出逢ったあの日からの、
なんてことない眩い時間について

 俺、ランテ・フィリックと兄のダンテ・フィリックは、フィンフィールドの国境で死ぬはずだった。
 三百の敵兵を前にして、自軍が退却するための時間稼ぎとして、俺とダンテは置き去りにされたのだ。
 考えられたシナリオはおそらくこんな感じだ。
『仲間を守るため、自ら砦の門の外に立った天才少年剣士。敵を食い止めようとするも、三百の敵兵を前に惜しくも敗れ去る。しかしその美しい犠牲により、彼の名は英雄として語り継がれる』
 …要するにただの時間稼ぎの捨て駒。それが、ろくに戦えない俺と、俺を守るために剣を取って敵の只中へと飛び出した、ダンテの真実だ。
 ……ダンテは、鬼神の如く、全ての敵を容赦なく地に沈めた。
 自分のために殺戮人形へと成り果てた兄を見て、俺は、何もできずに。ただ、血のにおいが届く砦の中で、死体を踏み越え獣のように宙に舞う兄を見ているだけだった。
 ダンテにノイエ・トラリッドという異名がついたのはそのときだ。
 たった一人で三百の命を刈り取った黒いその姿が、あちらの神話に出てくる戦女神の黒い戦車にたとえられた。ただ殺戮のために駆け回り、それに意味など必要としない。無敵にして不死身、誰も止めることのできないものだ、と。
 あの日から、ダンテは変わった。
 戦になればノイエ・トラリッドと恐れられる力を容赦なく振るい、敵を叩きのめす。数なんて関係なしに敵に飛び込んで笑いながら命を刈り取る。血のにおいと兵士の怒声や罵声がさらにダンテを黒い獣へと追い込み、殺すことしか分からなくなった兄を、止めるために、俺は常にダンテのそばにいた。
 …ダンテは変わってしまった。
 敵の数と、食事のこと。それ以外ダンテがまともに分かることはない。
 剣の稽古で相手に手加減するとか、盗賊を捕らえるために手加減して包囲するとか、そんな柔軟な思考は兄の中から抜け落ちた。
 よくも悪くもノイエ・トラリッドの名は諸国に知れ渡った。それを利用したい自国により、その場限りの時間稼ぎという役目で用済みだろう俺達が自由になるということはなくなった。
 そして一昨日。ダンテの手綱を握れ、という意味で俺は白騎士団団長になり、ダンテは黒騎士団団長に抜擢された。
 そんな俺達のことを、彼女はまだ知らない。
「ダンテぇ」
 ひょこっと部屋を覗くと、ダンテは無表情で自分に与えられた部屋を眺めていた。やっぱりというか、整理の一つもしてない。もともと俺達の荷物なんてそうはないけど、服ぐらいはしまえよなもう。
 動かないダンテの代わりにダンボール箱の服の整理をしておいた。「ダンテ、服ここだからね?」と声をかけても返事らしいものはなくて、ただ、ぐーとダンテの腹が鳴った。
「さっき食べたじゃん。しかも花。道草っていうか道花」
「………」
「あっ、もしかして腹壊した音だったりするの? うーわートイレっ、トイレの場所どこだっけな。すいませんそこの、」
 部屋の外を通りがかった見回りっぽい人に手を挙げて訊こうとして、むぐと掌で口を塞がれた。「腹なんて壊してない」とぼやいたダンテの声をちょっと久しぶりに聞いて、まだ喋れるよな、俺の言ってること分かるんだよな、と安堵した。
 ぼふとダンテのベッドに腰かける。足をぶらぶらさせて、「あー外行きたいなぁ」とこぼせばダンテは首を捻った。あはと笑って「こないだの子だよ。お前が間違って捻じ伏せた子」「…ああ」思い出したのか、ぼやくようにこぼしたダンテが腕組みしてむすっとした顔をする。
「あれはさ、謝らないお前が悪いよ」
「…石をやった」
「オニキスね。それでも言わなきゃ伝わらないことってあるよ」
「…………」
 面倒くさい、という顔をしたダンテに俺はまた笑う。
 花屋の一人っ子だという彼女のことを思い浮かべて、今頃また花の世話かなーなんて上の空で考えていると、ダンテが俺のことを見ていた。「何?」と首を捻れば、ダンテが同じように首を傾ける。
「気になるのか」
「え?」

 そのとき、どきり、と心臓が鳴ったのは、ダンテが彼女のことを憶えていて、名前までちゃんと合致させていた、という事実と。それから、気になるのかと言われて否定できない自分に気付いたから、だった。
 出逢い方としては最悪だった。花を摘んで帰ろうとしていた子を賊と間違えて捻じ伏せたダンテを止めに入った俺、なんてシーンでの出逢いだ。彼女はもうダンテの非礼を許してくれたけど、俺は、もう少し好感度の高い出逢い方をしたかった、かな。
「…いい子だったろ? お前のことも許してくれたし」
 変に空いた間を繕うように笑ってそう言ったら、ダンテはぽつりと「俺達のことを知らないだけだ」とこぼした。俺が「そんな言い方」と反論の口を開いたとき、ぐうー、とダンテの腹がさっきよりも大きな音で鳴る。
 はぁ、と息を吐いた俺はベッドから立ち上がった。
「腹が減ったわけね」
「…………」
 ダンテは何も言わない。けど「しっかたない、食堂行こうか」と部屋を出た俺についてくるのだから、腹が減ったんだろう。さっき道花食ったくせに。
 時間外だからまだ誰もいない食堂で、無愛想なダンテに代わって俺が愛想よくお腹減ったんです何でもいいからくださーいとおばちゃんにねだって、余り物のパンとチーズをゲットした。
「ほい」
 籠を渡せば、ダンテはがつがつと無言でパンを口に押し込み始める。
 その隣に座って頬杖をつき、よく食べるなぁ、スピード早いなぁと呆れたり感心したりしながら兄を見守る俺。
 あっという間にパンとチーズを平らげたダンテに水の入ったコップを持っていったとき、受け取ったダンテがぼそっとこう言った。
「気になるなら、抜け出して、行けばいい」
「え? 何が?」
 へらっと笑って白を切ると、ダンテは顔を顰めたあとに黙ってコップを傾けて水を飲み干した。
(…別に、そこまでして会いたいわけじゃないし)
 だってさ。に会ったとするよね。っていうかそれだけで終了じゃんか。特に何もないよね、出来事的なものが。会って話して別れて終了? それって会いに行く意味あるのか。
 とか何とか思いながら城を抜け出た俺って一体何。
 馬鹿? 馬鹿なの? 馬鹿なのか? ダンテの分まで俺は賢く生きないといけないのに、と思いつつ花屋への道を辿って、見えた店先で、庭の花に水をやっているの姿を見つけて心臓が高鳴った。それに気付いてばっと路地裏に飛び込んで左胸に手を当てる。
 あれ、おかしいな。おかしいぞ。これは絶対おかしい。
(なんで、嬉しいと思った。彼女の姿が見えただけで、心臓が。騒ぐ)
 変だ。こんな俺は変だ。変だよな。自分の状態に納得してないままそろりと店先を覗くと、花に水をやっている彼女がいる。
 心臓がおかしい、と思いながら息を吸い込んで表へ出て、「」と声をかければ、俺に気付いた彼女が顔を上げた。
「ランテ?」
 名前を呼ばれた。彼女が俺を認めた。駆け寄りたい気持ちを抑えつつ歩いて「偉いねお手伝い」とジョウロを指せば、彼女はちょっとむくれた顔をした。「好きでやってるんじゃないの」「え? そうなの?」予想外の答えに慌てると、彼女はぶすっとした顔で店の中へと視線を投げた。
「うちは、お父さんが兵士だったけど、私が小さい頃に殉職しちゃったの。母さんは、お父さんが残した花屋さんにこだわってるから…だから絶対、在庫が足りないとか、許したくない人なの」
「へ、へぇ? なんか厳しいんだ…?」
 こくんと頷いた彼女に、この間会った彼女の母親を思い浮かべた。そういえば彼女とあんまり似てない人だった気がする。なら、は父親似なのかな。
 店の中にいるんだろう母親から俺へと視線を戻した彼女が背伸びして俺の後ろを見た。「ダンテはいないの?」と言われて「いないよ」と返せば、彼女は少し、残念そうな顔をした。
 そのとき俺は。そんな顔をさせたダンテが気に入らないと思った。それから、君にはそんな顔してほしくない、と思った。
「花!」
「え?」
「俺達寄宿舎に自分の部屋もらったんだ。だからさ、飾り気がないから、花買いにきたんだよ。何がいいと思う?」
 無理矢理話題転換すると、彼女は難しい顔で店先に並んでる花に視線を移した。
 は真面目に考えると納得するまで突っ走るタイプらしい、ってことはこの間軽く花の話を持ち出したら母親を交えて討論することになったあのときに思い知っている。そのうち母親を呼んで季節の花がどうとか部屋に飾る花の定番はどうとか訊き始めるだろうことを予想して、「がいいと思うものでいいんだ」と彼女の真面目顔に慌てて付け足した。そう? と首を傾げた彼女が一輪挿しの花を二つくるんでくれる間にポケットからお金を取り出す。
 …なんか。花買えば、売れたって喜んでくれるのかなと思ったけど、そうでもないみたい。難しいなぁ女の子って。俺は君にただ笑ってほしかったんだけど。
「はい」
「ありがとう。お金ってこれで足りる?」
 持ち金全部を出したら彼女は驚いた顔で「え、わ、全然足りるよ。えっとね、銅貨二枚でいいの」「そうなの? じゃあ三枚あげる」「え、でも、」「残ったお金はのお小遣いってことで」ぱちんとウインクして笑った俺に、彼女は困った顔をした。だけど最後には「ありがとうランテ」と笑ってくれたから、よかった、とほっとした。
(…ただ会いに行っただけのはずが、何してんだろ)
 花を買って部屋に戻った俺は、適当なコップに水を入れて花を挿した。
 俺達、と言ったからか、彼女は花を二つ選んだ。同じものではなくて違う色のもの。俺のが白っぽいのでダンテが紫っぽいの。
 この選り分けに意味はあるのか、と二つ並べた花を睨んだ俺は、結局、ダンテの部屋には花を持っていかなかった。まぁ持っていったところでダンテは花なんて見ないだろうし、放置してすぐ枯らすだろうし、というのが理由。
 …俺達って言ったから、はダンテの分まで花を選んだんだろう。

 ダンテはいないの?

 そう訊いた彼女が、いないと答えた俺に、少しだけ残念そうな顔をした。
 彼女にそんな顔をさせることになったダンテに、俺は。
(ええいやめだ。やめやめ)
 ぐしゃぐしゃ髪をかき回してベッドに転がり、布団を被って目を閉じる。
 明日からは忙しいんだ。正式に騎士団長に任命されたことだし、仕事を憶えないといけない。ダンテができないとこまで俺がカバーしなきゃ。それが弟として俺がすべきことなんだ。ノイエ・トラリッドとなってしまった兄に、俺が示せる精一杯の感謝の気持ちなんだから。
 …だっていうのに、俺は、ダンテがいないと知って表情を曇らせた彼女に。彼女にそういう顔をさせたダンテを、気に入らない、と思った。
 おかしいな。こんな俺いなかったのに。おかしいな。に会ってから俺はなんだか少し変だ。それは、なんでだろう。
 自問に自答を持たない俺は、ごろんと寝返りを打って、暗闇の中少しだけ輪郭を見て取れる花のことを眺めた。そこに答えはない。だけど、ランテと俺を呼んだ君の声が、聞こえた気がした。