海の国と山の国の国境辺り。潮風のようなベタつきがあるわけでもない風は、山ほど清涼さはないにしろそれなりに肌寒い。
 辺鄙な場所にある家だから、ご近所といえるほどの距離にある隣家もない。だだっ広い草原と家畜小屋、俺が寝起きする家だけが草木と砂利道以外でこの辺りに存在するものだ。
 きれいといえばきれいなのかもしれない空気は、それを当たり前として育った俺にはよく実感できなかったものだった。…少し前までは。今ではこの恵まれた静かで穏やかな環境がとても気に入っている。空気をおいしいと思う。夜の静寂が静かすぎてときどき辛いけど、それくらいだ。
 また、牛や豚を飼わないと。俺に残っているのはだだっ広いこの土地と家と、家業としてきた仕事くらいなんだ。一度は長旅になるからと動物の全てを売り払ったけど、また始めよう。そうでもしないと毎日何もなさすぎて気が狂いそうだ。
「い、て、いててて」
 コツコツコツと何かに頭をつつかれて手を伸ばす。ふわっとしたものを掴むとやめろとばかりに抗議された。じゃあつつくなよと言いたいんだけど俺がちょっとぼうっとしてるといつもこうなんだ。俺だってぼうっとすることくらいあるっていうのに。
 頭の上を陣取っていたものを両手で持ち上げて目の前に持ってくる。機嫌悪そうにバサバサ翼をはためかせて俺に抗議しているのは一羽の白い鳩だ。気のせい、ではなく俺を睨んでいる。
「その嘴けっこー痛いんだからな? あんまりつつくなよディト」
 鳩はクルッククルックと俺に抗議。アンタがぼうっとしてるからだろ、と言われているようだ。
 はぁ、と一つ吐息してから鳩を頭の上に戻した。
 目の前のテーブルには現状の資産と呼べるものが集められ散らばっている。動物を飼い直すとして何を手放して何を残すのか、硬貨以外に使えるものはあるかと確認していたところだったっけ。
 テーブルに立てかけて置いてある小ぶりの槍の柄部分に手をかけて寄りかかる。何もしてないのになんだかしんどい。これからまたここで生活していくんだから、以前していたような生活に戻るんだから、そのために必要な準備なのに。それだけって話なのに、なんか、しんどいなぁ。
 コツコツコツとまた頭をつつかれた。だからそれ痛い。
「やるよ。やるから。なんかしんどいんだよ…ちょっと寝たい」
 いくら隣家がないとはいえ資産をテーブルに広げっぱなしはあまりに不用心なので、バサリ、とマントをかけて隠した。ランプと槍を持ってベッドに移動してどさっと座り込む。衝撃にバササと飛び立った鳩が枕の上に降り立ってクルックと俺を睨んでまた抗議してくる。しゃんとしろ、とでも言うように白い翼を広げてバサバサさせる鳩を枕の横に移動させてふっとランプに息を吹きかけて灯りを消し、寝転がる。

 あの鳩が少年の形をしてディトって名前で俺と一緒にいたのはもう過去のことだ。
 ウタヒメの力でウタヒメの望むままの形を取らされていた使徒。ウタヒメがこの世界から消えて、その力の恩恵を受けられなくなって、人の形を保てなくなった。本来の姿に戻って、俺の知っている少年はこの世界から姿を消した。
 ディトって存在は消えていない。俺の横で白い鳩として翼をたたんでこっちを睨んでいる。でも、もうディトの声は聞こえないし、あの細い身体を抱くことも叶わない。ディトが俺に残していったのはこの槍と想い出くらいだ。思い出せば胸が締め付けられるような切ない鳴き声も、甘い時間も、全部想い出。もう現実にはならない。

 槍を抱きながら眠って、コツコツコツと頭をつつかれて痛くて目が覚めた。眩しさに細めた視界の中には光に溶けて消えそうな白い鳩が一羽。
「ディト…」
 そっと指を伸ばして小さな頭を撫でた。
 多分、しゃんとしろ、とか言われてるんだろう。僕がいなくなったくらいで何だらしなくなってるんだって怒ってるんだ。ちゃんと生きろよ、って。
 小ぶりな槍が俺の隣に転がっている。もう二度と持ち主の手に戻ることはない、ディト愛用の槍が。
「無理だよ……ディト」
 小さくて、うっかり壊してしまいそうなくらい頼りない存在を両手でそっと持ち上げて、小さな鳩胸に顔をうずめた。動物のにおいがした。ディトのにおいはしなかった。それが無性に、悲しかった。
 ディトが好きだった。見た目の幼さに反して大人びた態度も、平気で裸になって誘惑してくるとこも、誘ってくるくせに声上げるのは恥ずかしがるとことかも、全部好きだった。
 控えめに言っても愛していた。
 愛していたよ。この世界で唯一。
 自分のウタヒメに嫌気が差して逃げ出して、疲れ果てたディトが馬小屋に転がってるのを俺が保護して。それから少しの間だったけど二人で生活して。
 最初はお遊びみたいな感覚だったんだと思う。ウタヒメとの時間を忘れるために他の誰でもいいから抱いたり抱かれたりすればいいって俺を選んだんだと思う。こんな辺鄙な場所だし、他に家族もいないせいで、俺も人肌が恋しかった。ディトに誘われたら断れなかった。何度も夜を共にしてベッドを軋ませ汚した。心ゆくまで抱いた。そのうちディトがいる風景が当たり前になってきて、嫌そうに顔を顰めつつも俺の仕事を手伝うようになって、なんか、ずっとこのままがいいなとか、そんな甘いことを思っていた。
 でも、そんな幸せな時間も長くは続かなかった。ディトを取り戻しに海の国のウタヒメがやってきたからだ。ディトは俺のことなんか忘れたみたいにウタヒメのところへ戻った。そして、俺は、そこでウタヒメのファイブに見初められて洗脳された。
 ディトは言ってた。ウタヒメのことが憎いと。殺してやりたいくらいに憎い、と。だけど殺せないとも言っていた。一度だけ背中から剣で斬りつけたことがあるけれど、常人なら死ぬような傷もウタヒメにはあまり効果がないらしい。だから、殺すことは諦めて、今度は逃げた。なるべく遠くまで。でも、他の国には行けない。そういう暗示がかかっているから。
 国境ギリギリまで逃げた。そこで俺に会った。どうせここまでだと諦めていたこともあって、せめて刹那の自由を満喫しようと俺を誘惑した。それで自分の都合のいい奴に仕立てようと思ったらしい。
 でも、失敗した、と言っていた。
 好きになるつもりなんてなかった。そう吐き出したディトは泣きそうな顔で笑った。

 どうしよう。また辛くなる。あの女のところに戻ったら今度はアンタに焦がれるんだ。苦しいことばっかりだよ。どうしよう。僕は、どうしたら

 …ディトの、そばにいるには。ウタヒメに気に入られるしかないと分かっていた。それがウタヒメに洗脳されるということだとしても、それでディトのことがちゃんと想えないんだとしても、遠く離れて胸を焦がすだけの存在よりはマシだろうと思った。使徒はウタヒメに逆らえない。ウタヒメが飽きでもしない限りディトはずっと使徒で奴隷のまま解放されない。
 なら、俺が動くしかない。それでディトが傷つくのだとしても。
 ……何でもやった。ウタヒメのファイブは想われることが好きなようだから、そういうふうに尽くした。ディトのように反抗心を見せなかったからか俺に対しての洗脳はそう強いものでもなかった。ディトが好きなことを忘れてしまうような強いものではなかった。
 ファイブが俺達以外の男を相手にベッドを軋ませている時間が、唯一、俺達に与えられた安らぎだった。
 普段触れ合えない分、短い時間の間にこれでもかってくらいセックスした。キスをした。触れ合った。抱き合った。鬱陶しいくらい好きだと伝えた。愛してると伝えた。普段は強気でつっけんどんなことも多いディトが俺に縋って泣いていた。
 この時間が永遠になればいいのに。
 それでも、どんな夜にも朝はやって来る。
 一晩の相手が消えればディトはファイブのそばに戻るし、俺は食事担当として厨房にこもる。
 苦しい胸。苦しい夜を幾度過ごしたことだろう。
 ファイブの思うままに抱くしかないディトの吐息が泣きそうだった。そんなディトに、俺が泣きそうだった。
 コツコツコツと頭をつつかれた。「いて」とぼやいてぼっとしていたところから身体を起こす。…なんかまだダルいな。なんでだろう。
 バササ、と飛び立った白い鳩が廊下の方に消えた。億劫ながらベッドから下りて槍を持ってついていけば風呂場だった。クルック、クルックと鳴く鳩が俺の頭の上に乗る。いい加減お風呂くらい入れと言われているようだ。
 お湯を沸かすのがめんどくさいっていうか。うん、めんどくさい。
 俺はこんなにめんどくさがりだったかな、と思いつつ鍋で湯を沸かしてタオルを絞った。特に動いてないし身体を拭くだけで十分だろう。
「ディト、お前も」
 頭の上に乗ったままの鳩を膝に下ろしてあたたかいタオルで包んだ。優しく、強すぎない力を心がけつつ白い体毛をそっと拭う。
 鳥の、寿命は。どのくらいだろう。
 小さい動物だ。馬や牛は二十年くらい生きるらしいけど、俺は商品としてしか育てたことがないから正確な寿命は知らない。鶏は育てたことはあるけどやっぱり出荷用だったし、俺が知ってる子で寿命で死んだ子はいない。
 鳩の寿命はどのくらいだろう。
 ディト。お前はあとどのくらい俺のそばにいてくれるんだろう。
 タオルを石鹸できれいに洗い、外のロープに吊るして干した。陽光が視界に突き刺さる。最近まともに外に出てないせいか陽光が毒みたいに視界を痛めつける。
 陽の光から逃げるように屋内に戻ってバタンとドアを閉めた。薄暗い部屋。掃除もしてないから足元にはうっすら埃が積もっている。…死んでる部屋。部屋主の俺は戻ったけど、でも。
 世界からウタヒメは消えた。ウタヒメの真実を知っているのは極少数だけど、これで世界がウタヒメ、それを作り出した花に蝕まれることはない。
 だけど。ウタヒメがいたから俺はディトに出会えたんだ。
「ディト…」
 白い鳩でしかなくなってしまったディトを抱いて蹲る。
 カラン、と音を立てて転がった槍は、もう二度と、本来の目的を果たせないだろう。
 クルック、クルック。俺を諌めるような声がする。
(ごめん)
 俺はもう。お前の望むようにちゃんとは、生きられないよ。お前を愛しているから。お前のいない世界がこんなにも辛いから。お前の分までって思いが薄れつつある。お前がいたからできた全てのことが煩わしい。ずっと寝たままでいたい。もう立ちたくない。もう歩きたくもない。
(もう。俺は。疲れたよ。ディト)

壊れた愛しい世界