(畜生が)
 暗い水路内にその声は乱反射して、ついには遠く船の灯りも消えた。その姿はもう見えない。クロス・マリアンを乗せた船はもうすでにここを出た。
 それなのに彼女は動かない。
(なんだよ。何なんだよ俺)
 彼女を引き止めるために伸ばした腕。それなら手を取るだけでよかった。その腕を取るだけでよかったはずだ。だけど俺は彼女を抱き締めた。無意識か意識的にか。気付いたら彼女の髪に顔を埋める自分がいた。花のような香りがした。それから微かに煙草のにおい。
 それが誰のものかなんて、言うまでもない。
「…コムイ」
「はい?」
「先に行け」
 さっきから静観を決め込んでるコムイの視線が鬱陶しかったのでそう言う。ぶうと年甲斐もなくふざけるからじろりと睨めば「はいはーい、邪魔者は退散しますよー」と階段を上がっていった。「リナリー今行くよー」とか年甲斐のないふざけた声でそんなことを言いながら。
 だから。誰もいなくなった地下水路で、もう声を発することもしない彼女を抱き締めたまま自問する。

 これはなんだ。現実だ。
 じゃあ俺は一体何をしてる? いや。何が、したいんだ?

「…行っちゃった」
 ぽつりとこぼれた声。震えたその声と「ねぇ元帥の任務は何?」という言葉に舌打ちする。
 俺じゃそれを止められないってか。クロス・マリアンはもう行った。ここにはいない。それなのに。
「…アクマの魔道式ボディ製造プラントの破壊」
「、」
「俺はそう聞いた」
 彼女が弾かれたように顔を上げた。震えた声から予想できる通りの泣きそうな顔。「何それ。何その、すごい任務」とこぼれた声がさっきよりもずっと震える。
 彼女を抱く腕に力がこもる。
「一応元帥なんだ。やれるだろ」
「そんな保証ない」
「ねぇよ。ねぇけどお前は誰よりあいつを信じてんじゃねぇのか」
 口が滑る。言いたくないことまで言ってる。誰よりもあいつを信じてるだなんて、なんで俺の口からわざわざ確認させるみたいに言わないとならない。そんなこと、言うまでもないだろ。
 彼女が笑う。無理矢理笑おうとして失敗した笑い方。その目尻から涙がこぼれて頬を伝った。「そんなに大事な任務なのに、あの人いつも通りだった」と震える声でぼすと俺の胸に顔を預けて「いつも通りだったよ」と、そう言う。
 俺はクロス・マリアンに詳しくない。うちの元帥はあの親父だ。クロス・マリアンについて俺はほとんど知らない。
 だけど彼女が心を寄せてるのがそいつであるってことは、ここ数年痛いくらいに実感してる。
「…泣いたって戻ってくるわけじゃない」
 月並みの言葉しか言えない自分がひどく歯痒い。そんなこと分かってると空笑いする彼女の声が痛い。その存在が痛い。俺の胸に痛みを与えてくる。まるで胸の梵字が痛むかのように。
「泣くなよ」
 月並みの言葉しか。自分の口から出てこない。「だって」と静かに泣く彼女が痛い。泣くなら泣くで子供みたいにぴーぴー泣いてくれた方がいっそ泣かれる側からしても清々しかったものを。未練がましく泣くなよ。あいつがいないと生きていけないわけじゃあるまいし。
 だけど、そのどれを取っても彼女のためにはならない言葉。その涙を癒すことは到底無理。
 震える肩がいつもよりずっと頼りなく感じる。ぐすと鼻を鳴らす彼女がその腰にある剣を振るう同じエクソシストなのだということを忘れそうになる。何そんな弱い存在になってんだよとどうしてか苛々する。彼女に? それとも彼女をこうさせた奴に?

 彼女が俺のことをユウユウと名前呼んで連呼する回数なんていちいち数えちゃいないが、俺が彼女の名を呼ぶことなんて限られていた。一日で数回。ない日だってある。彼女は俺を見つけるとユウと呼ぶ。笑顔で。俺はそういうのはできない。できないからこそ、その笑顔で笑いかけられることが少しだけこの心に響いていた。
「俺はお前の笑った顔の方が好きだ」
 だからそんなことを口走った自分にあとから気付いてはっとした。顔を上げた彼女が目を擦りながら「泣き顔が好きだなんて言われたら困るし」と笑う。口元だけで少し。
 つい口を滑った言葉。それは彼女にとって慰めに取られたらしい。それが嬉しいようなそうでないような複雑な胸中でいつまで抱き締めてるつもりだとぱっと腕を離した。顔が熱いと思いながら背中を向けて「主役がいないでパーティは成り立たないだろ。戻る」ぞ、と言いかけて止まる。背中にぼすと衝撃。背中側から回される腕の感触に身体が固まるのが分かる。
「まだ無理」
「…そうかよ」
 掠れたその声。だからそうぼやき返して息を吐いて目を閉じる。なんだってこんな暗くて水臭いところにいつまでもいなきゃならないんだ。そう思いながらも回されているその腕に手を重ねたのは多分、そんな彼女を慰めるため、だ。
「あー。もうケーキ空っぽだぁ」
「ごめんね、ミスティーが全部食べちゃったの。よっぽど美味しかったみたいよ」
 リナリーが駆け寄ってきてに謝る。彼女が笑って「ううんいいのいいの。ケーキちょっとお酒入ってたし、だから寝てるんだねミスティ」と言われてソファに目を向ければ、確かに竜の奴はぐうとのん気に眠っていた。まぁ追いかけてこられたらこられたでさっきみたいなことにならなかったろうが。
 考えたらまた顔が熱くなってきた気がしてつかつか歩き出しながら「茶は」と言えば「まだあるわよーん」とジェリーが湯飲みを差し出してきた。それをがしと掴んで口をつける。ああ畜生め。
「あら」
「あ? なんだよ」
「んふふふー」
 なぜだか含み笑いをされてかちんとくる。というかその言葉遣いはいい加減どうにかならないのかと思いながら「なんだよ」と二回目になる言葉を使えば、なぜだかジェリーの奴は満足げな顔で一人勝手に頷いて、
「自覚がでてきたみたいじゃないの神田ちゃん」
「あ? 何の」
「またまたーとぼけちゃって!」
 ばしばしと背中を叩かれて危うく湯飲みが手から抜けるところだった。きっと睨み上げて「だからなんだっ」と声を上げれば「ちゃんよぉ」となぜだか彼女の名前を出される。それで完全に手元が狂って湯飲みががしゃんと音を立てて落ちて割れた。一秒置いて「何が」と言う自分の声が若干慌てているような焦っているような。それが我ながら滑稽で、ふふんと胸を逸らすジェリーの言葉がまた一つ俺を追い詰める。
「恋は人を変えるのよー神田ちゃん」
 ばちんとウインクされた。それにわけもなく腕が震える。

 彼女の誕生日なら知っていた。今日だってことは去年かその前か忘れたがそれくらいから知っていた。だけど別に祝いの言葉ぐらいで物をやろうなんて気にはならなかった。第一こんな場所だ、誕生日なんてあってもなくても同じようなもの。ただそれだけ生き抜いたっていう祝いならまぁ確かに祝いだし、それくらいの認識しかなかった。他人の誕生日も自分の誕生日も。
 だから今日、彼女に物を贈ったのは。彼女がいつも首からさげているクロス・マリアンと揃いにしたようなロザリオに対抗心を憶えたから。
 いつもいつもいつも揺れるそれが、まるでその存在をちらつかせるようで。
 だから今日は彼女に物を贈ろうと。対抗心で。そう、俺はあの男に負けたくなくて。

「……っ、違う!」
 だから激昂して割った湯飲みもそのままにつかつかと科学班の部屋をあとにする。「あ、ユウ帰るの?」という言葉にかろうじて反応して「ああ」と返しそのままそこから逃げるように背中を向けて、そこで彼女の声。
「ありがとねユウ」
 だから振り返る。彼女の笑顔。まだ少し赤い目元とその笑顔に言葉が詰まった。
(違う)
 否定する。その言葉で否定する。だけど彼女の笑顔から視線の剥がせない自分がいる。他の誰よりも彼女だけが視界に映る。隣にはリナリーがいる。その向こうにはリーバーや科学班一同が、この場所にはうざいくらいの人だかり。その中で彼女だけが映るこの瞳は。
(違う)
 俺は。俺は、
(違う。これは恋なんかじゃ、ない)