出逢ったあの日からの、
なんてことない眩い時間について

 城にいれば、街で行われている御前試合の歓声など遠い。むしろ何も聞こえない。
 今頃ランテは忙しいのだろう、と窓の外を眺めていると、「ダンテ」との手が俺の手を引く。立ち止まっていたところから歩き出せば、自宅待機、という名で今日は一日城に缶詰の俺に付き合っている彼女が俺の先を歩いている。
 俺は部屋でぼうっとしていればそれでよかったのだが、彼女が、せっかくだから城の中を見てみたいと言ってきた。一般人はそういうのって駄目なのかな、と首を傾げた彼女がランテに連れられて俺の部屋にやって来たことを挙げる。そんなもの俺が知るわけがなかった。が、庶民の服装をした女が一人城の敷地内をうろついていたら、侵入者、と勘違いされる可能性は多いにある。
 …だから、仕方なく、城を見て回りたいという彼女に付き合って、俺まで出歩く破目になっている。
「ランテとダンテは寄宿舎の一番上の階の部屋なんだね」
「…団長だからじゃないか」
「そっか。そうだね」
 階段を下りる彼女に手を引かれ、その温もりに、いつまで手を握ってるつもりなんだろう、と思った。
 カツと歩みを止めると止まった俺に引っぱられる形でも足を止める。振り返ったその顔に「手」とだけ言えば、手、に視線を落とした彼女がぱっと手を離した。
「だって、ダンテ、手でも引っぱらないと来てくれないから…」
 小さな声でそう言う彼女を抜かして、カツ、と階段を下りる。「あっ、待ってよ」と慌てた足音が俺に続いて階段を下りてくる。
 …ランテ以外の誰かと一緒にいる自分が不思議だ。
 今日は御前試合で俺以外の側近や兵士はほとんど出払っているせいで誰にもすれ違わず、俺はと二人であちこちを歩いた。普段なら通り過ぎるだけで気にもしないような場所や、立ち止まらないような場所も、彼女が足を止めて俺の手を引くから仕方なく立ち止まり、同じものを見て、また歩いて、を繰り返す。
 たまに見かける巡回兵は俺が双子の兄の方だと分かるとそそくさと退散するだけで、彼女が誰かなど、気にも留めない。
「あれは何するところだろう。きれいな建物」
「…知らん」
「じゃあ、あっちは? 図書室? かな。窓の向こうの本棚が見えるね」
「……知らん」
 質問されてもろくな答えの出ない俺に、彼女は分かってるような顔で笑う。
 ランテなら答えられる。ランテなら分かる。ランテならもっとお前を笑顔にするために色んなことをするだろう。俺は何もできない。できるとするなら、この間のような、敵に捕まったお前を助けること。それくらい。剣を握り、相手を殺し、お前を助ける。俺ができることはせいぜいそのくらい。
 そのうち夕方になった。彼女が空を見上げて何か言いかけたが、結局口を噤み、言いかけたことは言わないでぐうと腹を鳴らした俺におかしそうに笑った。「お腹空いたねぇ」と。
 飯の場所なら分かる、と彼女の手を引いて食堂に行くと、今日は出払っているため騒ぐ兵士もいないそこは静かだった。ただ、何人かいた奴が俺とを見るとぎょっとした顔をしたが、スルーして、カウンターの方へ行く。
 そこで、中で食事を作ってる奴になんて声をかければいいのかと考えた。いつもランテがやってたから俺は知らない。
「あのー」
 ひょこりと俺の隣からカウンターへ顔を出したが「あの、ご飯はどうしたらいいでしょう」と声をかけると、でかい鍋をかき混ぜていた男がぎょっとした顔で俺と、隣のを見た。「飯が欲しい」それ以外思いつかずそれだけ告げると、男は慌てた様子で食事を二人分用意した。一般市民である彼女のことは問わずスルーだった。
 …いや、あえてスルーしたのだと、テーブルの隅でと俺に視線をやって低い声を交わす兵を見て思った。
 あとで面倒くさいことになる気もしたが、別にそれでもいいか、とも思った。ランテもそれは承知のはずだ。
「あの、お金がいるよね。いくらぐらいだろう」
 ポケットから硬貨を取り出した手に掌を被せる。そのままその手を握り込んで、払わなくていい、という意味を視線に込めて、手を離した。彼女に俺の意図は伝わったようで、硬貨はポケットへと戻された。なんでかその横顔がちょっと赤っぽく見えたのだが、多分俺の目の錯覚だろう。
 また歩こうという彼女と外を歩いていると、ドーン、とうるさい音がした。
 暗いはずの夜空から光が降ってくる。赤い色。視線を上げれば空に花が咲いていた。花というか、華、か。
「わぁっ」
 隣では手を合わせたがきらきらした顔で華の咲いた空を見ていた。また一つドーンという音が鳴り、今度は黄色い色が、彼女の横顔を照らし出す。次に緑。青。そしてまた赤に戻る。
 俺が見ていることに気付いたらしい彼女が「えっと、ダンテ?」と首を傾げる。その横顔がまた赤い色に照らし出される。ドーンという音と共に。
 手を伸ばして、赤に染まる頬に掌を滑らせた。
 赤い。血の色に照らされて。まるで血に染まったみたいに。
「ダンテ…?」
 呼ばれて意識を今に戻した。焦点を合わせれば、そこにはがいる。その横顔はもう赤くはなく、今は黄色だった。その現実にほっとした。
 するりと滑らせた掌でぐっと拳を握って、少し行ったところにあるベンチにどかっと腰を下ろす。
 一瞬だけブレた戦場の景色がまだ背筋を焦がしている。
 おずおずと俺に寄ってきた彼女の手がそっと背中に触れた。ぴくんと身体が跳ねたが、それ以上の反応はなかった。反射でその手を払いのけるということがなかったのに、少し安心した。
「ダンテ、大丈夫…? 大きい音は苦手?」
 そっと隣に座った彼女が俯いた俺を覗き込んでくる。「…あまり好きじゃない」とこぼすと、彼女は俺の背中をそっと撫でた。
「じゃあ、部屋に戻ろう? 部屋の窓からでも花火は見えるし」
 ね、と手を握られ、その手に引かれて、ふらつきながら立ち上がって歩き出す。
 ドーンという音が響く。青い色が咲いて散った。
 ドーンという音が響き。今度はまた赤い色が。
 寄宿舎の入口の段差で足を引っかけ、ふらついて、どんと扉に手をついた。俺の手を引いていた彼女がびっくりした顔でこっちを振り返る。
 そのままずるずると寄りかかって崩れる俺に、「わ、え、ダンテ、ちょっと」と慌てる彼女も巻き込んで、その場に膝をついた。
 聞こえない音が聞こえる。馬の嘶きが。大勢の足音が。掲げられた剣が。槍が。構えられた弓が。
「ダンテ」
 崩れそうになる思考の中で、呼ぶ声が聞こえて、視線をずらす。俺の肩を支えているのは俺とそっくりの双子ではなかった。「ダンテ」と呼んで俺を手を握っているのはランテではなくて、何に代えても守りたい双子の弟ではなくて。
 手を伸ばす。頬に触れる。もう赤に染まっていない顔に安堵した。
 戦場にお前がいるわけがないな、と笑って、俺は目を閉じた。もう全てが億劫で、ダンテ、と俺を呼ぶ声も遠い。
 次に目を覚ましたとき、俺は自室にいて、そばには誰もいなかった。
 のそりと起き上がって、何かの形を保ったままの手を掲げる。
 意識が途切れる前。彼女が俺の手を握ってダンテと呼んでいたことを思い出した。
 …が俺の手を握ってここにいたのだと思うと、胸の辺りが熱くなった。それは知らない感覚だった。疎ましいような、心地いいような、よく分からない熱を感じる。
 ぼんやりその掌を眺めたままでいると、ランテがやって来た。「あ、気付いた?」と水を勧めるランテからコップを受け取り水を一気飲みする。もう花火の音はなく、空は暗いままで、いつもの夜を取り戻していた。
「お前倒れたんだってね。が通りがかった兵士に必死に頼んで、お前のこと運んでもらったんだってさ」
「……は」
「帰ったよ。俺が送って今帰ってきたとこ。ホントなら夕方には帰らないといけなかったんだけど、お前のこと心配だからって、さっきまでここにいてくれてた」
 形を保っていた手でぐっと拳を握った。夕方空を見上げて何か言いたそうにしていたのはそういうことか。
 ぎ、とベッドに腰かけたランテがじっとこっちを見てくる。
「…なんだ」
がさ、ごめんなさいって謝ってたよ」
「…?」
「お前のこと頼むねって言われたのに、果たせなかったからって」
 は、と小さく息をこぼして「馬鹿みたいだ」とぼやくと、ランテは小さく笑った。「ホントだよねぇ」と。視線を外して俺でもこの部屋でもない場所を見て目を細めて「馬鹿みたいにいい娘なんだ」とこぼす声に、俺は口を閉ざす。
 …お前はきっと、のことが気に入ったんだろう。
 俺のことばかり気にかけているお前が。戦場以外で使い物にならない俺のカバーをしてばかりのお前が、欲しいと思ったのなら。俺はお前にをやる。俺がやれるものがあるなら、全部お前にやる。お前に世話をかけてばかりの俺にできることは全てやってみせる。何でも。

 ダンテ

(…何でも。できるはずだ)
 空のコップを持った手がとさりとベッドに落ちると、ランテが俺の手に掌を重ねた。その手は俺と同じくらいで、俺と同じで少し骨張っている。今日俺の手を引っぱっていた彼女の手とは全然違った。…当たり前の話か。
「休みなよ、ダンテ」
「…分かってる」
 俺の手からコップをさらったランテが部屋を出て行き、パタンと閉まった扉を眺めて、枕に顔を預けた。
 ……あの手をランテに預けることが俺のすべきことなら。それすら、俺は。