目を開けたとき、私は知らない場所にいた。
「…?」
 どことなく頭が痛い気がした。何度も瞬きしてから改めて確認しても、やっぱり知らない場所だった。大きな暖炉と木製のテーブルや椅子、本棚。私はどうしてこんな場所にいるのだろうと考えて、思い出す。赤い瞳を持った黒い燕尾服姿の人を。
 そうだ。式の途中でその人が現れて、私は。
 そろりともう一度誰もいない部屋の様子を窺った。自分の状態を確認してみると、白いドレスのまま、縛られてもいない。木製のベッドに横たわっているだけ。これなら逃げ出すことも可能だろうとそっと身を起こすと同時に視界の端に黒い燕尾服が見えて思わず息を呑んだ。「お目覚めのようですね」と声が降ってきてごくりと唾を飲む。さっきまで確かに、起き上がる前まで確かにここには誰もいなかったはず。なのに。
 そろそろ視線を上げると、墨色の瞳がこっちを見ている。今は赤くはない。それに、近くで見れば整った顔立ちをしている人だった。グレイと負けず劣らず、だ。丁寧に膝をついて私に頭を下げたその人が「いささか乱暴だったかもしれません。お許しを」「………」そんなこと言われても困ってしまう私である。
 私は戻らなくちゃ。国に。グレイのそばに。

「ここは、どこ」
「世間一般から言う魔女の住処、と言えば分かりやすいでしょうか?」
「…じゃあ、あなた、魔女なの」
「いいえ。私めはただの僕です。主人の命で貴女様をお連れしたまで」
「…じゃあ、その、主人っていうのが魔女?」
「仰る通りでございます」

 にこりと笑いかけられて私はぐっと拳を握った。
 いつかにグレイが言ってた。森の魔女が私を狙ってるって。噂話って程度だったし、グレイがちゃんと森を調べて魔女なんていないって言ってくれた。だから安心してた。そんな人いない、だからあれは本当にただの噂。大丈夫、大丈夫って。
 でも火のないところに煙は立たないっていう。だから、噂になって流れたその話は、真実だったのだ。
 黒い燕尾服姿の人が優雅に立ち上がって一礼し、「それでは私はこれにて。主人が呼んでいますので」「あ、」何か言わないといけないと思って口を開いたけれど、とっさに上げた視線の先にはもう誰もいなかった。ドアが開いた音なんてしていない。急に現れて急に消えてしまった。あの人は、人間じゃない。
 胸に手を当てて深呼吸する。落ち着け、落ち着いて私。こんな状況は初めてだけど、動かなくちゃ。脱出しなくちゃ。
 白いドレスの裾が長くて、走るなんてことしたら絶対に踏んで転びそうな長さだった。視線を彷徨わせて何かないかと探したけれど刃物らしいものは見つからず、諦めて縫い目に手を添える。ごめんなさいと心の中で謝ってから思い切り引っぱれば、びりっと音がして裾は縫い目から破れていった。膝くらいまで引き裂いて適当なところでまとめて結んで丈を短くする。よし、これならなんとか。
 二の腕まである手袋を外してこれも破った。流したままの髪を頭の上の方でまとめて手袋だった白い布で適当にまとめる。
 動ける格好にはなった。あとは、抜け出せるのかどうかだ。
 慎重に歩みを進めてドアのそばにいく。鍵のようなものはついていなかった。そろりとドアノブに手を伸ばしてゆっくりノブを回してみると、手応えがない。いつまでたってもくるくる回ってしまう。おかしいなと思って反対に回してみれば、これもくるくる回って手応えがない。まるで飾り物だ。部屋を振り返って他にドアのようなものがないか確認してみたけれど、小さな窓があるだけで、ドアはこれしかない。
 本当なら音は立てない方がいいのは分かってる。でも開かないからしょうがない。
 ちょっと後ろに下がって助走をつけて扉に体当たりしてみる。どんと音がしたけど、私の身体が痛くなっただけで、ドアはびくともしない。
 次に木製の椅子を持ってきてどうにか振り被った。えいっ、と思い切ってドアに椅子を叩きつければ、衝撃で手から椅子が転がり落ちてしまった。派手な音が響いて椅子が転がっていく。やっぱりドアはびくともしない。
 じんじんしている手で拳を握ってドアを睨みつける。傷一つ、ついてない。
(どうしよう)
 ドアが駄目なら窓しかないと小さな窓に視線をやる。小さすぎて、たとえガラスを破ったとしてもあそこから出て行くのは不可能な気がする。
「おやおや。困りますね、勝手なことをされては」
「っ、」
 窓の下に椅子を引っぱっていって足をかけたとき、艶のある声がすぐ耳元で聞こえた。ぎょっとして足を踏み外す。バランスを崩した私を難なく受け止めた黒い燕尾服姿のその人はふうと息を吐いて「無駄ですよ。ここから出ることはできません」と私にきっぱり宣告する。唇を噛み締めてその腕を振り払ってもう一度椅子に乗った。もう一つの椅子を持ち上げて窓を照準して振り被る。そんな私を燕尾服姿の人は冷めた目で見ていた。
 がん、と椅子を叩きつけた衝撃でまた椅子が手から離れた。
 それなのに窓は無傷で、ガラスは割れておらず、まるで石を相手にしているかのようにびくともしない。
「どうして…」
 ぺたりとガラスに触れる。冷たい感触はやっぱりガラスだ。どんと叩けばガラス特有の響きが伝わってくる。それなのに、どうして椅子を叩きつけても割れないの?
 どんと窓を叩く。どんどんと何度も叩く。でも割れない。どんなに強く叩いても響くだけ。どんと窓を叩いた手に赤い色が滲む。強く拳を握りすぎて爪が掌に食い込んでいたのだ。それでも窓は割れてくれない。
 ぐっと唇を引き結んでもう一度と振り上げた手を、止められた。それまで見ているだけだった黒の燕尾服姿の人が私の背後から丁寧に、それでも有無を言わさぬ動きで私の手を止め、椅子から下ろす。拳を握ったままの私の指を丁寧にゆっくりと解すように紐解き、「無駄だと申しました。窓も扉の方も呪いがかかっています。ただ叩くだけでは破れません」「……あなた何? 人じゃ、ないでしょう」確かに血が流れていた私の掌は、その人が掌をかざし下ろしただけで治っていた。冷たいその手に私がそう言うと、その人は背筋が寒くなるきれいな笑顔で私を見る。背中が、寒い。

「実は次の主を探していましてね」
「え?」
「そろそろ時間切れなのですよ。今の主は」

 意味が分からなかった。にっこり笑みを浮かべたその人が「すぐに分かるでしょう。…ああ、いらっしゃった」私のそばを離れたその背中を見つめてなんとなく手をさする。もう血は出ていないけど、変な感じがする。
 さっき体当たりして椅子を叩きつけてもびくともしなかった部屋のドアが当たり前のように開いた。
 その向こうにいたのは、杖をついた、いかにも魔女の風体をした老婆だった。扉の横で膝をついて畏まったように頭を下げた黒の燕尾服の人が見えて、老婆が震える足で杖をついて部屋に入ってくるのが見える。はっとして転がっている椅子を手にしてしっかり握ったのに、ぱんという軽い音と一緒に手から弾け飛んだ。瞬きも忘れて勝手に転がってしまった椅子を見つめる。
 なんだか、訳が分からないことだらけだ。開かないドア、割れない窓、勝手に手を離れてしまう椅子。たちまち怪我を治してしまった黒の燕尾服の人。なんだか、まるで。
 まるで、魔法のようで。
「なんて格好だい。せっかくのドレスが台無しじゃあないか。何をやってたんだいセバスチャン」
「申し訳ございませんご主人様。少し目を離しましたもので」
 何か一人でぶつぶつ言いながら老婆がこつりとまた一歩歩みを進める。もう一度椅子を手にしようかと思ったけれど、それは床に膝をついたままの燕尾服姿の彼、セバスチャンを見て思い止まった。また目が光っている。鈍い赤。多分、その目の前では私のすることは全て意味がなくなる。
 でも。それでも何もしないわけにはいかないじゃないか。
 ぐっと拳を握る。エンゲージリングを意識する。彼の、グレイの笑った顔を思い出す。
 私は、諦めない。諦めたくない。
 大好きだった犬が死んでしまったとき、悲しくて悲しくてずっと泣き続けて、これが夢ならいい、これが夢ならいいとずっと思い、願い、それが聞き届けられたいつかのときのように。
(私、まだグレイと一緒にいたい。これからも一緒にいたい。だから)
 だから、力を。私に力を。
 全身全霊で思い描いた幸せな未来。私がいて、グレイがいて、私達の子供がいる未来。平穏無事にいけば手に入れられるだろう未来を思う。
 そのために戦うのは彼だけじゃない。私も同じなのだ。
 こつりと杖をついてこっちに来ようとしている老婆を睨みつけて強く拳を握り締めたとき、その向こうで控えているだけだったセバスチャンが軽く目を見張ったのが見えた。それと同時にふわりと裂いたドレスの裾が揺れた。風もないのに髪が揺れる。自分を中心に、風が起こっているような気がした。
「私は帰る。グレイのところに、帰る」
 かつとドレスに合わせた白い靴で一歩踏み出す。老婆の皺だらけの手が空中に何かを描く。浮かび上がった模様が大きく広がって私を縛りつけようとするのを、必死に抗った。相手は本当に魔女なのだと痛感する。
 私は魔法なんて。そう思っている自分の指先が描く形に、空気が揺れる。
(私は)
 惑う指先が、皺だらけの手が私を捕まえようとするのを跳ね除ける。ぴ、と音。それから老婆の手が手首からすっぱりなくなった。ううん、なくなったのではなく、私が弾き飛ばしてしまったのだ。どんと壁に背中をぶつけて、悲鳴を上げてうずくまる老婆に唇を噛み締めて駆け出した。
 ドアの横に控えたままのセバスチャンと目が合う。赤く鈍い色の瞳。
 私はそのままドアを潜り抜けた。ちゃんと出られた。悲鳴がまだ聞こえる。セバスチャンは私を追ってこない。
 は、と息を切らせながら木板の廊下を全力で走る。遠くから「何をしてるんだいセバスチャンっ、器を追わないか!」としわがれた声が飛ぶ。それを聞きながら必死で走る。この廊下、長い。先が見えない。どうして。
 瞬きした次の瞬間、どんと何かにぶつかった。嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「私から逃げられるとお思いですか」
「…セバス、チャン」
 予感は的中した。視界には質のいい黒の燕尾服。視線を上げれば品のいい顔立ち。「主の命令には背けないもので」やんわり受け止められただけなのに、彼の赤い瞳を見ていると目が逸らせなくなる。
 魔的。そういう魅惑を秘めた目だ。鈍い赤い色。血よりも濃く、きれいで、宝石のように輝いた。
「現主は貴女に自分の魂を移し、若い肉体でさらに時代を生きようと考えているようです」
 冷たい微笑みを浮かべてセバスチャンはそんなことを言う。まるで夢物語のようだ。本当にできることだとは思えない。
 でも、魔的な瞳の持ち主にそう言われると、それは本当にできることなのだろうと思えてくる。
 だから逃げなくちゃいけない。早く逃げなくちゃ。
 ぎゅっと目を閉じてセバスチャンの腕を振り払う。視線を合わせないよう彼の胸元辺りに目を向けて「私は認めない」と声を絞り出す。彼の前では無力だと分かっていながらふわりとまた髪が揺れた。拳を解いて指先を弾く。風を纏うイメージ。草原の丘に立って全身に風を感じるようなイメージをする。
 できることは全部しよう。それで未来が待っているのなら。
 やれやれと息を吐いたセバスチャンに、私は突っ込んだ。突っ切るしかないと思ったから。止められるのは分かっていた。それでも譲れなかった。行かなくてはいけなかった。だから挑んだ。
 そして、その向こうに、私は信じられないものを見る。
「ぐれ、」
「横に跳べっ!」
 声のまま、私は跳んだ。力いっぱい床を蹴って自分の身体を壁に叩きつけるようにして跳んだ。グレイの剣が一瞬前まで私がいたところを刺す。そう、セバスチャンもろとも。
 壁に打ちつけた肩が痛かったけれど、私は休まず走った。手を伸ばす。セバスチャンを蹴り飛ばして剣から引き抜いたグレイの腕に飛び込む。
「グレイっ、グレイ…っ!」
「怖かったね。ごめん遅くなって。助けに来たよ」
 頭を撫でられた。その笑顔と体温に泣きそうになったけれど、今はそういう場合でもない。それは分かっていた。だから唇を引き結んでグレイを見上げ、頷く。彼もそうした。血の赤のついた剣を鞘に押し込んで私の手を取って駆け出す彼の手を握り締めて私は振り返る。確かに剣で貫かれたはずのセバスチャンが、立ち上がったのが見えた。やっぱり彼は人間じゃないのだ。そんな相手から逃げ切るなんて、不可能なのかもしれない。
 それでも思う。私の手を握って先を走る背中に視線を戻して、思うのだ。
 彼と未来を描きたい、と。
 だから、私は。