蹴倒した誓い

がクビ…? どういうことそれ」
「わ、分かりません。私は今日からこの仕事を仰せつかっただけでして…」
 朝。いつもより早めに登城した俺は早足で広間を突っ切った。ダンテに聞いたあの話を自分で確かめたいと思っていた。逸る気持ちが足を走らせ、転ぶんじゃないかって勢いで広間のど真ん中の大きな花瓶のもとへ行けば、そこに彼女はいなかった。代わりに誰か知らない女の子が花を活けていて、情報として聞けたのはそのくらいのことだった。
 俺は呆然とした心地で花瓶を眺めた。
 花。飾りつけ方が全然違う。はもっと鮮やかさを意識するはずだ。特に今日は晴れてるし。この子の活ける花は大人しくて、登城する者誰もが目に留めるということを気にしすぎていて、硬い。そんな印象を受ける。ならもっと花に感情を乗せる。今日は雨だから気分だけでも明るくとか、今日みたいに晴れた日なら、季節の花を考慮して、もっと茎葉の緑を活かして元気いっぱいに見せるのに。

 昨日まで確かに彼女がここで花を活けていた。そして、使わなかった花を俺とダンテの髪に飾ってくれた。それが日常だった。
 …取り上げられたのだ、と気付いて、俺は久しぶりに怒りを憶えた。全身がかっと熱くなるくらいの怒りを憶えた。
 他国から黒い戦車と畏れられる兄。その暴走を唯一止められる弟。俺達の事情を知っている人間はそれを暗黙の了解として受け止めている。
 そして、俺達の間にという花屋の娘が存在するということは、周囲にそれとなく知られている。
 扱いに困る黒い戦車と、唯一手綱をさばける俺。そして、そんな俺達をこれでさばけるとほくそ笑みながら、国の上役が汚い手を使ったのだ。
 が俺達の間で十分に根付いた頃合いを見計らって取り上げる。返してほしくば大人しく国の言うことを聞いて大人に従う駒でいろ。汚い大人の言うことなんて簡単だ。いつも同じ。我々に従え。逆らったらどうなるか分かっているだろう。冷え切った目でこちらを見下ろす大人に、ダンテは無関心で、俺は呆れていた。諦めてもいた。もう怒る気力だってなかった。
 それが、自分の中がこんなにも沸騰している。
 俺達はもうあの頃と同じ子供じゃない。身体の弱い俺はもういない。俺を守って庇うだけのダンテだってもういない。少なくとも俺は大人と戦うために知恵をつけたんだ。ダンテとは違う形でも戦えるようにと生きてきた。
 彼女に手を出したのが運の尽き。
 そちらがそうくるなら、俺にだって考えがある。

 くるりと回れ右して城を出る。「え、あの」と戸惑う女の子を置いて城の外へと走り出し、今頃がどうしているか、どうなっているのかを想像して門を越え、「ランテ団長!? どちらへっ」と慌てた声をかけてくる兵士を無視して坂を駆け下りた。
 とにかく走った。の家に着くまで走って走って走り続けた。自分の遅い足がもどかしかった。これだから実用性のない団服って嫌いなんだよ。動きにくいったらない。まぁそれ以前に俺の体力の低さも問題かな。
 道行く人が俺を見てぎょっとした顔をしたけど関係ない。仕事? ええサボりましたともそれが何か。
 朝の会議なんて知ったことじゃない。あとで誰からお咎めを受けようがどうだっていい。
 はきっと部屋で泣いている。
 あの子は利用されただけだ。何も悪くない。
は、何も、悪くなんてないんだ)
 ……あの夜、ダンテがを賊と間違えて取り押さえたのは偶然だった。彼女の家が花屋だったこともただの偶然だ。俺達が出会ったのも、その後の縁が続いたのも、ただの偶然。それもこうして利用されれば必然のようにも思えてくる偶然だ。
 子供だった。初恋だった。大人の汚さなんてまだ知らない彼女は俺にとって輝いていた。大人は厳しいこともあるけれど忌むべき存在ではない、自分にとって必要だ。そうだと思っている彼女はまだ子供で、大人の狡猾さを知らずに育った。そんな奇跡を守りたかった。大人の醜さを知ってしまった俺には君の持っているその輝きが光だった。
 表と裏を使い分ける人生を選ぶしかなかった俺と、表も裏もなく動物的に生きるしかできないダンテ。は俺とダンテの隙間にすっぽりと収まるような柔軟性のある理想的な子で、ノイエ・トラリッドと名高いダンテのことも解ろうと努力する、いい子だった。
 できることならいつまでも輝いていてほしい。いつまでも知らないでいてほしい。その光を失わずに、笑っていてほしい。俺とダンテに笑いかけていてほしい。いつまでも、どこまでも。
 そのために自分にできることをしてきたつもりだ。俺なりに、守りたい女の子のことを大切にしてきた。
 好きだった。
 ただ好きだったんだ。
 にこだわり続ける理由なんてもうそれくらいしかないだろ。理に適っていて人も自分も納得する理由なんて。
 好きなんだ。好きなんだよ。ただそれだけのことで、君という人を育んだこの国を肯定できるくらいに。
 君がいてくれるなら、笑ってくれるなら、そこに光が生まれる。空に架かる虹が目の前に現れる。ステンドグラスから落ちる淡く神々しい光よりもずっときれいなものが俺の視界を奪う。そして花が舞う。
 この国に骨を埋めよう。そう思えるくらいの光が俺を惹き込んで離さない。…離せない。
っ」
 花屋に駆け込む。いつもなら迷うくらいたくさんあるはずの花が今日はスカスカで、バケツや花瓶は空のものが多かった。母親の姿は見えない。カウンターに『ただいま席を外しております』と置き手紙がしてある。彼女の字じゃないところを見るに、母親が花を摘みに行ったのだろう。
 気にせずに進んで一番奥の部屋の扉の前に立った。何度か深呼吸して息を落ち着け、「」と呼んでみる。返事はなかった。
 仕方ない、と一度花屋を出て庭に回る。窓はカーテンが閉め切られていたけど鍵はかかっていなかった。不用心だな、と思いつつ窓を開け放つ。ばさりと風が舞い込んで白いカーテンが揺れて、ベッドに突っ伏していたがのろりと顔を上げたのが見えた。俺を見ると目を丸くして驚く。
 窓枠を掴んでよっと部屋に上がり込んだ俺に、はゆるゆると瞳と表情を緩めて曖昧な笑みを浮かべた。
「おはよう、ランテ」
「おはよ」
 ぱたん、と窓を閉める。のそりと起き上がったの髪はぼさぼさだった。泣いたんだろう、充血気味の目を隠すように俯いている。言葉を探してるようだけど、上手く見つからないらしい。口を開いては閉じて、結局ますます俯いてしまう、その顔に手を添える。
 あたたかくて、やわらかくて、まだ濡れている。
「びっくりしたよ。登城したら違う娘が花活けてるからさ。一体何があったの」
「……私にも、よく…ただ、解雇だって、お城に行ったら門前払いで…それで、母さんとも喧嘩になっちゃって……」
 わたし、と声を詰まらせながら彼女は言う。「わたし、何か、失敗しちゃったのかな」と声を滲ませる。今にも泣き出しそうなを緩く抱き寄せて、俺は見えない敵を睨むように素朴な部屋の壁を睨みつけた。「は何も悪くないよ」と言う。自分が何か失敗をしたんじゃないかと言う彼女に言い聞かせる。君は何も悪くない、と。
 を泣かせた大人を憎む俺の手は、煮えたぎる腹とは別に、彼女の髪をできるだけやわらかく撫でて、これ以上君が傷つくことがないようにと気遣っている。
 から仕事を取り上げ、状況を追い詰めさせて、元通りに戻したくば、と俺達に国への忠誠を誓わせる。汚い大人の言い分はそんなところだろう。
 幼く身体の弱かった俺の命を使った脅迫はもう無効となりつつある。ならば、と新しい脅しの材料を探して突きつけてきたのだ。
 俺達が子供のままだったならその脅迫は有効だったろう。
 けど、もう26なんていい年齢になったし、俺は物事を知った。ダンテの脳内はまぁ変わってないままだとしても、俺は変わった。狡猾な大人と渡り合えるだけのことを身につけてきた。国政に携わる側近の一人として知恵もつけた。戦えないということはない。それが好きな娘のためとなればなおのこと、選択肢なんて一つだ。
 俺は、戦う。
 軽く荷物をまとめたを連れて訓練場に顔を出す。ダンテがいつも通りならここにいるはず。
 女の子を連れて登場した俺に、ぶんと素振りしたり模擬試合をしていた兵士がおおっとざわついた。「女の子だ」「ランテ団長の彼女か…?」と浮き足立った声を交わす兵が団長ながら少し残念だ。が困った顔をしているのも頷ける。ま、女の子に縁のない連中の集まりであることは否定できないけど。
「ダンテどこ?」
「は、団長なら先ほど休憩所に」
 ありがと、と片手を挙げて歩き出す。土と泥と男臭いだろう訓練場にはきょろきょろと忙しなく視線を向けている。この殺風景さに見慣れている俺としてはそんなに珍しいかなぁと首を捻ってしまうとこだけど、思い出した。「あ、そっか。御前試合見たことないんだっけ」「うん…」なるほど。それならこういう場所に不慣れなのもしょうがないか。女の子が慣れてほしい場所でもないけど。
 休憩所という名前の掘っ立て小屋のドアを開ける。「ダンテぇ」と薄暗い室内に声をかければ、簡易ベッドが軋んだ音を立てた。のそりと起き上がったのは寝てたって顔をしてるダンテだ。「ランテ…?」寝てる声に一つ頷く。「会議すっぽかしてごめん。ただいま」ほら、と手を引くと、がおずおずと小屋の中に入った。ぱたんと扉を閉める。聞き耳立ててる奴は、さすがにいないと思いたい。
 ダンテは俺ととを見比べて眉間に皺を寄せつつ身を起こした。その視線に何か非難のようなものを感じる。
 結婚て言葉が何かと俺に問うたときから、ダンテの中から少しずつ、俺の立ち位置がズレていっている。うん、いい意味で。俺はそれを歓迎すべきだ。
「…なんで連れてきた」
「それをこれから説明する」
 はいほら、と背中を押すと、がおずおずと荷物をまとめた鞄を置いて簡易の椅子に腰かけた。それを見てダンテがさらに眉間に皺を刻む。それで俺にどういうことだと視線を投げてくる。
が城の仕事をクビにされたらしい」
「…今朝、知らない女が花を活けていた」
「そう、それ。しかもこんなのを預けられた」
 ぴっと手紙を取り出した俺にダンテが首を捻った。「なんだそれは」「クビって言われたときに上役の誰かさんに一緒に預けられたんだってさ」「…なんて書いてある」「仕事は今日限りクビ。その代わり、申し分ない相手を選んでおいた。心配せずともお前のこの先は安定だから、この相手と結婚しなさい」ぴく、とダンテの肩が揺れた。だんと力強く立ち上がると俺の手から手紙を剥ぎ取ってビリビリと力の限り破いて引き裂く。そのあっという間の出来事にが呆然としていた。
 ぱらぱらと紙クズが土で汚れた床に落ちる。
 ダンテが止めとばかりに手紙だったものを靴底で踏みつけた。「こんなもの無効だ」と言い放つダンテの声は苛立っている。そう、俺以外のことで感情を動かして、剥き出して、思考を割いている。
 と出会って変わったのは俺だけじゃない。
「だから、ダンテ。俺に協力してくれないか。このままにはしておけない。を泣かせる現実を変えたいんだ」
 ダンテは迷う素振りも見せずに頷いた。
 もともと俺がしたいことを肯定するのがダンテだけど、今回ばかりは違う。俺が提案という形ではあるけど、俺が言わなくたって、ダンテだってこの現実をどうにかしようと考えたはずだ。考える頭がなかったとしても。
 話の中心であるは、遠慮がちに俺とダンテを交互に見ていた。「あの…」「ん?」俺がいつもの笑顔を向けてもはまだ遠慮がちに「あの、私は、二人が助けてくれてすごく嬉しいし、心強い。…けど、どうして」どうして自分のためにそこまでしてくれるのか。そう言いたいんだろう。俺達の話が上役に歯向かうものだということは今のやり取りからしても想像できるだろうし。
 俺はにこっと笑顔を浮かべた。
 ダンテには悪いけど、先に言わせてもらうよ。十年想ってたのは俺の方なんだから、告るくらい先にさせて。
「簡単さ。俺がのこと好きだからだよ。あ、好意ってレベルじゃないからね? 愛ってレベルで」
「……え?」
 ぽかんとしたとは対極的にダンテは顔を顰めていた。多分好きとか愛とかって言葉の意味が分かってないから俺の言ってることが理解できてないんだろう。で、理解してる彼女は顔を俯けて恥ずかしそうにしているから、余計に眉間に皺を刻んで何を言ったんだと俺を睨んでくるわけだ。
 …うん。お前がそんなふうに俺以外のことを考えられるようになったことは、とても喜ばしいことだ。
 お前には俺以外だっているよ。ダンテ。今ここにいるんだ。お前のことを見てくれてる子が。
「つまり、だよ。結婚するなら俺としてって言ってるんだ」
 にこっといい笑顔でそう言った俺に、彼女はますます俯いて、「あの、その」ともごもごかわいい。逆にダンテはようやく話の流れが理解できたらしく盛大に顔を顰めてみせた。ぎっと俺を睨んでいる。うん、機嫌悪い。
(さあ、考えなさいダンテ)
 お前は黒い戦車なんかじゃない。ちゃんと人間なんだ。お前にとって俺だけが大事なものだなんて言わせない。俺だけしかいないなんて言わせない。お前の頭の中にはちゃんと俺以外がいる。お前を想ってくれてる子がここにいる。お前はそれを知るべきだ。
 …たとえそれで俺の想いが砕け散ったとしても。それで傷ついたとしても。悲しくなったとしても。俺は、もうダンテから何も奪いたくない。
 十年も待ったんだ。そろそろこの状態にも決着をつけよう。
 そして、ダンテ。お前がと一緒になればいい。弟である俺は二人を祝福するよ。やっと人間に戻れたお前のこと、その幸せのこと、何があっても俺と同じくのことも守り抜くだろうお前のこと、信じてるよ。

 これが俺の嘘偽りのない気持ちだ、と胸を張ることはまだできないけど、
 これが嘘偽りない気持ちだと、いつか笑って言えるようになりたいって、思ってる。