情になってたのだろう私に彼が笑いかけてくれる。

「何があっても、ボクが君を守るよ。なんたって君はボクの大事なお姫様だからね」
「…私にとってのグレイも、大事な、王子様なんだからね。無理しないでね」

 そう懇願した私に彼はやわらかく笑って額にキスをくれた。やわらかい唇の感触に瞬きを忘れてしまう。慈しむように髪を撫でる手に心臓が一つ大きく鼓動する。
 どきどき、している。私。顔が熱いと感じるくらいに。
 でもさすがに、執事やメイドがいる前でこれ以上触れ合うことはできない。それは彼も承知しているようで、伸ばした手でパンケーキをつまんでぱくぱくと食べ出した。それを見習って、まだ全然減ってないスコーンにクリームをつける。お行儀悪いってあとで注意されるんだろうなぁと思いつつかぷとかぶりつく。隣では彼が満足そうな顔でパンケーキを頬張って「んーおいしい、こっちのもいい味だね。特にフルーツがいい」「グレイの方は、木の実が主流なんだっけ?」「土地柄だからしょうがないね。風味あるのもいいけど、こういう組み合わせも口新しくていいなぁ」ぱくぱくパンケーキを平らげる彼は満足そうだ。だから私もそれで満足して、外でティータイムしただけのことはあるなぁと思って紅茶のカップを手に一つ吐息する。
 彼のさっきの言葉が頭の隅で引っかかっていたけれど、今はそれを意識して追い出す。
 森の魔女なんて私は知らない。関係ない。狙ってるなんて、噂だし、きっと嘘だ。そう思いたい。