(案外遅くなった)
 つかつかと石畳を行く。「おーい神田ぁ報告」「てめぇでしとけ」背中にかかる声にそう返して目に止まったエレベータに跳び乗った。本来なら階段を使って行くところだが今はこれを使って早く部屋に戻るしかない。
 だからばんとエレベータに掌を叩きつけて上昇させた。景色が視界を通り過ぎる。それから思い出すのは任務遂行での報告、ゴーレムを使った今朝の会話。
 ユウ。怪我は大丈夫? また無理したってコムイさんが教えてくれた
 (言うなって言ったのにあの野郎)大したことない。すぐ治る
 ユウはいつもそれだね
 お前こそユウユウうるせぇ
 今更神田なんて呼ばないよ
 …別に呼んでくれと頼んでもないしな
 ねぇ帰りは? 終わったんならもう帰ってこれるんでしょ?
 あー。夜には帰れる
 ほんと? じゃあ私待ってるね
 (…勝手にしろ)ああ
 交通機関で車両事故発生。世界各地を回ってれば珍しくもない話だが、そういうときに限ってそんなものに巻き込まれる。運がない。苛々しても仕方ないぞとマリに言われた。そうだぜ神田とデイシャに同意されたがそれで苛々するのが治まるわけもない。ついでに口を開かなくていいうちの師匠がそうだよユーくんと言うから苛々はさらに増すわけであって。
 早く帰らなくてはと思ったときに限って思うように行かない。
 だから。自分の部屋を前にして深呼吸したのはここまで速足で歩いてきたせいとかではなく、ただ緊張していた。アクマ相手だって緊張なんて言葉とは程遠いにも関わらず、同じ人間に。彼女に対してどうして緊張感なんて抱いたのかと言えば、この扉を開け放った向こうにいる彼女に何を言われるだろうと想像するからで。
 想像は想像。だからがっとノブを掴んで一つ呼吸してがちゃと開けて。
 想像は想像。だけどもう十二時を回った。だから眠ってるだろうなんてこと、想像ついてた。
「……はぁ」
 だからぱたんと後ろ手に扉を閉めて息を吐く。
 彼女は予想通り眠っていた。俺のベッドで許可もなく。もそと竜の方が起き上がって『遅かったな』と言うからふんとそっぽを向いてばさとコートを脱いだ。「悪かったな遅くて」と返しながらハンガーにコートを引っかける。
 彼女は。予想した通り眠っていて。万が一起きてた場合何を言おうとか考えてた俺の思考はそれで緊張が途切れて。
 俺の帰りを待ってる間はきっと植木鉢の世話でもしてたんだろう、任務に出る前とは違った場所にジョウロがあってまだ水が入ったままで。だから彼女が世話したんだろう植木鉢の前にしゃがみ込んで手を伸ばしてその葉を撫でた。種から取り寄せて二人で図鑑を見ながら育てている花。ユーフォルビア。花言葉は君にまた会いたい。
 私達エクソシストにはぴったりかなぁと思って。そう言って笑ってみせた彼女。
 あの笑顔が。まだ頭に焼き付いて離れない。
 髪を解いてゴムを手首にやる。振り返れば金の瞳がまだこっちを見ていた。「なんだよ」と言えば闇の中でも見える金の瞳が『どうして遅れた』と言うからそっぽを向いて「交通機関の事情だ。こういうときに限って列車事故なんてのが起きる」ぼやいて返しながらがしと部屋着を掴んだ。とりあえずシャワーを浴びたい。
 それから気付いて彼女の寝顔を見やった。うなされてるわけでもないし安らかともいいがたい、何とも微妙な顔をしてる。
「…ただいま」
 ただいまなんて。言うガラじゃない。だけど彼女が眠るまで俺のことをただひたすらこの部屋で待ち続けてたんだろうと思うと邪険にできなかった。だからその頭を一つ撫でる。そうするとふわふわしたその髪にユウの髪はさらさらでいいなぁと言ったいつかの彼女を思い出す。だけど俺から言わせてもらえばお前の方が全然。
 それでじいとこっちを見つめる金の目があったからぱっと手を離した。シャワーを浴びに一歩踏み出したところでぐいと髪を引っぱられる感触がして思わず振り返る。
「、ユウ」
 彼女がぼんやりした目で俺を見ていた。引っぱるなら服にしろ髪にするなと胸中で思いつつその手を取って「今帰った。悪い。遅れた」と言えば彼女がぐいと目を擦って「いまなんじ?」「もう深夜だ」「しんや…」まだ眠いんだろうと思ってその手を布団の中に戻して「いいから寝てろ」と言う。それでも彼女が目を擦って霞むんだろう視界で懸命に俺を見つめるからはぁと息を吐く。竜の方は、引っ込んでいる。
 彼女がいるのといないのとじゃ、あの竜もだいぶ違う。

「けが。は?」
「もう治る」
「あしたは」
「何もない」
「じゃあ…いっしょに、いようね」
「ああ」
「ねむたい…」
「寝ろ。俺はシャワー浴びる」
「…じゃあ、あした。おやすみユウ」
「…ああ。おやすみ」

 だから彼女の髪を撫でた。目を閉じた彼女は十秒とたたないうちにまた眠りの世界に引き込まれていく。
 だから彼女の髪を撫でて。何してんだ俺はと自分を叱咤して立ち上がる。
 おやすみなんて。言うガラじゃない。だけどまぁたまには、そういうのもいいか。