森の魔女の噂なんてものを聞いて少しの不安が胸に燻ぶっていたのは、もうだいぶ前のことだ。
 グレイは言った。結婚式までに不安の芽は摘んでおくからと。その意味がよく分からなかったけど、恐らく魔女の噂のことを言ってたんじゃないかと思ってる。だからそのことは心配しなくていいって、そういうことじゃないかな。
 今は国中が私とグレイの結婚式に注目していた。私は結婚について憂うことはもうやめて、この行事が終わりさえすれば彼と一緒に生活することができるのだと、その幸福についてを考えることにした。
 たとえば一緒に乗馬をする。グレイは馬が得意だって言ってたから、嗜み程度しかできない私は彼に手取り足取り教えてもらわないと。剣はさすがに無理だけど、剣術を振るう彼の傍らで本を読むくらいのことはできるだろう。国政や知識が足りない私は、彼と一緒にそういうことも考えていけるようになるだろう。ううん、そうならないといけない。そうやってグレイのそばで、手を取り合っていきたい。生きたい。
 大きなオープン式の馬車で、私と彼が隣り合って座って、煉瓦の道を行く。かぽかぽと馬の蹄が煉瓦を行く音が耳に入る。
 視線を落とせば、彼と重ねた私の指にはエンゲージリングが光っている。自然と口元が緩んでしまう。なんてきれい。
「うるさいほど人がいるねー。大げさなくらいだ」
 ひらひらと降る紙吹雪をしっしと鬱陶しそうに払う彼。私は顔を上げ、この景色と幸せなこの気分を胸に焼きつけた。馬二頭に引かれる馬車に乗って、周りを固める警備の兵の向こうには群集。紙吹雪の籠を持って笑っている。「姫様!」「姫ーっ、おめでとうございます!」「おめでとうーっ」声が聞こえる。憧れていた、祝いの声が。
 幸せだ。隣には最高の王子様。私がこの先一緒に生きていく人がいる。周りには私達を歓迎して祝ってくれる人がいる。
 嬉しい。ただこんなにも。
 ぽろぽろと泣き出した私に、彼が仕方ないなって顔をして私を抱き寄せた。指先が私の涙を拭って「最高の記念日でしょ。泣かない」「うん…泣かない。笑うよ」ぱっと笑顔を浮かべると彼が一つ頷く。指先が目尻を拭って私の頬を滑り落ちた、そのときだった。前方でヒヒーンと馬の鳴き声と共に隊列が崩れた。スイッチが切り替わったように鋭い目をした彼ががしゃと剣の柄に手をかける。
 私は、どくり、と心臓がいつもと違う感じに鼓動していることに胸を押さえていた。
 苦しい。これは、何?

「これはこれは、皆様お揃いで。手間が省けてこちらとしても助かります」

 声。耳に届いた声に顔を上げる。前列の警備が崩れていた。馬が転倒し、人がその下から抜け出そうともがいている。私達を祝うために集っている群衆は途端にざわつき、後退し始めた。黒い燕尾のコートに質のよさそうなものを着た、一見すれば執事に見えるその人がとんと軽く地面を踏み出す。墨色だった瞳が私を見止めて鈍い赤に光る。
「で、君誰? 大事な式典でこんなことしてどうなるか分かってんの?」
「承知しております。私はただそちらのお姫様を貰い受けるべくやってきたのみです」
「…貰い受ける?」
 きん、と鞘から剣を抜き放ったグレイが鋭い目で黒い燕尾服の人を睨む。いつもと違う低い声。私は自分の腕をさすった。寒い。寒いと感じる。私、どうしてあの黒い人から目を離せないのだろう?
 警備兵が槍と剣を手に「後退しろ、後退だ! 隊列を整えろ!」「姫と王子をお守りするのだっ」「馬車後退だ、向きを変えろ!」声が飛び交い馬が蹄を鳴らす音が続く。馬が一頭になったんじゃ二頭引きの馬車が動くはずもない。今はどうでもいいはずのことが頭をよぎってまた腕をさする。グレイに剣先を向けられても黒い燕尾服の人は微笑みを浮かべて赤く光る目で私を見ているだけ。
 寒気がする。なんだろう、あの目は。どうして光っているんだろう。そう見えているのは私だけ?

「う、ん」
「ヤバいと思ったら逃げてよ。ボクのことは置いて」
「…うん」
 ぎゅっと腕を握ってから離した。ドレスの裾に手を伸ばして走ったら転びそうだと思いながら白い裾をたくし上げた、少し目線を下げた、それだけだった。
 たったそれだけの間に黒い靴が視線の先に立っていた。
 確かめる暇もなく私の世界は暗転し、暗闇に包まれ、それっきり音も光も途絶えて、何もかも分からなくなった。
◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 油断はしていなかった。意識は研ぎ澄ませていた。相手がどんなパターンの攻撃行動をしてきても全て御す自信があった。生まれてこの方やってできなかったことの方が少ない自分だったから過信もしていたかもしれない。それでもを守ると誓っていた。彼女を貰い受けると吐いた黒い燕尾服を斬り捨ててやるつもりで剣を抜いた。
 それなのに、見えなかった。
 視界から消えてなくなった燕尾服に焦点を合わせたときには、確かにボクの隣にいたはずの彼女はいなくなっていた。
?」
 乾いた自分の声が彼女の名前を呼ぶ。どれだけ瞬きして目を凝らしても隣の席には誰もいない。
 一番守りたかった人が。一番守りたかったものが。守っていたはずのものが、手からすり抜けてしまった。
 手を伸ばして空っぽの席を撫でる。革張りのソファからはぬくもりを感じた。彼女の温度の名残を感じた。空っぽで抜け落ちていた頭の中に怒りが湧き起こって煮え立って溢れて落ちた。剣を握る手が震える。ぎっと視線を上げて黒い燕尾服を探す。さっき見失った場所にさも当然の顔で燕尾服の奴が立っている。
 がしゃと馬車のドアを踏みつけた。「どこやった」口からこぼれた声が自分でもドス黒いと思えるほどで、怒りで、顔が引きつっているのが分かる。
を。ボクの伴侶をどこへやった」
「貰い受けました。それでは私めの仕事は終わりましたのでこれにて」
 優雅に一礼までしてみせる燕尾服にぷつんと頭の中の何かが切れた。馬車を蹴り上げて飛翔し剣を振り上げて黒い燕尾服目掛けて一直線に振り下ろす。けれど生き物を両断するような感触は得られず、ガァンと高い音と共に煉瓦を傷つける硬い感触を伝えてきただけ。
 黒い燕尾服の相手は消えていた。視線を走らせても見つけられなかった。ざわめく群集の遅れた悲鳴が響いて、全く役に立たずの警備兵の「姫君、姫君はどこだっ!?」という今更の声が怒号のようにこだまする。
(守れ、なかった…?)
 そう思った瞬間、腕から力が抜けた。手から転がり落ちた剣がカランと音を立てる。煉瓦の地面に膝をついて自分の手を見た。守るべき人と一分前まで繋がっていたはずの手に、今は何もない。
(どうして。あの森はちゃんと隅から隅まで調べて森の魔女なんていないって自分で納得したじゃないか。あの森はただ霧が深い迷いの森ってだけで、そういう雰囲気があるってだけで、魔女なんていないって)
 ひらひらと視界を舞う紙吹雪。さっきまでボクらを祝福していたそれが、まだ舞っている。彼女を奪われた今も、さっきと変わらずひらひらと視界を舞う。
「王子、お怪我は? 王子?」
「…………」
 ぐっと拳を握ってごっと自分の膝を殴った。怒りの矛先を何かに向けないと自分が爆発しそうだった。鎧姿の警備兵を睨み上げて剣の柄に手を伸ばして掴む。群集を管理しようと割かれた兵士、を探して声を上げている警備兵、ひらひらと視界を舞い落ちる紙吹雪。全てを焼きつけてこの気持ちを胸に刻み、剣を鞘に押し込み、立ち上がる。
「連れ戻しに行く。馬を用意しろ」
「は? 馬でございますか? しかし、姫がどこにさらわれたのかが分かりませんと兵の動かしようが…」
「ボクが自分で行く。もういい」
 目の前の兵士は無能だと切り捨ててかつと煉瓦を踏み締め、三歩歩いて走り出した。自国の姫と他国の王子を天秤にかけ自国の姫を優先した兵は彼女を探している。群集の中に黒の燕尾服が逃げ込んだと解釈しているのだ。通常の思考でいけばそれは確かに正しいけど、振り返れば思い当たるはずだ。彼女は突然消えてしまった。あの燕尾服も忽然と消えた。それは人の技じゃない。
 人の技じゃないなら。魔女の、仕業だ。
 唇を噛み締めて走る。畏まった格好なんてしてるから走りにくい。城を目指して煉瓦の舗道を全速力で駆け抜け群集を掻き分けて進む。馬小屋へ辿り着いた頃にはすっかり息が上がっていて足が辛くなっていた。それでも走って白馬に鞍をつけてハミをつける。手綱を回して騎乗できるところまできてから初めて息を吐いて膝に手をやった。ちょっと運動不足だなボク。これくらいで息が上がって膝が笑ってるなんて。
 気が急いている。彼女を一刻でも早く取り戻したいと。
「…チャールズ」
 ボクが国から乗ってきた白馬はいつもの顔でボクの顔を小突いた。乗るなら早くしろとばかりに蹄を鳴らすから薄く笑う。

 一人だろうと行ってやる。魔女の森へ。そして彼女をこの手で、取り戻す。