私はその頃まで自覚というものがあまり足りていない子で。だからこの街で神と祀られているその生き物と偶然ながら遭遇したあのときも、あんまり危機感とか緊張感とかそういうものを感じられなかった。

 その子は血のように燃える赤い鱗と眩しく輝く金の瞳を持った、文献やお伽噺の中だけの存在とされているドラゴンで。だけど小さくて、まるで私の頭くらいしかなくて、その背中に生えてる羽も小さくてぱたぱたとよく動いていた。
 その日私は初めて、自分の住む街で崇められているドラゴンというものに遭遇して。
 それはあんまりにも大人が神聖な場所だから近付かないようにとうるさいからで。だから悪戯半分興味半分でこの神殿に忍び込んだ。
 だから。その子が祭壇で眠っている部屋にばたんと逃げ込んだとき。そしてばたんとドアを閉じてばたばたと大人達が神殿に忍び込んだ私を探している間。私はぱちと目を開けたその生き物と、祀り上げられているここの神様と顔を見合わせていて。
 ばたばたと大人達がうるさくて。それにばさと背中の小さな翼を広げて、祭壇のベッドみたいなところから飛び立ったその子。ドラゴンなんて初めて見た。だけど私は恐怖も緊張感も神聖な場所なんだとかそんなことも全部全部忘れて、初めて見る生き物と小さなそれにただ好意を憶えた。
 ねぇ、あなたの名前は?
 私は、ただ私よりも見た目が小さくて背中の翼も小さくてまるで犬か猫のように見えたその子に、そう訊いていた。
 もう随分昔の話になる。私が赤髪のあの人に救われる、それよりも少し前の話だ。
どうしてどうして
世界は いつも
「ミスティー」
 晴れたその日。私はその日もいつもみたいにこっそり神殿に出入りしていた。
 あの日から多少神殿の警備は厳しくなったけれど、他でもないドラゴンのあの子が隠し通路を教えてくれたのだ。だから私は今日も今日とてその地下水道の道を辿ってひょこりと祭壇のある部屋に顔を出す。地下の道に入るのは服にちょっとにおいがつくしあんまり好きではないのだけれどこの際仕方がない。
 私の声を聞いたあの子が顔を上げた。ぱたぱた浮かび上がってこっちに来てぼすと私の腕におさまるその子はまだ小さい。
 言葉の通じないその子に、ドラゴンの子に、ここでは神様として祀り上げられてるその子に。私は名前をつけてみた。
「ミスティー、今日も外は晴れだよ」
「ぎあ」
 私の頭に乗って天井を見上げるその子。だから私も天井を仰ぐ。外から隔離されているこの場所。だけど丸く曲線を描く天井の上の方ははめ殺しのガラス窓になっていて、外の景色は見えた。空だけだけど。
 ここにあるのはとてもさみしいものばかりだ。祭壇のようなところにベッドがあってこの子がいて。そして天井からは光が入る。それだけの場所。
 私は手を伸ばしてミスティーを抱き上げた。目の前に持ち上げてみてもその子は小さくてとてもじゃないけど神様には見えない。犬か猫。体重だってきっと猫くらいしかない。
 ただ、降ってくる陽の光を反射して輝く艶かしい鱗の赤と金の瞳が目に沁みる。
「ミスティー」
「ぎゃう」
「どうしてお前が神様なんだろうね?」
 私は首を傾げる。ミスティーも首を傾げた。小さなこの子にはとてもじゃないけど神様なんてもの似合っているとは思えない。小さなその子。私はいつものように祭壇に腰かけてその膝にミスティーを乗せて撫でる。本当なら外へ行くなり何なりしたいところだ。だけどそんなことしたら私は絶対要注意人物としてマークされて二度とここへは来れなくなるだろうし、それは私も嫌だ。
(だってせっかく友達になったのに)
 犬や猫じゃない。ペットじゃない。分かってる。足りない私の頭でもそれくらいは分かっていた。
 街で神様とまで言われて崇められている子なんだから。この見かけはもしかしたら偽物でほんとはすごく強くて厳しいのかもとか色々考えた。だけど私は独りぼっちでこんな場所にずっといるこの子がなんだか少しさみしく思えたのだ。ううん少しじゃないずっと。ずっと神様として崇められてきたのならこの子はずっと独りだったということだ。そんなの、さみしすぎる。
 だから私は。子供らしい理由で、この場所に通っていた。
 立ち入り禁止なんだってことは知ってたし、ここに入り込んだことはどのみち一度は大人達にバレている。二度目があったら今度はもう無理かもしれない。そう思いながらもここへ来ている。
(独りぼっちなんて。さみしすぎる)
 だから。私はここでこうしてミスティーと一緒に静かな時間を過ごす。
 床には薄く埃が積もっていた。だけどそれは私が歩いたせいでだいぶ蹴散らかされた。天井にはちょっとだけ蜘蛛の巣が張っていた。それもうんと背伸びして持ってきた木の枝で払って片付けた。どことなくこの部屋が黴臭いのはどうしようもない。神殿全体がそんな感じで人の出入りがない。手入れも、されていないのかも。
 あんなに神様のいる場所だと外から崇める人はたくさんいるのに、だけどここに入る人は一人もいない。
「ミスティーはご飯食べる?」
「ぎゃ?」
「ご飯。りんごとか果物は? 何か食べないの?」
 だから私はミスティーを膝に抱いたまま話しかける。言葉が通じずとも。その金の双眸は確かに私を見て猫みたいに光の加減で細められる瞳孔。それに映る自分。私はその子の頭を撫でる。私はこの子が何か食べているところをまだ見たことがなかった。

 そこが封印されている場所なんだと、私は知らずにいた。だからこの子の時間は止まったようでこの場所も止まったようで、だからお腹も減らないし目を閉じているだけで本当は眠ることなんてないってことにも気付けなかった。
 気付けなかった。その瞬間が訪れるまでは。
「?」
 声。それに顔を上げる。声。それに眉を顰めてミスティーと顔を見合わせた。
 いつもなら神聖な神殿内。それなのにここまで外部からの声が届いたのだ。それは今までにないことだった。だから私はてっきり私みたいに悪戯半分興味半分でここに乗り込んだ誰かが来たのだろうと思った。
 だけどその場所からこっそり扉を開けた途端に耳を突いたのは、つんざくような悲鳴。だからびくと身体が震えてばんと扉を閉めてしまった。
 気のせいじゃない。聞き間違いじゃなく、外からは悲鳴が。
 どくんどくんと心臓が早鐘のように鳴っている。
「何…?」
 ぱたぱたと飛んできたミスティーが私の頭に乗る。それから短い手を伸ばしたけれど、ばちと弾かれた。私はそれに驚く。だけどミスティーは分かってるって顔だった。驚いてはいなかった。ただ駄目かって顔はしてみせた。
 また悲鳴。それからがしゃんという音。それに鉄砲のような音も。近い。
(ど、どうしよう。どうしよう)
 私はおろおろと視線を彷徨わせた。ミスティーに「ね、なんかまずそうだよ。地下水道で外まで行こう」と言う。だけどミスティーは目を細めて私を見ただけだった。いつものように返事はしてくれなかった。
 どぉんと外ではすごい音がする。まるで大砲のような。
「ミスティ…?」
 きゃあああと女の人の悲鳴。それにびくと引きつる自分の身体。ばたばたと足音。それから縋るようにどんどんと目の前の扉が叩かれる音がして反射的にミスティーを抱いて後退った。訳の分からない恐怖感。恐怖が、あった。
「ご慈悲を! どうか我らが主よ、ご慈悲をっ!」
「、」
 ぎゅうとミスティーを抱いて後退る。
 ご慈悲? 何を言ってるんだろう。この子は確かに神様としてここにいるけれどでも、こんなに小さくて、何ができるわけもないのに。
 だから私はきっと顔を上げてつかつかと奥の間に歩み寄った。さらに誰もいなくて黴臭くて埃がいっぱいで、まだ入ることのなかった一番最奥の間。そこにはこの街の宝剣とい称えられる剣が一振りある。最も長い年月が経過したせいで刃は錆びついてて、とてもじゃないけど武器になりそうにはない。
 だけどその柄をがっと掴む。それから顔を上げる。小さなミスティーをぎゅうと片腕で抱き締めて。
「大丈夫。私が守ってあげる」
「ぎ、」
「私が守るの。ミスティーは小さいんだもの、これからおっきくならなくちゃ。そうでしょ。おいしいものいっぱい食べて、川に行ったり海に行ったり山に行ったりして、楽しいことたくさん。だから」
 どおんと音。まるで大砲のような。そしてばんと扉が開けられた。外からは人。女の人が倒れ込んで「ご慈悲、を」とか細い声で言葉を漏らしていて。私はその人に錆びついた剣の先を向けて後退る。
 何がご慈悲だ。こんな暗くて冷たい場所に一方的に閉じ込めておいてご慈悲だなんて。
 外がどうなってるのか分からないけど一方的すぎるじゃないか。そんなのひどい。一方的にここに押し込んで神だって祀り上げて独りぼっちにしておいて、いざとなったら頼る? そんなのおかしい。おかしい。
 この子は何もしていない。この子はなんにもできない。私はここに通った。話をした。私が語りかけることがほとんどだったけどそれでよかった。独りぼっちでここにいる金の瞳のこの子を私はかわいそうだと思った。だから。誰もこの子を独りから救わないというのなら私が救う。それだけだ。
 私だって独りぼっちだ。だから独りの気持ちはよく分かる。独りじゃないのがどれくらい心があたたかくなることなのかも。
 だから。私はこの子を守る。守って、こんな場所から連れ出してみせる。孤独は心を苛む闇だ。
 そのときだった。ずんと神殿内が大きく揺れたのは。
「、何?」
 ずんとまた揺れた。どおんと大砲のような音がした。鉄砲が連打されるような音も。女の人は倒れ込んだまま動かない。よく見ればその人の肌には何か星型の模様が浮かんでいて、ずんと神殿がまた大きく揺れた震動でぱきんと、そう、ぱきんと音を立てて崩れた。
 だから息を呑んで後退る。どんと背中が壁にぶつかった。
(今の、何)
 おかしな現象が。今目の前で。
 その人は砂のようになって崩れていた。ありえないことが今、目の前で。
 ぎゅうとミスティーを抱く腕に力を込める。祭壇のある部屋の窓がばりんと音を立ててガラス片を降らせた。それにごくと唾を飲み込む。様子がおかしい。明らかに。外は、一体どうなって。
『離して
「、」
『行かないと』
 声が。聞こえて。まさかと腕に視線を落とせば、ミスティーが金の瞳でこっちを見上げていた。何を言われたのか分からなくて「ミスティ」と呼んだけれど、ミスティーは目を細めてばさと私の腕から抜け出した。そのままばさりと翼を広げて天井の破れたガラス窓から外へ、外へと飛び立ってしまう。
 だから私は反射で追いかけた。「待ってミスティー!」と叫んだけれど窓の向こうは、天井の窓の向こうは赤い空だった。ぞっとして手にしていた剣を取り落としかけて、ぎゅうとその柄を握り締める。
 宝剣だか何だか知らないけど、錆びてちゃ武器の一つにもならないかもしれない。だけど。
(外へ!)
 走る。砂になった人だったものを跳び越えて、震動する神殿の長い回廊を、ところどころ銃弾でも受けたみたいに穴の撃たれた回廊をひた走る。ここは正面扉以外水の堀で囲まれているから外へ出るには正門へ行くしかない。
 だから走って。ひたすら走って走って走って。外へ出て。
 外に、出て。呆然とした。
 燃える色と、赤い色と、瓦礫と、それから砂と服の残骸を残す、その場所はすでに私の知る街ではなくて。ぞくと背筋が寒くなった。空に何か浮かんでいる。何か、冗談みたいな、おかしなものが。
「…、何あれ」
 だからかたかた腕が震えた。おかしなものが見える。私の目はどこかおかしいんだろうか。だって今街は跡形もなく崩れ落ちていてところどころ燃えていて、ついでに言えば空には何か。おかしなものが。
 大砲、みたいなものをたくさん持った。あれは、機械?
 だけど顔が見える。小さいけど顔みたいな部分が、見える。じろりと私を睨んだ。だからびくと身体が震える。
(何あれ)
 手にしていた剣ががしゃんと音を立てて落ちた。大砲の一つががこと音を立ててこっちを向く。
 わけが分からない。だけど向けられている大砲みたいなものの口は見える。剣を。剣を取らないと。大砲なんかに剣は敵わないけど何もしないよりは。
 そう思うのに、身体が震えて動かない。
 それでどどどどどと無慈悲な音がして。私は怖くて反射で目を閉じた。耳を塞いで目を閉じて死を、覚悟した。
 だけど衝撃はこなかった。痛みも。代わりにがんがんがんと何かが反射されるような音がして。どぉんと立て続けに爆発の音。だから薄く目を開ける。そうすると目の前には見慣れた赤い鱗。赤くてとても、血の色を、太陽の昇る朝陽を、炎を思い出させる色。
『手出しはさせん』
「、」
 その声に顔を跳ね上げる。見上げるほどに大きな赤い身体を持ったドラゴンがいた。私を守るように尾を巻いて、金の両目で大砲を持つ何か分からないものを睨みつけているドラゴンが。
 その背中には立派な翼があって、立派に角まで生えていた。そのドラゴンにミスティーが重なる。あの小さい子が。私でも片腕で抱ける子。頭にも乗っかれるくらい小さいあの子が。
「ミスティ…?」
 だから名前を、私が勝手につけた名前を呼んだ。だけどそれでもあの子は私が名前をつけたとき喜んでくれた。ぎゃうと嬉しそうに飛び回って私の周りを旋回してぎゃうぎゃうと楽しそうに鳴いていた。
 その金の目が私を見る。その爪がごがと音を立てて地面から持ち上げられた。銀の爪。鋭くてとても頑丈そうな。
『ここで待て。私が守る』
「まも…?」
 ばさと両の翼を広げたドラゴンが飛び上がる。巻き上がる風に身を竦めてから恐る恐る顔を上げれば、頭上では赤い鱗を持ったあの子と大砲を持つ何かがぶつかり合っている。どどどどどと容赦ない弾丸の嵐。それを弾いてみせる赤い鱗とそれを薙いでみせる銀の爪。ぐるると唸ったその口から覗く牙。小さなあの子とは似ても似つかない、大きな姿。
「ミスティー…」
 その爪が振り上げられてどんとその何かを引き裂く。音を立ててそれは爆発した。そうしてミスティーがそこでぽんと小さくなってひゅるるると音を立てて落ちてきた。だから慌てて立ち上がってあわあわと腕を伸ばしてキャッチの用意。
 それでぼすんと私の腕に落ちてきたその子はひどく辛そうに息をしていた。ぜぃと荒い息を吐いて『、逃げるんだ』と言うから。だから私は「そんなの無理」だよ、そう言いかけてじゃりという靴音にはっとして顔を上げる。
 目の前には人。だけどどこかおかしい。何かおかしい。
 だから手を伸ばしてがしゃんと剣の柄を握った。錆びた剣だ。分かってる。武器にもならないだろう。分かってる。だけどそれでも一応宝剣なんだから。名前だってちゃんとあるんだから。
「来ないで」
 その、人は。普通のどこにでもいそうなおじさんは。いきなりさっきの何か分からないものに変わって。人だったのにまるで皮を破るかのようにその何かは現れて、大砲ががしゃんとこっちに照準されて。私はぎゅっと剣の柄を握り締めた。ミスティーは離さない。離すもんか。
(守ってくれた。なら今度は私の番)
「ドラグヴァンデル」
 だから私は剣の名を呼んだ。ぎゅんと音がする。撃たれる。分かってる。だけどそれでも私はこの腕の中にある体温のために、逃げるわけにはいかない。逃げられもしない。こんなぼろぼろの剣じゃ何もできない。分かってる。さっきみたいに弾丸を撃たれたんじゃ敵わない。分かってる。私もそこら中に転がってる人みたいに砂みたいになるのかもしれない。分かってる。
 それでも。諦めたりしない。
 か、と砲弾が撃たれる音。暴発する音。私は歯を食い縛ってがしゃんと構える。
(剣なんて使い方知らない。だいたい錆びてるし色々無理だよ。でも。だけど)
 ぜい、と苦しそうな息をしてそれでも私を守ろうと腕から抜け出そうとするこの子のために、私は。
「っ!?」
 そのとき、だった。かっと音を立ててその剣が変化したのは。
 それから同時だった。放たれた弾丸を全て撃ち落とした、別の弾丸の持ち主が現れたのは。

「ほぉ。こりゃあ当たりだな」

 ミスティーと同じような赤い髪を持つ銃を構えたその人に会ったのは、それが、初めて。