恋 知 ら ず

 特に、することがない。
 剣の稽古、指導なんて生ぬるいものができない俺は、今日もすることがなかった。
 仕事だ、と言われれば何を考えるでもなく仕事を片付けるだけ。人を片付けるだけ。それ以外は今日の飯はなんだろうと考えるか、昼寝でもするか、気紛れで広げた本のページをぱらぱらとめくって閉じるか。
 稽古場にいてもすることもなかった。唯一、今日は破損したのだという柵の修理で金槌とかスコップを握りはしたが、それも一時間もすれば終わる作業。
 暇だ。することがない。
 ふらりと稽古場を出ても止める声はなかった。むしろ道を空ける兵士が多く、今日はランテもいないから、本当に誰も俺を止めない。
 ふらりと稽古場を出てふらりとやってきたのは、一つの花園。緑が生い茂って中の様子を隠すような緑の壁になっている場所を眺めて、唯一の出入り口である門扉の鍵が外れていることに気付いた。
 鍵が外れている。なら、中にいるのかもしれない。
 門を抜けて中に入り、草花を選り分ける音のする方へと足を進めていく。
 先に目に入ったのは花籠とバケツ。バケツには雑草や傷んだ花が入っていて、籠には花が摘んである。
「今日も土いじりか」
 そう声を発すれば、帽子を被って花の手入れをしていたが驚いた顔で俺を振り返った。
 長く陽の下にいるための陽除け帽を取り払った彼女が「びっくりした」と笑う。俺は笑えない。笑い方なんてもう忘れてしまったから。
「またサボりなの?」
「…することがないだけだ」
「ランテは?」
「……今日は城だろう。俺は用がない」
 そっか、とこぼした彼女が帽子を置いた。しゃがみ込んでいたところから足を崩して地面に座り込んで「あー疲れた、休憩」と空を見上げる。
 特にすることもない俺は、彼女と二人分くらいの感覚を開けて地面に胡坐をかいた。同じように空を見てみる。ゆっくりと流れていく雲が綿菓子に見えた。食いたい。
 言葉が何もない、と視線だけで窺えば、彼女は目を閉じて膝を抱えていた。疲れた、の言葉の通り疲れているのだろう。
 さわりさわりと風に揺れる草花と、彼女の長い髪を眺めて、自分の髪に挿してあるだろう花を思った。
 毎朝、城の花瓶の花を変えるついでに俺達の髪に挿す花も持ってくるとは、十年前に出逢った。あまり好ましい出逢い方ではなかったが、俺らしいといえば俺らしい出逢い方でもあった。
 あの日からもう十年もたったらしい。そう思うと、月日の流れは早いものだ、と思う。
 あの日からのことをぽつぽつ思い出していると、目を閉じていた彼女が俺のことを見ているのに気付いた。無表情にその瞳を見返していると、彼女が破顔して笑う。
 何がおかしいのか俺には分からない。どうしてそんなふうに笑えるのかも。なぜ俺に笑いかけられるのかも。
 …俺はノイエ・トラリッド。フィンフィールドでの戦いでつけられた、あちらの神話に出てくる戦女神の黒い戦車の名。殺戮のためだけに駆け回り、それに意味など必要としない、暴走したら誰にも止められない黒い獣。それが俺につけられたあだ名。
 そんな俺を知っていても、彼女は俺に笑いかける。
「ねぇダンテ」
 なんだ、と視線だけで返事をする。十年来の付き合いになる彼女はそんな俺を分かっているから、返事が視線だけでも気にしずに言葉を続ける。
「もしもね。私が結婚するって言ったら、どうする?」
「ん? 何ダンテ、お腹痛いの?」
「…なんでそうなる」
「いや、食事大好きなお前の手が止まってるからさ」
 食事の際ランテに指摘され、視線を落とせば、いつもならとっくに完食しているだろう食事は半分くらいしか減っていなかった。
 おかしいな、とスプーンでカレーをすくう。
 別に腹はなんともない。食事だっていつもと同じような味だ。何もおかしなところはないのに、食事のスピードが落ちるとは、どういうことだろう。
 ランテに言われて気にして食事を食べ終え、自室とされている部屋に戻って、髪に挿したままの花を抜いた。
 今日は淡い紫の花だった。名前なぞ知らんが。
 もしもね、とこぼした彼女の声が頭に響いた気がして、緩く頭を振る。
 俺は結局あの言葉に何も返せなかった。そのうち彼女が笑って、何でもないよ、今のは忘れてと言ってその言葉をなかったことにして花園を引き上げ、花屋の方へ戻っていった。俺はそれを見送って、その辺りの木に登って適当な枝で昼寝をして夕食までの時間を過ごした。そして今自室にいる。いつもより遅いスピードで飯を食べて、部屋に戻って、着替えをすませ、シャワーを浴びて。ベッドに転がって。
 頭の中にぐるぐるとあるのはあの言葉だ。もしもね、と前置きして笑ったの言葉が頭の中でぐるぐると回っている。
 あの笑い方。いつもの笑い方と違った。それも頭に引っかかる。
(……くそ)
 なんで俺が、ランテと俺以外のことでこんなふうに考えないといけないんだ。
 バンと扉を開け放つと外にいた巡回兵がびくっと身を竦めた。それを無視してツカツカ廊下を歩き、ランテの部屋の扉を開け放つ。中にいたランテがベッドで本を傾けつつびっくりしたって顔で「何ダンテ、どうかした? つか一応ノックしようよノック」という声を流して「結婚てなんだ」と言えば、ランテは目を丸くした。「は?」「…だから」「結婚? が何かって?」不承不承頷くとランテが俺を上から下まで見てくる。どうしたんだお前、とでも言いたげな顔に次第に苛立ちが募ってきた。
「知ってるのか知らないのかどっちだ」
「結婚てのが何かって、そりゃ知ってるよ。分かんないのはなんでお前の口からそんな言葉が出てきたのかってこと」
 ベッドに本を落としたランテが起き上がって俺を見上げた。
 俺は、ここにきて正直に話すのを躊躇った。
 結婚という言葉を出した時点でランテがのことかと言わなかったのなら、は、俺にだけその話をしていたってことになる。俺はそれを自分からランテにバラすのだ。
「………が、昼間。会ったときに。もしも、私が結婚するって言ったらどうするって、訊いてきた」
 ぼそぼそそう言うと、ランテが腕組みしたあとに「そっか」とこぼして黙った。
「ダンテ」
 静かな声に呼ばれて逃がしていた視線をランテに向ける。あいつは真剣な顔で俺を見ていた。
が今年いくつか分かる? 年齢ね」
「……24…?」
「当たり。よく憶えてる」
「…それがなんだ」
「世間一般ではね、24にもなったら女の子は結婚してて当然なんだよ。ま、26の俺らが言えることでもないかもだけど」
「? だから結婚てなんだ」
「あーそうか。結婚っていうのはね、血の繋がってない男女が夫婦になることだよ」
「夫婦…?」
「あー…夫と妻の関係になるんだ。俺が言ってること分かる?」
「…………」
 俺が微妙な顔をすると、ランテは諦めた息を吐いてからこう補足した。
「つまりね、が誰かのものになるってことだよ。俺でも、お前でもない、誰か知らない男のものになるってコト」
 その言葉がちりっと背筋を焦がした。「それが結婚か」とぼやいた俺に「ま、分かりやすく言うと、ね」とランテが肩を竦める。

 ダンテ。ほら、今日の花。ちょっと待ってね、すぐ終わるから

 毎朝俺の髪に花を挿す彼女の声がした。笑った顔が見えた。ランテほどじゃないけど、ダンテも花が似合うね、と笑った顔が。
 ちりちりと背中を焦がしているよく分からないものは、戦火の中に置かれ、死に物狂いで相手を薙ぎ倒していた、あのときの感覚に少し。似ている。
「ダンテ?」
 呼ばれて正気に戻り、くるっと回れ右してランテの部屋を出て自室に戻った。
 ベッドに転がったらいつもならすっと眠りに落ちるはずが、今日は頭がぼやけて上手く眠りに入れない。
 …が変なことを言ったせいだ。
 今のは忘れてと笑うくらいなら、最初から言わなければよかったんだ。そうすれば俺はこんなもの知らずにすんだのに。