ボクの馬は気紛れで、繋いでおかないとすぐにどこかへ散歩へ行く。今回もその癖が禍した。昔ながらの家から抜け出たところに白馬の姿はなく、仕方なく彼女の手を引いてまた走る。
「大丈夫?」
「な、とか。グレイは、大丈夫?」
「ボクは平気」
 白いドレスを膝まで裂いた彼女の白い足が見えると、そういう場合じゃないと分かってるのにどきりとしてしまう。ああ本当に自分は馬鹿だなと思いつつ剣を抜いた。霧の深くなってきている森の木々の影に何かが見えた。
 あんなに調べたのに。ここには森の魔女なんていないって自分で納得するまで虱潰しに探して見つからず、ああ魔女なんていないんだと納得したのに。それなのにこの現実。自分の詰めが甘かったとしか言いようがない。彼女を助けられたからまだいいようなものの、これで手遅れとか、そんなことになっていたら、ボクは。
 ざしゃと靴でブレーキをかけて剣を構える。は、と息を漏らして立ち止まった彼女の髪がふわりと揺れた。
 茂みから出てきたのは片方の手を手首からすっぱりなくした年老いた皺だらけの老婆が一人。
 状況的に考えるなら、あれが魔女。
「退いてくれる? 相手が誰だろうとボクは斬るよ」
 剣先を老婆に向ける。けれど相手はこっちを見ていない。ぶつぶつと何か独り言を言いながらボクの後ろにいる彼女だけを見ている。
 あれが魔女。あれが元凶。あれがいたからこんなことになった。
(なら、殺すしかないよね)
 だけど躊躇いが生じる。殺すことにではなく、彼女と繋いだ手を離すことに。
 一度だけ視線で振り返る。彼女は僕の手を握り締めている。その髪がふわりふわりと風に揺れている。髪だけじゃなくドレスの裾もふわふわ揺れていた。彼女の周りだけ空気が揺れている。
 手を離すのが怖い。また繋げるのかと未来を疑ってしまう自分がいる。
 弱い自分を理性を総動員して押し込め、彼女の手を離した。両手で剣を構えて「ここはもう任せて、君は先に行け。ボクはあとを追うから」「やだ」「…」「そんなのできない。できないよ」縋るように腕にかけられた手でぎゅっと握られると、理性が揺れる。弱い自分が顔を出す。人殺しの場面なんて彼女に見てほしくなかったのも事実だけど、離れがたいと思っているのもまた事実なのだ。
 老婆がぶつぶつと何か言いながら杖を持ち上げて空中に何かを描いた。それでなぜかボクらの足元が光る。反射で彼女の手を掴んで跳んだ。一秒前までボクらのいたところを光の格子が取り囲み、消える。
 相手は本当に魔女なのだ。彼女を狙っているのだ。
(ふざけるなよ)
 魔女の皺だらけの顔の向こうにある瞳だけが爛と輝いていて気持ちが悪い。
 何度も空中に描かれた模様が何度にも渡りボクらを襲う。ボクは彼女の手を引いて逃げるだけで精一杯で、とてもじゃないが剣の届く間合いまで接近するなんてことできそうにない。
 自分がこんなに無力だとは、思ってもみなかった。
「セバスチャン、何をしてるんだい。力を貸さないか」
「イエスご主人様」
 湧いて出た、と表現するのが妥当だと思うくらいに突然、あいつは現れた。魔女の後ろに控えるように黒の燕尾服が姿を現し、こっちに冷笑を向けてくる。その顔を睨み返した。ムカつく顔だ。きれいすぎてムカつく。
 ぎゅっと彼女の手を握り締めて肩越しに振り返ると、肩で大きく息をしている姿がある。「大丈夫?」「う、ん。大丈夫」は、と息を漏らした彼女が顔を上げた。ボクの隣に並ぶと、長く大きな模様を空中に描いている魔女を見つめる。
「…グレイ。今度はきっと逃げ切れない」
「そんなこと言わないで。君は逃げるんだ。魔女が狙ってるのは君なんだ。あいつらはボクが引き止めるから」
「そんなことできないよ」
 彼女が笑う。困ったなって顔で笑って「グレイがいないと、私はもう何も」とこぼす。魔女が皺だらけの顔で笑ったのが見える。「こいつでおしまいさ」なんて言葉に剣を構えれば、杖で描かれた模様が空中で光り出す。その後ろで燕尾服姿のあいつの目が赤く光る。
 ふわり、と風が起こって、彼女の髪やドレスの裾を揺らした。
 光が強くなる。視界が焼かれる。閉じないと見えなくなる。でも閉じたら。
「グレイ」
 この場には不釣合いなほど落ち着いた、優しい声に名前を呼ばれた。閉じようとしていた視界で振り返ると、光で埋まる景色の中で彼女は優しく笑っていた。
「大好き。愛してる」
、」
「だから」
 光で視界が埋め尽くされた。音も聞こえない。キーンとした静寂のような光の世界の中、彼女を庇うために一歩踏み出したはずの身体が誰かに庇われる。影ができた。白い光の中に埋もれてしまいそうな白いドレスの影が、ボクを庇うように両腕を広げて。そして。
 次に目を覚ましたとき。ボクのそばには白馬がいて、起きろとばかりに鼻先でこっちの顔をつついていた。生ぬるい息に手を伸ばしてその顔を叩いて、全身がひどく疲労していることに気付く。
(あれ…なんでこんな、疲れてるんだ)
 まるで全力疾走でもしたあとみたいだ。馬がいるってことはボクは狩猟でもしていたんだろうか。でもそれじゃどうして今地面に転がってるんだろう。
 ぼんやりした意識の先で、頭上の木の葉の間から木漏れ日が射し込んだ。目にちかちかと沁みる。
 手をかざして視界を庇って、疲労感のある身体で起き上がる。地面に転がっていたせいで自分の服はかなり汚れていた。ぱんと服を払ってあーあとか思っていたとき、いやに白ばっかりだなと自分の格好に首を捻った矢先、左指にはまる指輪が目に入った。
 これは。
「…、
 はっとして顔を上げる。急速に意識が醒めてきた。上下左右を忙しなく視線を巡らせて、落ちている自分の剣を乱暴に鞘に押し込んだ。「」と大切な人の名前を呼ぶ。どうしてボクは一瞬でも君のことを忘れていたのか。君を助けるためにここまで来たっていうのに。
 重い身体を引きずるように歩く。「っ」と声を上げて彼女を呼ぶ。返事はない。白いドレスの姿は見えない。あの黒い燕尾服も見当たらない。嫌な予感が背筋を凍らせて背中が寒い。痛むから熱い。熱湯と氷水が合わさったような気持ち悪さに吐き気を覚える。
 君が、いない。
 記憶を辿れば、光で白む視界の中で君がボクを庇った姿が最後、目に焼きついている。
 嫌な想像ばかりで頭の中が埋まっていく。
 ボクはまた守れなかったのかという絶望で視界さえ暗くなっていく。
 ざしゃ、と地面に膝をついて握った拳を叩きつけた。ずきずきと痛い。もう歩く気力もない。どこへ行く力もない。彼女のために踏み出していた一歩がもう。
「ごめん…ごめん。ボクが、無力な、ばっかりに」
 こぼれた言葉に涙が混じる。随分ご無沙汰だった涙は呆気なく訪れ、ぱた、と頬を落ちた。
 一人魔女に捕らわれて、ボクが助けに来るまで、彼女は頑張っていた。合流できた。手を取り合えた。抱き締めることができた。もう一度グレイと呼んでくれた。嬉しかった。もう二度とその手を離すものかと思った。たとえ君が魔法を使えたとしてボクには何も支障はない。君が人を傷つける力を持ったとしても、奇跡の力を持ったとしても、何も関係ない。愛してるんだから、そんなことは許容の範囲だ。どんな君でも受け止める。受け止めてみせる。
 だから、この先の未来もずっと一緒に。死ぬまでずっと一緒に、どんな困難も乗り越えてみせようと、ボクは。
 涙が頬をこぼれ落ちて止まらない。
 きっとずっと。一生。君が欠けたことに耐えられず、この涙は止まることを知らないで度々溢れ出すのだろう。

 か、と蹄の音を鳴らして白馬がボクを呼んでいる。視線だけ向けると足元に転がる何かを鼻先でこっちに転がして持ってこようとしているのが見えた。
 本。だ。一冊の。
「…何それ」
 訊いたところで答えが返ってくるはずもなかった。相手は馬なんだから。動く気力も起きず座り込むボクのところまで本を転がしてきた白馬が顔を寄せてくる。見ろ、と言っているように聞こえた。
 手を伸ばして控えめな装丁の本を拾い上げた。砂埃で汚れた表紙を払うと、憶えのある文字が見えて何度か瞬きして目を擦った。
 この字は。彼女の。
 ごしごし目を擦ってページをめくる。綴られている文字は彼女のもので、一瞬で心を奪われた。彼女の軌跡がそこに記されていた。彼女の文字で、彼女の今までが。
 時間も忘れてページをめくり続ける。記されている出来事が最近に近づく度にページをめくる手が震えた。
 魔女に捕らわれ追われるシーンに、ボクはいた。彼女の字でそう綴ってあった。憶えのある出来事はそのままに書かれていた。彼女がボクを庇って光の中に腕を広げたシーンは書かれていなかったけれど、そこにいたる彼女の思いは記されていた。
『あなたを失くすことは私が耐えられない。だからグレイ、どんな結果になったとしても、私は後悔しない』
 たとえ死んでも。彼女の文字はそう綴っていた。
 まるで遺言のようだ。きれいな文字で綴られたきれいな言葉は『だからごめんね』とも言っていた。
『いつの日か、また会えるように』
 ページの最後はそう綴られて途切れている。
「……
 ぱた、と白いページに涙が落ちた。
 これがなんなのかはよく分からない。でも真実なんだ。綴られていることは彼女が体験したことだ。ボクと出会い、結婚が何かについて考え、憂い、国を思い、嘆いたり悲しんだりして決断して、ボクのことを想ってくれた、真実の記録。
 だから君がいなくなってしまったこともまた真実。
 ぱた、と涙が落ちる。止まらない。
(敵から助けるのってさ。王子様の役目で、それでお姫様と幸せになるっていうのが、だいたいの物語だよね。それなのに君は)
 狙われているのは自分だって分かっていたはずなのに。彼女は自分よりもボクを優先した。ボクを失くすことは耐えられないと。
 ボクだって、君がいない日々にはもう耐えられないのに。そんな自信ないのに。
 それでも、君が救った自分をないがしろにすることはできない。そんなことをしたら君の立場がないものね。だから大丈夫。もう少し泣いたらちゃんと笑うよ。ちゃんと笑う。助けてくれてありがとうって笑うよ。だから。
 だから、今はまだ泣かせてほしいと本を抱いて唇を噛み締めた。せめて声を上げて泣かないようにすることしか、今のボクにはできそうにない。