ぶっちゃけると、ボクは結婚がそう重要なものとは考えていない。王族でしかも跡継ぎの王子という特別な立場でこの世界に生まれ落ちたボクだけど、その考えは恐らく平民であったとしても何も変わっていなかったと思う。
 人と人が手を取り合ってこの先も一緒に生きていくこと。もろもろの定義を解釈すると、結婚というものはそういう意味になる。
 社会的経済的人間的結びつきだとか、法的正当性だとか、そういう堅苦しい言い方で辞書にはつらつら文字が並んで説明されてるけど、結婚ってつまりそういうことだ。
 これからも君にはボクのそばにいてほしいとその手を取って誓いの口付けをする。君がほしいと囁く。愛してると言葉を伝える。結婚なんてものがなくても、ボクは全然構わない。噂でしかなかった隣国のお姫様と顔合わせをすることになったのは確かに結婚話が理由だったから、その点では結婚て言葉に感謝してもいいくらいだけど。
(って、何考えてたんだっけボク…)
 蝋燭の灯りがゆらゆら揺れるだけの室内で、ベッドの上に転がって天井のシャンデリアを眺めていたところから思考が返る。見慣れない天井だなぁと思いつつ反動をつけて起き上がると暗い部屋があるだけで、装飾の施された壁や柱が暗い灯りに僅かに光って見えた。腕組みして頭の中から地図を引っぱり出す。
 婚約したと言ってもまだ微妙に腹の探り合い状態のこの時期、お互い気を許しているはずもなく、余計な情報は一切掴ませないという徹底振り。城を一通り案内はされたけど瞬く間の流れるような時間目にしただけであって、どこへ行くにも案内人ならぬ監視の目がつく。休むためにこの部屋に通されてからは誰の目も感じないけど、勝手に外に出ようものなら人がすっ飛んでくるのだろうなんてこと分かりきっていた。
 はっきり言ってめんどくさい。ボクは確かに隣国の王子でこの国のお姫様を貰い受けるわけだけど、だからって国や親の言いなりの駒になる気はさらさらない。今回はたまたま、会ってみたお姫様が気に入っただけで、政略結婚なるものに手を貸してやるつもりもない。
 たまたまそのお姫様が気に入ってしまっただけで、別に全然、そういうつもりはなかった。
 そのつもりはなかった。隣国同士で仲がよくなく国境付近はいつも睨み合いが続き、国民から不平不満が溢れているときに歩み寄りなんて形で出会うまで、ボクは彼女のことなんて知らなかった。
 時の悪戯か、運命か。ボクは彼女と出会った。親の言うことも国の言うことも聞く気はなかった。受けつけなかったらはっきりそう言ってやろうと思ってた。
 だけど目が合った瞬間、頭が真っ白になって、考えていたことを全て忘れた。
 要するに、ボクは彼女に一目惚れだったわけで。
(部屋、のいる部屋…ここだっけなぁ。遠いなぁ。っていうか間違えてたらすごくマズいし、今夜はここに缶詰かぁ)
 知らず溜息がこぼれて、それに自分で苦笑いした。
 昼間ティータイムの時間を過ごして、夜は彼女の両親を交えて当たり障りない国同士の話をしながらの会食。口を噤んで駒鳥よろしく小食な彼女が残した料理はもったいないからとボクが全部もらっておいた。行儀が悪いとか影で言われるんだろうけど構わなかった。目だけで笑った彼女が見えたから、ボクはそれでよかった。おいしい料理をお腹いっぱい食べれることは幸せなことだし。
 明日の朝ご飯まで彼女には会えないだろう。それはすごく退屈だ。せっかく同じ城の中にいるのに会えないなんて。

「……結婚かぁ」

 ぼやいた声がすぐに闇に溶けて消えた。じじ、と蝋燭の光が揺れる。
 思考がぐるぐる堂々巡りを始めると、どうやら今はそこに行き着くらしい。
 昼間、彼女は浮かない顔をしていた。政略結婚という形で結婚しないとならないことにいい顔ができないらしい。そりゃあ使われてる感はあるだろうし、笑えなんて言えないけど、そんな顔ばかりされてるとボクだって笑えなくなる。あんまり気になったもんだからボクのこと嫌い? なんて訊いてみたときもあったほどだ。でも彼女はその言葉にはぶんぶん首を振った。
 違うの、グレイのこと嫌いだなんて、違う。でもね、私ね。少し顔を俯けた彼女が結婚って一生に一回でしょうと言うから首を捻ってそうかもねと返す。じっと赤い絨毯の床を見つめて本当はね、素直に心から、おめでとうって、祝ってもらいたかったの。だって結婚だもの。国や偉い人達が笑顔の下で何考えてるのかなんて考えないといけないような、そんなの、私。しまいにはほろりと涙をこぼして泣き始めた彼女が目に痛かった。そんなこと関係ないって言えるほど彼女は親や国から心を離しているわけではなく、普通の家庭なら望めるあたたかい祝福を願っているだけだった。お姫様って人にはそれなりに会ってきたつもりだったけど、その立場でも立っていけるようそれなりにわがままに育ったお姫様ばかり見てきたボクには彼女がただの女の子にしか見えなくて、そんな自分に少し困惑した。
 、泣かないで。腕を伸ばして抱き締めた彼女は思っていたより細くて小さかった。
 泣かないで。ボクは本当に君を愛してる。大丈夫。君の不安は全部ボクが取り払う。絶対だ
 顔を上げた彼女の頬を涙が伝う。どうやったらそんなふうに泣けるのか、泣かないってことをしないボクには不思議だったけど、彼女はようやく笑ってくれた。ああやっぱり笑ってくれるといいなと思いながら彼女の涙を指で拭うと、熱を感じた。持て余すこの熱をぶつけたい欲を押さえ込みながらボクは彼女を宥めて、何でもいいからと話をした。面白い話もくだらない話も全部。
(そう、その中で気になったただの噂話があったんだった)
 森の魔女の噂。古森に伝わるただの言い伝えで、姿を見たなんて人は少数だけど、ボクらの国を跨ぐように国境線上にその森は広がっている。特別薄暗いとか気味が悪いとか迷いの森だとかじゃなく、どこにでもあるただの森が。
 そこに魔女が住んでいて、どうしてか彼女に目をつけた。そんな噂を耳に挟んだ。ボクとしてはただの噂であっても警戒したくなる話だ。その魔女が具体的にどんな相手で本当に魔女とか言われるほど何かできるのかとか何も知らないけど、潰してしまいたい。不安の芽は全て。
 国に帰ったらさっそく馬を駆って、まぁ一応護衛を数人連れて、魔女退治にでも向かおうか。魔女なんていないとはっきりするならそれでもいいし、存在しようものなら今後のためにも斬って捨ててやる。結婚式までに不安の芽はできる限り摘んでしまおう。彼女はそういうことに慣れていないだろうし、潰す作業なんて間違いなく悲しそうにするだろうから、ボクがやる。彼女は何も知らなくていい。あの細い手は何かを手折るためにあるんじゃない。ボクと繋いでくれればそれだけで十分だ。あとはボクが片手で全て捻り潰すだけ。
(よし、それでいいや。帰ったら魔女退治、よし決定)
 思考が一つまとまったところであふと欠伸が漏れて目を擦る。寝台の上の時計に目を凝らすと日付けが変わったらしいことが分かった。そろそろ眠らないと。
 本当ならのかわいい寝顔を眺めながら寝られたら一番いいんだけど。それはもうちょっとお預けだ。
 諦めて目を閉じると、瞼の裏に彼女が見えた。ボクの真似をしてスコーンにかぶりついて、欠片を頬にくっつけてる姿。
 ああ、ボクって馬鹿みたいに彼女にベタ惚れなんだなと薄く笑う。それで全然いいんだけどね。
「おはよ」
「おはよう。眠れた?」
「んー、それなりに」
 朝食の席について彼女と少し言葉を交わした。すぐにテーブルの用意がされてメイドや執事が行き交い始めたから会話はそこで終了。今日もおとなしめのドレスを纏った彼女はどことなく元気のない顔をしている。もしも森の魔女のことを気にしてるんだったらボクが退治してきてあげるから大丈夫と言いたかったけどぐっと我慢。余計なことは言わないでおくべきだ。ボクが影で手を打って何事もなかったようになるならそれが一番彼女に負担がかからない。
 今日も今日で当たり障りない国同士の共通話題を振ったり振られたりの会話で食事は終了。小食な彼女が残したものはやっぱりボクがもらっておいた。
 食後の散歩の時間をもらって、ようやく彼女のそばに立つ。「もっと食べなきゃ、あんなに残しちゃってさ」一番にそう言ったら彼女は困ったような顔をした。「あれくらいがいつも通りなんだけど」「…女の子ってそんなもんなのかな」自分が大食らいだからピンとこずに首を捻る。彼女は曖昧に微笑むだけだった。
 手入れの行き届いた庭園を歩きながら、入口辺りでこっちを睨むような人の目を感じてふうと息を吐く。
 手を繋ぎたいのにそれすら自由にできない。結婚したらべったりくっつこう、絶対そうしよう。国の上に立ったら誰の文句も一蹴できる立場になるんだから。
「グレイ」
「ん? 何」
「あの、ね。昨日言われたこと、よく考えてみたの。心当たりがないかどうか」
「? なんだっけそれ」
「森の魔女の噂っていうの」
「ああ」
 やっぱりそれだったか。というのは顔に出さないようにして首を捻って「考えて、何かあったの?」と訊くと彼女が微妙な面持ちで頷いた。ちょっとぽかんとしてから慌てる。魔女に狙われるような何かが彼女にあるなんて。がしと細い肩を掴んで顔を寄せて「え、どういうこと? まさか魔法が使えるなんて言わないよね?」と問い詰めると困惑顔の彼女が人目を気にしながら「そんなの無理だよ。そういう大げさなことは無理だけど、えっと」「何?」「あの、私、心からそう思うと、不思議なことが起こせたりするみたい、なの」「…つまりどういうこと?」眉根を寄せたボクの唇に指を当てた彼女がもう片手をボクの手に重ねた。指先と掌が冷たい。
 困った顔の彼女とその体温に一つ深呼吸してから身体を離す。誰か飛んできたら話を中断せざるを得ないから、まずは落ち着こう。深呼吸深呼吸。
「小さい頃の話だけど…お城に昔からいた犬がいて。大きな犬だったんだけど、ある日突然死んじゃって」
「うん」
「一緒に遊んでた犬だったから、私、悲しくて。一晩ぐずって泣き続けて、その犬のそばにいたの。それで泣き疲れて眠っちゃって、朝目を覚ましたらね、その子が起きてたの。いつもみたいにわんって返事をくれた」
「あれ。死んだんじゃ…?」
「うん。死んでた。でも起きてたの。私嬉しくて、またその子と一緒に庭を駆け回って遊んでた。それで安心して部屋で眠って、次の日に、死んじゃってたの。私のそばで一緒に眠って、そのまま」
 神妙な面持ちの彼女が「大人達が気味悪がって、私が止める間もなく埋葬されちゃったから、今はお墓しかないけど」「…うーん、死んでたんだよね、ちゃんと。その犬。ごめん、死んだ連呼して」彼女は緩く頭を振った。その瞳が潤んでいるのがよく分かる。
「…息はしてなかったし、私、そばでずっと泣いてたから。悲しくて悲しくて。お願い死なないで、いかないでって願ってた」
 胸の前で手を組んで祈りを捧げるようにして、彼女がそう言う。現場を見てないボクとしてはしっくりこない話だけど、彼女が自分で思い当たる節を見つけてしまったという事実が今は重要だった。その奇跡を信じるとして、それは魔女が君を欲する理由になるのかどうか。
 どのみち決まってるのは、片付けること。それだけだけど。
 もし君が奇跡を起こした過去を持つとして。それがあろうとなかろうと、この目に映る君は変わりないのだから。
 ボクのかわいいお姫様の手を取って唇を寄せる。
の話もっと聞きたいな。どんな些細なことでも、奇跡の話でも、愚痴でもさ」
「グレイ…」
 少し頬を赤くした彼女が笑う。微笑んで返しながら、長い姫袖を都合よく使って人目を遮り手を繋いだ。どことなく冷たいままの彼女の手をあたためようとぎゅっと強く握ると、彼女が笑った。くすくすと木漏れ日のあたたかさを浴びて笑っていた。
 こんな時間を守っていくためには、芽を摘もう。森の魔女という悪い芽をこの手で。