膨らむ焦燥が
手におえなくて

 時間があるときとないときの差が激しい。任務が入れば必然的に本部を去らねばならず、そうすれば本部に縛りつけでアクマ一掃の任に配置されている彼女は笑って俺を見送る。
「いってらっしゃいユウ」
「…ああ」
 いつもの笑顔を向けられて視線を逸らしながら左手をかざす。中指には彼女が俺の誕生日にと贈ったシルバーの指輪がはまっている。彼女の手にも俺が贈った指輪が。そして指輪同士をぶつけて別れるのが今ではすっかり定着している。俺もそれを疑問に思うことを忘れた。
 ただそれでも彼女の胸で揺れるロザリオが視界に入る度に俺に訴える。正体不明の焦燥感を。
 ばさとコートを翻して探査部隊を無視して歩き出す。ざくと一歩地面を踏み締めれば踏み締めるほど彼女との距離は隔たっていく。
「早く帰ってきてねー!」
 背中から聞こえるいつもの声。手を振って応えるのが常。だけど今日は振り返った。彼女はいつもの笑顔で大きくこっちに手を振っている。そのフードの中には恐らく竜も収まっているんだろう。
 そしてその隣にはこないだ入ったラビとかいう奴がいる。「気をつけろよなー」と言われてふんとそっぽを向いて正面に向き直りざくざくと歩みを進めた。彼女との距離が隔てられていくことになのか彼女の隣に誰かがいるからなのか、正体不明の焦燥感は一層大きく膨らみ。けれどそれを持て余す俺にできることは早く任務を片付けてここへ戻ってくる、それだけだった。
 クロス・マリアンはいない。もう二年になる。彼女はときどき泣きそうな顔をしてクロス・マリアンの自室だった部屋にいた。たまたまその前を通りかかってたまたま暗い灯りに気付いたから彼女の存在に気付けた。その部屋で彼女は一人小さく蹲っていた。
 夜中だった。部屋に電気は入っていない。ただ丸テーブルの真ん中で蝋燭が一本揺らめいている、それだけの部屋。暗すぎるその部屋に踏み込んで何してると言えばソファに蹲っていた彼女が顔を上げた。蝋燭の光に照らされる彼女は幽霊のように生気が薄く、いつもの笑顔はそこにはなかった。
 何してる。二度目の問いかけと、踏み出せば埃っぽい空気が分かるその部屋で。もう染み込んだはずの煙草の臭いすらなくしたその部屋で、彼女はただ膝を抱えて座り込んで、その膝頭に顔を埋めた。
 元帥がいないの。弱い声でそう言って。
 そんなもの二年も前からそうだった。今更すぎる。今更こんな趣味の悪い酒瓶ばかりの部屋に来てまで言うことじゃない。
 蝋燭の火と、まるで開けられるのを待ってるかのように置いてあるワインと注がれるのを待ってるかのように置いてあるグラス。膝頭に顔を埋めたまま彼女は蝋燭の火の向こう側でただじっと待っている。何かを。この場合誰かを。そしてそれは、
 だから言った。もうよせと。深い意味はなかった。ただ彼女がここまでしてその帰りを待つクロス・マリアンが俺は心底嫌いだった。そうして顔を上げた彼女はやっぱり泣きそうな顔をしていた。

 元帥がいないの。どうして?

 か細い声に涙が混じって嗚咽が混じる。その肩が震えて闇が震えるのが分かる。
 こんなときに限ってあの竜がいない。どうすればいいのかどうしたらいいのかも分からず立ち尽くして、彼女の泣いた声と聞き取れる元帥という声に、それでもまだ呼ぶ声に、俺は自分の中で渦巻く黒いものに気がついた。
(これは。一体なんだ)
 泣く彼女にできることは本当になかった。俺はどうしたらいいのか分からずただ途方に暮れていた。
 そこへラビの奴が来た。うわどうした何泣いてんのさと慌てた声を出して。
 伸ばされた腕の中に収まった彼女が泣きながらラビぃと言う。それにまた黒いものが渦巻く。困惑したような戸惑ったような顔でラビがこっちを見て大将なんかしたのか? と言うから。だから俺はその逆で何もできなかった自分にただ腹が立った。
 たったあれだけ。たったそれだけ。あのときのように抱き締めてやればよかった。彼女は縋るものがほしかったんだとそのとき気付けた。俺にはいらないものでも彼女にはいるものがある。そういうものに気付けないで俺は今までどれくらい彼女を傷つけてきたんだろう。
 ただ抱き締めてやればよかった。あのときのように。
 クロス・マリアンを追おうとした彼女を抱き止めた。行くなと。行くべきじゃないと。行ってほしくないと。
 泣くなよ、オレもユウもここにいるぞ? な? そうやって彼女の髪を撫でるラビのようにしてやればよかったのだ。
 だけど俺の中では相変わらず黒いものが渦巻いている。まるで今にも暴れそうな、嵐の雲のような、黒いもの。
(これは。一体、なんだ)
「……、」
 薄く目を開ける。そうするとがたんごとんと振動する列車の座席が見えた。
 任務が終わって帰還の途中。いつかには列車事故なんてもので足止めを食らったりした列車に乗りながら、本部に帰る道を辿っている。
 重い身体を動かして左手を掲げた。中指に収まっている指輪。装飾の類なんてめんどくさいし邪魔だと思ってたから一つもつけないでいたもの、だけど今つけてるもの。俺と彼女を繋ぐもの。
 この五年。一緒に生きてきた。半分くらいは任務で出てたから五年もないのかもしれない。彼女と過ごした時間はもっと少なくてもっと浅いものなのかもしれない。だけど他人との付き合いの中で彼女ほど俺の心を乱した誰かはいない。今もまだ胸の内で巣食う黒いこれを制御できるのは彼女だけ。俺の中にあるこれをどうにかできるのは彼女だけだ。
(無駄に動きすぎたな…阿呆か俺は)
 息を吐いて腕を膝に落とした。必要以上の力を持って俺はアクマを滅した。
 八つ当たり。所詮アクマ、葬るしかない。誰の想いが交錯しようと関係なく目的地のアクマは一掃した。任務的にはハズレだったわけだがそんなことは今まで山ほどあったから別に気にならない。
 今頃彼女が何をしてるのか。まだラビの野郎は隣にいるのか。竜の奴はちゃんとついてるのか。彼女は無事か。任務は入ってないか。帰ったときちゃんといるか。泣いてないか。意識の半分くらいをそっちに持ってかれているせいで身体も頭も随分重い。
(…まだかかる)
 窓の外の景色に視線を流しながら瞼を閉じて座席に深く背中を預けた。
 もう一つ眠ろう。そうすればきっとまた彼女に会える。そうしてる間に本部につく。一番には報告だが俺の帰りをきっと彼女は待ってるだろう。クロス・マリアンほどではないとしても。
(ああ嫌な夢だな。夢の中でくらいあいつと二人で)
 暗くなった視界とゆるゆると流れる意識。思考。緩慢になっていく頭。
 そこまでして彼女のことを考える自分。
 いつかに言われた恋という言葉。
(違う。俺は、そんなものは)
 ユウ? こらユウ、手止めないでよ

 その声にはっとして意識の焦点を戻す。隣ではむくれた顔をした彼女がいる。だから悪いと返して手元を、花壇の土をいじっている自分の手を見つめた。土にまみれた指と汚れないようにとまくり上げたカーディガン。
 息を吐き出しても寒さで白く濁ることはなくなった頃、彼女とまた花壇の手入れをした。毎年毎年そうだった。土いじりなんてめんどくさいし手が汚れるし性に合わない。そう思っていたのも随分昔に遠ざかり、彼女と一緒に土いじりを始めてしばらく。種を植え終えた彼女がよっしと立ち上がって終わりーと笑う。だから俺も種のなくなった掌で土を払いながらああと返す。そうやってその年も二人で。
 二人で。

 お? 何してるかと思えば二人で花壇?

 そこへ結構わざとらしい登場の仕方をしたラビ。茂みから出てきたそいつを睨みつければへらっとした笑い顔が返ってくる。だけど彼女はぱっと笑顔を浮かべてそう花壇。ラビもどう? と言う。大した疑問も持ってないいつもの笑顔で。相変わらずフードの中にいる竜だけが気に入らないって顔をしてる。俺もその類の顔をしてるんだろうがそれは結構もっぱら。彼女にはその違いまでは伝わらない。
 ね、いいよねユウ。そう言われて手を握られると俺が言うべき言葉は見つからなくなった。にこにこしている彼女は俺が否定の言葉を言うだなんてこと想像してないのだろう。そう思ったから俺は喉元まで迫っていた否定の言葉を呑み込んだ。
 別に。そう返してラビの奴を一瞥する。ほー手作り花壇かやるなぁも大将も。そんなことを言いながらへらへら笑ってるあいつの底を俺は知らない。ただに付き纏う、それだけで嫌う理由は十分だった。
 彼女と二人で。花壇を始めた。それに誰かが加わる。誰かが入る。俺と彼女の二人だけだった空間に。唯一彼女だけのいる、彼女だけを考えていられる時間に。
 どんどんどんどん。誰かが現れる度に磨り減る。彼女は笑う。俺は笑えなくなる。胸の内に巣食う黒いものがどんどん大きくなっていく。目に見えないそれを確かに感じる。だけどどうしたらいいのかはやっぱり分からないまま。
 分からない。分からないことにしてる。だけど俺はそれが何か薄々気付き始めている。
「ユウー! おっかえりーっ!」
 俺の帰還に合わせて夜中でも外に出てきた彼女。隣には誰もいない。気持ち速足で彼女のところまで行ってポケットに手を突っ込んで「やる」と言ってそれを押しつけた。首を傾げた彼女が俺にランプを預けてがさがさと包みを開け始める。それを視界の端で見ながら暗闇の中に目を凝らした。ゴーレムは今日も飛んでるんだろうがそれはこの際仕方ない。
「あ、紅茶! どうしたのこれ?」
「見つけた。好きな銘柄だったろうそれ」
「うん。よく憶えてたね、すごいや」
 ランプを持たない手の方で拳を握った。彼女の笑顔が視界の端に映ってるだけなのに心が疼く。黒いものが暴れている。こんなとき俺はどうしたらいいのか分からない。まだ分からない。そういうことにしてる。だけど心の奥底では薄々気付き始めている。これは逃れられはしないものなんだと。
「帰るぞ。蕎麦が食いたい」
「また蕎麦? たまには違うもの食べようよ」
「うるせぇ」
 だから彼女の手を握り込んで引っぱって歩いた。紅茶のティーバッグの包みを嬉しそうに抱き締める彼女と、そのフードからこっちを覗く金の瞳。一瞬だけぶつかった視線を逸らして言いかけた言葉を呑み込む。
 ただいまは。やっぱりまだ言えない。面と向かって彼女に言うことができない。言ってもいいだろうとは思うのに。
 おかえりと言われたらただいまと返す。帰るのを心待ちにしていたからおかえりと言われる。それに返す言葉はただいま。だけどずっとそれを言えないで、代わりに彼女がほしいと言ってたものや気に入ってるものを買って帰ったりする。それくらいならしてもいいかと思ったから。
 どうせ金を使うところなんてない。使うんなら彼女のために。その笑顔のために。
 俺のこれは、彼女でしか満たされない。解決できない。だから。笑ってくれるためなら、彼女のためなら俺は。
「じゃあ私お蕎麦頼んで待ってるね。報告行ってらっしゃい」
「…ああ」
 エントランスの階段で彼女が俺に手を振って食堂へと上がっていった。それを見送ってから深く息を吐く。
(俺のこれは)
 左手の中指にはまっている指輪。それを意識してぐっと拳を握った。
(俺は)
 いつかに否定した恋という言葉が甦る。
 恋なんてしたことがないからこれが恋かどうかも分からない。ただ他人に言わせると恋だというだけの話。そうじゃないのかもしれないしそうなのかもしれない。分からない。ただ俺が彼女の笑顔を望んでることだけは確かだ。彼女の笑顔と二人の時間。それを望んでることは確かに事実だ。

 だから俺のこれは。多分、恋だ。