出逢ったあの日からの、
なんてことない眩い時間について

 十年前。私はまだ子供で、嫌々ながら母の言う花の仕事を手伝い始めたばかりだった。
 その頃は国境付近の小競り合いが頻発していて、殉職する兵士の人も少なくなかった。城下町で一番大きいうちにはその度に花を買い求めに来る人が多くて、庭から仕入れるだけでは在庫が足りなくなり、私は母に言われて少し離れたうちの所有している花園へと走った。
 こんなふうに大きな花園があっても、手入れが大変なだけ。見ているだけならそれはきれいなことだろうけど、実際世話して手入れする私の身にもなればいい。道行く人が花を摘む私を物珍しげに見ていく視線にそんなことを思い、半ば諦め、でも憤りのようなものを覚えながら、花籠を抱えた私はまたうちへ戻るために速足で道を行く。
 その道すがら、兵士の小隊が行進してくるのが見えて、足を止めた私は彼らが通り過ぎるのを待った。
 また国境付近へ出向くのだろうか。それとも、街の警備だろうか。鎧がガチャガチャと鉄の音を鳴らす中、私はぼんやり兵士の人達を眺め、もうあまり憶えていない殉職した父のことを考えた。
 そのとき、その軍団の中に、見ない顔を見つけた。
(…私とそう変わらない子……)
 そっくり同じ顔をした、双子、の、男の子だろう。きれいな顔をしていたけど、簡単な防具をつけて剣を提げていたから。
 あんな子達でも小隊に入れるんだな、とその軍団を見送った私は、急いでうちへと戻った。母にはやっぱり遅いとどやされて、私はそれにむっと眉尻を吊り上げてぷいっとそっぽを向き、あとはただ黙々と花を商品にするために仕上げては活ける、という作業を続けた。
 夜になって、人の出入りが落ち着いてきた夕方の時間。明日の花のことを心配した母が、私にまた花園へ行って花を摘んで来いと言った。
 私は花のことしか頭にない母に半ば呆れながら、花籠を持って、仕方なくまた花園へと出かけた。
 辺りは陽が落ち始めていた。急がなければ夜になってしまう。
 走って花園まで行き、花を選んで摘んでを繰り返し、やっと花籠をいっぱいにして帰ろうと顔を上げたときには辺りは真っ暗になっていた。
(…暗い)
 灯りを持ってこなかったことを後悔してきゅっと唇を噛む。
 護身用にと携帯しているナイフをそっと確認して、暗い道の左右を見回す。
 走れば一分もかからない場所に民家の明かりが見える。
 あそこまで走ろう。花が少し落ちるかもしれないけど、仕方ない。この闇夜の中を歩いて行く勇気なんて私には。
 ごくんと唾を飲み込んで花園から出て、門扉をそっと閉めてしっかり鍵をかけ、よーいどんと自分に合図して走った。走ればすぐだと思ったから。背負った花籠から少し花が落ちるかもしれないけど仕方ない、と割り切って走った。
 そうしたら暗闇から何かが飛び出してきて、私の腕を掴んで、声を上げる間もなく地面に捻じ伏せられた。
 背中の籠からぱらぱらと花が落ちてきて私の頭を彩っていくのが、やけにスローに感じた。
 誰かに襲われた。そして捻じ伏せられた。片腕を背中にやられて、片腕を掴まれて、私は、動けない状況にある。まさかこれが話に聞いていた盗賊というものだろうか。どうしよう、両手が塞がれて、これじゃあナイフを取り出すこともできない。不安と恐怖で押し潰されそうな心が悲鳴を上げようとしたとき、「ダンテっ!」という大きな声を聞いた。
 闇の中から飛び出してきたのは昼間に見た若い兵士の子だった。
 ずり、と地面に頬を擦らせて視線を上向けると、私を捻じ伏せているのは、ダンテと呼ばれた、昼間に見た双子の子の一人だと分かった。
「ダンテ、彼女は盗賊じゃない。背中を見ろ、花を背負ってるだろ。盗賊は花なんか盗まない」
「…………」
「その子は違うよ。分かるだろダンテ。剣なんか持てる子じゃない。…ダンテ」
 表情なしに私のことを睨んでいたダンテは、ふっと力を抜いて私のことを解放した。
 駆け寄ってきたもう一人の子が「うわぁごめんねごめん、大変なことしちゃった女の子相手に! ごめんね大丈夫?」手を取られて起き上がりながら、ぱらぱらと落ちていく花が地面に散らばった。
 …せっかく摘んだ花が。砂がついちゃった。
 じわりと涙が滲んで、ぽた、とスカートに落ちた。
 突然捻じ伏せられたことに驚いたし、痛かったし、ひどい、とも思った。せっかく摘んだ花も下敷きにして駄目になってしまったものがあるし。どうして私がこんな目に合わないといけないの。
 ふるふる肩を震わせた私にダンテじゃない方の子が慌てている。「あーダンテお前っ、謝れ! ほら謝れ、女の子泣かせるなんて男として最低だぞっ」そう急かされても、ダンテはむっつりしたまま何も言わない。むしろ、私になんて無関心そのものだ。さっきからこっちを見もしない。
 むっと眉尻を吊り上げた私は、泣くものか、と思った。
 そりゃあ怖いと思ったし痛い思いもしたしひどいとも思った。でもこんな、相手の顔もろくに見ない人に泣かされたなんて、嫌だ。そんなのかっこ悪い。
 ごしごし袖で目を擦って黙って花を拾い出すと、ダンテでない方の子が「あ、手伝うよ」と一緒に花を拾い始めた。黙っている私にそろりと窺う目を向けて「あの、俺ランテ。えっと君は?」「……」ぶすっとした声で返すと彼は申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。ダンテちょっと暴走気味で…」
「…?」
 暴走気味、という言葉が頭に引っかかったけど、突然の非礼に謝ることもしない人のことなんてどうでもよかった。
 花籠に花を全部入れてすっくと立ち上がる。顔についていた砂と服についていた砂を払って歩いていこうとしたとき、ぱし、と手首を取られて振り返れば、ずっと黙ったままで目を合わせないままのダンテが私の手に何かを押しつけた。
 ぱっと離された手の中に残っていたのは、黒い石。加工されてない、ごつごつした部分の残っている、少し大きめの。
 何これ、と石と彼の顔を交互に見ても、ダンテは何も言わない。それどころかそっぽを向いてざくざくと闇の中へと消えていくではないか。
 何あれ、と頬を膨らませた私に「ごめんねって意味だよ」と教えたのはランテの方だった。闇の中に消えたダンテから私へと視線を移してぺこっと頭を下げて「俺からも謝ります、ごめん。で、君はすぐに家に帰った方がいい。今兵士がうろついてて街の空気とかよくないから」「…どういうこと?」私が不安げな顔をすると彼はそれに比例するように明るく笑う。
「なーんでも。ただちょっとね、隠された武器が色々見つかってるだけ。だいじょーぶ、すぐに解決するよ」
 ひらひら手を振って「じゃあ、ダンテの非礼はまた今度ちゃんとお詫びするから! 今日はまっすぐ家に帰るんだよー」と残してダンテを追って暗闇の中へと消えた。
 残された私は、黒い石を握り締めて、速足で家に帰った。
 家の前でランプを持って右往左往していた母が私の姿を見つけると走り寄ってきて抱き締めてきたから。私は、心配させたんだな、心配してたんだな、ということがようやく分かった。
 後日、改めてダンテの非礼を詫びに来たと言って花を買いにきたランテは一人だった。
「ダンテはいないの?」
「あー、うん。ごめんね代理で」
 申し訳なさそうに笑う彼に、私は緩く頭を振った。
 あとから聞いた話だけれど、あの夜は兵士の人が密輸された武器の発見や反乱を企てたろう輩を捜すのに躍起になっていたとのことだ。それなら一兵士であるダンテが殺気立っていたとしても、仕方がない。暗闇から急に私が飛び出したから、ダンテだってきっとびっくりしたんだろう。
 ランテが「ねぇ、よかったら歩こうよ。外でケーキでも奢るよ」とにこにこ笑顔を浮かべるから、私はちらりと母を窺った。母はランテのきれいな顔にすっかり毒気を抜かれたらしく、「いいわねぇ、行ってらっしゃい」と普段なら駄目ということを今日はよしとした。
 なんだかな、と思いつつ店を抜け出す。ランテは上機嫌に私の隣を歩いている。
「怪我とか大きなのなかった? 頬とか大丈夫?」
「うん、平気。茨が刺さるよりは痛くないし」
「茨? あー、んち花屋さんだったもんね。薔薇には棘とかあるか…そういやあの花園も結構生い茂ってるよね。世話とか大変じゃない?」
「大変だよ。でもそれで生計立ててる暮らしだから…」
 話しながら街を歩いて、ケーキなんて買ってもらうのは気が引けたから、クッキーに譲歩した。彼は苦笑いでクッキーの袋を買って、それからキャンディまでつけてくれた。こんなにいいのに、と思ったけど、せっかくの厚意なのでここは甘えておこう。
 ランテとクッキーを半分こしたりキャンディを舐めたりして歩くうち、昨日ダンテに捻じ伏せられた場所に通りかかった。
「…あれ?」
「ん? どしたの」
 足を止めた私に並んだランテが私の視線を追う。そこには黒っぽいシャツを着た、ランテとよく似た背格好でよく似た髪の色をした誰かが立っていた。うちの花園をぼんやり眺めているあの人は、もしかしなくても。
「ダンテ?」
 呼ぶと、それなりに距離があるのにダンテがこっちを見た。隣のランテがぶんぶん手を振って「あれ、ほんとだ。おーいダンテ、俺だよランテ! とも一緒だよー」なぜか私の手を握って一緒にぶんぶん振る。ダンテは返事をしなかったし手を振り返すこともしなかったので、仕方なく私達の方からダンテのところへ行った。
「何してんのダンテ」
 ランテが首を捻って話しかけてもダンテは返事をしないで、ただじっと私を見ていた。
「えっと…あの……あ、」
 その視線に耐えかねてランテの後ろに隠れようかと思ったとき、黒い石の存在を思い出した。ポケットに手を入れて取り出せば、黒い石だと思ってた宝石、オニキスは、太陽の輝きを受けて輝いている。
「ダンテ、こんな高いものもらえないよ。昨日のことならランテがお礼してくれたし、もういいの。私は特に怪我とかなかったんだし…だから、これは、」
 その手にオニキスを返そうとすれば、押し返された。ダンテは相変わらず何も言わないで、ただ頑なに、私がオニキスを返そうとするのを拒む。
 せめて何か言いなさい、と思いながら意地になってダンテの手にオニキスを押しつける私と、それを押し返すダンテ。私達の無言のやり取りを見ていたランテがぷっと吹き出して笑い出し、そのうち、根負けした私の手にオニキスが残ってしまった。
「いーじゃない。ダンテがあげるって言ってるんだからもらってあげてよ」
「でも…」
「ダンテからの贈り物なんて超レアだよ?」
 …それは、そんな気もするんだけど。
 ちらりとダンテを窺う。ダンテは腕組みしてむすっとした顔で明後日の方向を見ていて、私のことなんて見ていない。
 見てないなら、とそおっとポケットにオニキスを入れようとしたらやっぱり拒まれた。見てないようにみえて見てるらしい。…これは、私が根負け、するしかないんだよね。
 息を吐いてオニキスをポケットにしまう。「じゃあ、大事にする」と不承不承こぼした私にうんうんと頷いたのはランテだったけど、ダンテも、そうしろと思ってるんだと思う。…多分。