出逢ったあの日からの、
なんてことない眩い時間について

 最近ランテが変だ。
 俺が賊と間違えて捻じ伏せた、という、花屋の一人娘に会ってから、何かが変だ。
「ダンテ! 休憩しよう!」
 稽古場で手加減なんてものができずに相手を叩きのめした俺の手を掴んで走り出したかと思えば、休憩しようと言って向かった先は城の外で。「ちょっとだけ休憩に! ダンテの息抜きに!」とか言って警備兵を押しのけたランテに、おい、と言いかけた俺の視界に彼女が映り込んだ。彼女というか、風に揺れた髪が。ランテはそれに気付かないで花屋の方へ走っていこうとするから、その手を掴んでストップをかける。
「何? 早く行かないと門番に捕まるよ。せっかく抜けたのに」
「…そこにいる」
「え?」
 茂みの方を指せば、ランテが首を捻って「なんもいないよ」と言う。
 ふう、と息を吐いてざくざく歩いて行って手を伸ばし、むんずとの襟首を掴まえた。「ひゃっ」と声を上げた彼女にランテがようやく気付いて「えっ、あれ、そこにいた!?」と茂みに分け入る。
 道端でしゃがんでいたは「ちょ、ダンテっ、服離してよぅ」と俺の手を叩いた。掴んだままだった服を離せばなんでか睨まれた。腕を捻り掴んだわけでもないのに。
 を見つけたことでぱっと笑顔を見せるランテがいる。
 俺は、自分の素を出している弟を眺めて、弟にそういう顔をさせることのできるを眺めた。
「今行こうかなって思ってたとこなんだ。っていうか、こんなとこで何してんの?」
「えっとね、これ、図鑑。花の。ちょっとだけ勉強だよ」
 そう言って笑うを眺めて、ちらりと門の方に視線を投げた。
 あのノイエ・トラリッドに声をかけるべきか否か、で迷ってるような素振りの兵士が鬱陶しくてその場にすとんと座り込む。これで茂みの高さで俺達のことは見えないだろうと。それが、意図せず彼女の隣に座ったことになって、それを見たランテが「あ、ずるい俺も!」となんでか張り合ってきた。
 いつもより妙にはりきてってるランテが「勉強って、それもお母さんがやれって?」「んーん。これは、私が自分で…」ぽつぽつ小さな声をこぼす彼女が笑う。
「だって、ほら。ランテに花のこと訊かれて、母さんに訊かないと答えられないなんて、なんか悔しいじゃない?」
 …そんなものか、と俺は首を捻るだけで、二人の会話に加わることはなかった。
 城の中、部下の前、その全てで若い騎士団長としての仮面を被って演技ばかりしているランテが、彼女の前でだけ素の自分を見せて笑う。
 それが悪いことだとは思えなかったから。は俺の敵じゃない、と自分の頭に叩き込んで、空を見上げる。
 青い空にふわふわ浮かぶ白い雲が綿菓子に見えた。…食いたい。
 それからもランテは暇を見つければ城を抜け出してに会いに行くようになった。
 俺は、ランテに引っぱられたときはついていくし、そうでないときは行かないし、という感じ。ランテのように通い詰める気はないし、たまに会って、ランテが素の自分を見せられる彼女がちゃんといると分かれば、笑っていると分かれば、もうそれでよかった。
 そうやって過ごすうちに、俺達が団長というものになってから一年が過ぎた。
 ランテは相変わらずのところへ行く。が、俺の頭が使い物にならないから、書類とかその他のことを二人分やっているせいで、最近は外へ行く回数が減った。
 俺はといえば。相変わらず稽古の手加減ができず、相手にした奴をボコボコにしてしまうため、稽古場でぼうっとしているだけ。たまに雑用の力仕事をする程度で、特にすることもない。
(……会いに。行ってみようか)
 そのときそう思ったのは。あまりにも暇だったから、が理由だと思う。
 ふらりと稽古場を出ても俺を止めるような奴はいなかった。
 今日は俺が稽古場で兵士のことを見ていないといけない日だったが、することもないし、いてもいなくても同じようなものだ。むしろ俺がいると行動が畏縮するのなら、いない方がいい。
 ランテが怒るかもな、と思いながら自分の管轄を抜け出して城下町に出て、表通りは行かずに裏道で遠回りをして彼女の店の所有物だという花園を訪れた。
 いつかに彼女を捻じ伏せたのもこの辺りだった。
 そのときのことを思い出すと、俺も馬鹿だったな、と思う。いくら周りが殺気立っていて刺激を受けていたとはいえ、あんな細い腕を掴んだ時点で、相手が少女だと気付くこともできないとは。
 花園の出入り口である門扉が開いているのが見えて、鉄の扉に手をかけた。ぎ、と押し開けて中に入れば、緑の壁で覆われていたそこは中も緑で、花と草木で溢れていた。
 人の気配のする方へ歩いていけば、分厚い図鑑と虫眼鏡を持って花と睨めっこしているがいた。
 その姿に首を傾ける。…また勉強か。
「面白いか?」
「えっ、」
 ぱっと振り返った彼女が俺を見て「ダンテ」と驚いた声を上げた。それから手にしている図鑑を叩いて「面白い…かなぁ。分かるとね、ああってなる。うちの庭にもある花だなーとか」訊いておきながら、俺は花には関心などなかった。ただ、ランテから聞いてることもあって、最近は花の勉強ばかりしてるんだなと思っただけ。
 俺が何も言わずにいると、そんな俺を見上げた彼女が笑う。
「ダンテが来てくれたのは初めてだね」
「…そうか」
「そうだよ。それに、ちゃんと喋るのも初めて」
「……そうか」
 そう言われればそんな気もしたが、ランテからお前のことを聞かされてる俺としては、しょっちゅう会ってるような気がしないでもない。ランテは本当にお前のことについて訊いてもないことをぺらぺらとよく喋るから。
 図鑑に目を戻した彼女が「えっと、私勉強したいんだけど」「…すればいい」「でも、せっかくだからダンテとお話もしたい」「…俺は、喋ることなんてない」「う」口ごもった彼女が俺を睨み上げた。なんで睨まれるのか分からない俺は首を捻るだけ。
「じゃあ、私が勉強しながら勝手に喋るから、たまには返事もしてね」
 イエス、と言わないと睨まれたままなのだろうと思ったので、とりあえず頷いておいた。
 ほっと息を吐いた彼女が花を前に虫眼鏡をかざして、膝に図鑑を置いてぱらぱらとページをめくる。文字を読むのも怪しい俺はそんな彼女を眺めて、その場に胡坐をかいた。片足を立てて膝に顎をぶつける。
 こうしていても暇なだけ。稽古場にいるのとそう変わらない。男臭いところから土と草の臭いのするところに移動しただけで、暇なことは、変わらない。
「ね、ダンテっ」
 暇だ、と眺めているとぱっとこっちを振り返った彼女に呼ばれた。なんだ、と首を捻ると彼女は図鑑に視線を逃がした。「仕事は大変?」と訊かれて少し考える。大変かと言われたら、別に、としか答えようがない。ランテは俺のカバーまでして大変だろうが。
「……俺は。ノイエ・トラリッドだから。戦場以外は役に立たない」
「え?」
「ノイエ・トラリッド。…聞いたことないか」
 ぼそぼそそう言うと、彼女は目を丸くした。「えっと、確か…フィンフィールド国境での戦いで。すごく強くて、そういうあだ名がついた人がいるって、話は知ってる」浅く頷いて「それが俺だ」と言ったら彼女は丸い目をさらに大きくまんまるにさせた。その目でじっと俺を見つめてくる。畏怖するでもなく恐怖するでもなく忌避するでもなく、ただ、純粋な瞳で。
「ダンテは、強いんだ?」
「そうらしい」
「らしいって。自分のことでしょ?」
「…正直、どうでもいいし。よく分からない。戦場で俺がしてるのは殺すことだけだ」
 彼女はそこでようやく少し怖いという顔をしてみせたけど、それもすぐになくなった。「でも、ダンテはダンテでしょ?」「…?」「ね?」よく分からないことで同意を求められ、とりあえず頷けば、彼女は安心したようにほっと息を吐いた。
 そして、その夜。最近こちらの警戒をかいくぐって荷馬車なんかを襲う盗賊団がまた出没したと兵士に起こされ、眠い目を擦りながらマントを羽織って剣だけ持って部屋を出た。ちょうど鉢合わせたランテも着替える間もなくマントを羽織ったくらいの格好だったが、団長らしい顔を作っていた。
「ダンテ、急ごう。奴ら人質を取ったらしい」
 人質、という単語に寝たいと思っていた頭が少しだけ冴える。
 人質。その言葉は嫌いだ。ランテの命を人質にあの砦で黒い戦車になったときの自分を思い出すから。
 だから、それは潰そう。こんな夜中に俺の眠りを邪魔してくれたことも含めて。
 現場とされている場所へ向かう道すがら、人質のことについて兵士から話を聞いているランテを視界に入れつつ歩いていると、「あの子がっ、が!」と騒ぐ声が耳に入った。視線だけ向ければ後ろの方で兵に「落ち着いてくださいっ」と押さえられている女がいた。それを見て、報告を聞き終えたランテの顔色がさっと青くなった。
「どうした」
 声を投げれば、ぎこちない動きで俺を見たランテが「ダンテ」と感情の抜け落ちた声を出す。
「人質が、なんだって」
 どうしよう。そうこぼしたランテから団長の仮面がずり落ちそうになる。
 ああ、後ろで騒いでいるあれは、彼女の母親か。
 お前までそんな顔をしたら駄目だ、と俺はランテの頬をばちんと両の掌で叩いた。痛みと驚きで目を見開くランテの顔を覗き込んで、「俺がやる。助ける」と言えば、ランテが唇を噛んで頷いた。
 現場は、いつかに見て回った水車小屋の一つ。
 相手は五人で、全員男で、彼女はリーダーである男に縄で縛られて猿轡を噛まされ、泣きそうな顔で涙を堪えていた。
 その頬が殴られたあとのように赤くなっているのが見える。
 それに、よく見れば、全身ボロボロだった。…まるで暴行でも受けたように。
 ちり、と背中の方が焦げる感覚を覚える。背中の方に炎があって、前に進まなければその炎で焼かれてしまう、という焦燥感。早く前に行かなくてはと思いながら剣を抜いて鞘を放った。あっても邪魔なだけだ。
「おいてめぇっ、それ以上来てみろ! この女殺すぞっ」
 首筋にナイフを突きつけられたが、涙をいっぱい溜めた瞳で俺を見つめている。今にも涙が溢れそうだ、と思ったところでつうと頬を流れた筋が見えて、ちりちりと背中を焦がす見えない炎が俺を急かす。早く行け、と。
「…ノイエ・トラリッドに喧嘩を売るのか。いい度胸だな」
 剣先をゆっくりと上げる。かりかりと地面をかいた刃が持ち上がり、慣れた重みを掌から腕へと伝えてくる。
 俺がその名を告げたことで男達がざわつき、落ち着きがなくなる。
 緊張か、怒りか、もっと別の何かか。それとも全てか。それらを含んだ顔で「お前達がこの辺りを荒らしている盗賊団だということは分かっている。その子を離せば、命までは取らない」と形式的なことを言うランテに「うるせぇ、引け! 兵士連れて帰りやがれっ」と喚く男は聞く耳など持たない。
 勝負は一度きり。今回は人質がいるから奴らに弁解の余地はない。
 いたちごっこももううんざりだ。
 殺そう。
を泣かせた。殺す理由には、十分だ)
 じゃり、と靴底で地面を擦った俺の動きが合図。
 ランテがピイと口笛を吹けば、合図を待って弓矢を展開していた部隊がを捕まえている男以外を的にして矢を放ち。その行動に驚き一瞬でも人質を取って優位である自分、を忘れた男は俺の動きに気付くのが一足遅かった。彼女の首にナイフを突きつけるその腕を斬り落とし、間髪入れずに腹を貫く。ぶるぶる震える腕で最後の力を振り絞り、俺の顔を掴もうとしているその手を払いのけた。
「おま、が」
「…ノイエ・トラリッドだ」
 蹴り上げた男から剣を抜く。
 状況を見れば、あと四人も弓矢によって片されていた。
 ふっと息を吐いて視線をずらし、縛られたままの彼女の猿轡を解き、縄を切ってやる。
「あ、」
 震えている手が俺の手に触れた。「だ、んて?」「…ああ」「だ、ダンテ、わたし、私ね、」震える彼女に自分の羽織っているマントを被せる。余計なものを、見なくてすむように。
 駆け寄ってきたランテが「っ!」と彼女のことを抱き寄せるのを眺めて、まだ血の滴る剣を一つ振るった。
「もう怖くないよ、大丈夫だよ。俺達が来たからね」
「ら、んて?」
「そうだよ、俺だよ。ダンテが助けてくれた。賊はもういないから、大丈夫」
 大丈夫だよ、と囁いて彼女のことを抱き締めるランテの横顔を眺める。
 それは、本当に安心しきった顔だった。ランテにとってがどれほど大事なのかということが、その顔を見ていれば身に沁みた。
「団長。作戦終了しました」
 敬礼して声をかけてくる兵士に俺が返事をしないでいると、「ああ。みんなありがとう。死体を片付けて撤収しよう」とランテが答えれば、兵は仕事をするために動き始める。
 その中で止まっているのは、俺と、を抱き締めて動かないランテと、恐怖か、もっと違う感情か何かに支配され、泣いている、彼女だけ。