私には、母がいて、父がいなかった。幼い頃、それを不思議に思ってお父さんはどこ? と訊ねた私に、母は泣いた。泣いてから笑った。お父さんはね、お仕事で遠くに行ってるのよ、と言われて、私は黙って頷いた。幼心に、お父さんのことを話題にしてはいけない、ということをこのときに学んだ。
 学校へ通うことになり、入学式というのを経験した私は、父母が並ぶ席に私にはお母さんしかいないという現実を眺めて、少し寂しくなったけれど、お母さんを大事にしようという気持ちの方を強く覚えた。
 母はあまり身体が強くなかった。だから、いつからか、学校から帰ったら私がやれるだけの家事をする、ということで日々が回り出していた。
 夕食を作ることから始まって後片付け、お風呂の準備。慣れてしまえばそれらに戸惑うこともなくなったけれど、母の負担は減ったはずなのに、母が元気になることはなかった。
 母は、私が大きくなるごとに弱っていくようだった。
 それはまるで、母の生きる力を私が奪い取って、成長しているような。そんな錯覚を覚えさせた。

 私が10になる頃、母はぐあいが悪いと寝込むことが多くなり、私はその度に学校を休んで母の世話をした。おかげで成績は中の下だったけど、それはあまり気にすることでもなかった。私は学校より母が大事だったし、できるなら元気になってほしかった。だから精一杯世話をした。近所のおばさんに元気の出る料理を教えてもらったり、薬のいいものを買ってきたりと、できることをした。
 母が季節の変わり目に寝込むことが多くなり、9月の中盤、私はまた学校を休んだ。
「お母さん? ほら、りんごすって生姜と合わせたよ。ブランデーも入れたから、紅茶、おいしいよ」
 ベッドに臥せったままの母のところへあたたかいカップを持っていく。母さんは気だるげにそれを受け取り、頑張って飲み干して、私に笑う。クマの目立つ目元で「ありがとうね」と笑うので、私も笑っておく。
 母さんの着替えを手伝い、洗濯機を回し、台所を片付ける。母さんが寝ているので掃除は箒で床を掃いたりするだけだけど、空気の入れ替えは大切だ、と玄関の扉を押し開ける。外はとても晴れていた。空は澄んでいて雲は遠かった。そんなことすら知らないで母はまた眠っている。
「…わたし」
 何してるんだろう、と呟いて、はっとして口に手をやる。
 何してるんだろう、って。母さんの世話をしてるんじゃないか。身体の弱いあの人の世話をしてるんじゃないか。ただでさえ身体が弱いのに父さんが母さんを放っておくから、母さん、気持ちまで弱ってるんだ。私が支えなくちゃ。そうでしょ。それって娘の役目じゃない。だから、頑張らなくちゃ。
 ふう、と息を吐いてその場にしゃがみ込む。箒を置いて、膝を抱える。
 でも、これは、私の生き方じゃない。私が誰かのために生きる生き方だ。これは私の人生じゃない。私は。もっと。ちゃんと。
「…おい」
「、」
 ぱっと顔を上げると、玄関先に誰かがいた。慌てて立ち上がる。うちに用事だろうか。
 改めて相手を見ると、その子は私と同じくらいの子だった。同年代、というやつだ。面倒くさそうに大雑把に黒髪を一つにくくっている。
 あ、知ってる。この辺で黒髪の子があまりいないから、学校でもなんだか無意味に目立っていた子だ。…留学生、とか何とか言ってたっけ、先生。でも話したこともないし、名前も分からない。
「えっと、何か用事?」
 繕って笑った私にその子が手提げを突き出してきた。ぱちぱち瞬く。「え? 何?」「宿題と授業で配られたプリント。机からあふれてたから持って行けとか言われた」いかにも不服そうに、機嫌悪そうにそう言われて、困ったなと笑う。どうやらこの子は先生に言われて仕方がなく私にプリント類を持ってきてくれたようだ。それは、悪いことをしてしまった。
 手提げを受け取って、開いたままの扉の向こうを指す。「お茶淹れるよ。寄っていって」せめてお礼をしようとしたところその子は嫌そうな顔をした。「なんで俺が」と言った辺りでその子が男の子であると気付く。きれいな顔をしているからどっちなんだろうって思ってたけど、そっか、男の子なんだ。
「えっと、いやならいいんだけど…これ。わざわざありがとう」
 手提げを揺らしてぺこっと頭を下げる。彼はふんと息を吐いて行ってしまった。
 今度学校へ行ったとき改めてお礼を言うことにして、箒を手に取り、掃除を再開させる。
 それが、私と神田ユウとのありきたりな出会い方だった。
 二日後、母が自分のことは自分でやれる状態まで回復したので、学校へ行った。きょろきょろ教室を見回して黒髪を探すと、すぐに見つかった。名前が分からないままだったので遠くから呼びかけることもできず、その子が座る席の前に行く。
「あの」
 声をかけると、彼は暇そうに見下ろしていた教科書から視線を上げた。声をかけたのが私だと分かると「お前か」とぼやいて、それでまた教科書へと視線を落としてしまう。
 多分こういう無愛想な子なんだろうと思いつつもちょっと傷つく。もう少し人に友好的になってもいいんではないだろうか。
「あの、この間はありがとう」
「別に。頼まれただけだし」
「うん。でも、また頼まれちゃうかもしれないし」
 私がそう言うと彼は顰め面で見上げてきた。「なんだよそれ」と訝しげな声にあははと笑う。誤魔化して笑う。そうしないと現実がただ重たいものにしか感じられなかったから。
「私のお母さん、身体の弱い人なんだ。この間も臥せってたの。だから学校行けなくて……。多分、これからもそういうことあるだろうから。だから、それで迷惑かけちゃったら、ごめんね」
 ぺこりと頭を下げる。彼は黙っていたけど、やがてふぅんとこぼした。その声に偏見の類がなかったので私は少しほっとした。
 自分の席に戻って、教科書を取り出す。ついていけてない教科のプリントの復習をする。歯抜けで出席する私には友達のような子も少なく、私は一人、始業のチャイムが鳴るまでプリントを解き続けた。
 そして、半月後、十月始めにまた母が倒れた。この間は頭痛で、今度は高熱だった。
 当たり前に私は学校を休む。
「お母さん? 何か食べたいものある? 買ってくるよ」
「そうね……」
 思案げな母がタルトのケーキが食べたいと言ったので、私はさっそく財布を手に外へ出た。
 父さんは家にいないけど毎月仕送りだけはしてくる。母が倒れてからは仕送りの額が増えた。だからお金のことは気にせず、私は母のリクエストを叶えることにする。
 ケーキ屋さんに行ってフルーツタルトとイチゴのショートケーキを購入、ケーキの箱を大事に抱えて帰宅すると、玄関先に黒髪の人が見えた。目を細める。あれは多分…あの子だ。ああ、名前を聞き忘れてた。
「こんにちわ」
 声をかけると、彼がじろりとこっちを睨んだ。「母親の世話なんじゃないのかよ」とケーキの箱を顎でしゃくってみせる彼に私は苦笑いをこぼす。「母さんのリクエストだよ。ケーキ食べたいって言うから買ってきたの。一口でも食べてくれるならそれでいいんだ」どうせ残してしまうだろうケーキのことを思い浮かべ、しまったなぁ、一つにすべきだったかなと今更なことを考える。
 彼は気に入らないという顔で口を閉じた。「ん」と突き出されるプリントを受け取る。少なかった。首を傾げて「これだけ?」と訊くと彼は浅く頷いた。ふむ、今回は溜まらないうちに持ってきてくれたのかな。
「じゃあ、私お母さんにケーキ食べさせてくるから。ごめんね、今日はお茶淹れてあげられないや」
 困ったなと眉尻を下げた私にふんとそっぽを向いた彼は「俺は甘いもんなんて大嫌いだ」と言ってずんずん歩いて行ってしまった。
 そうか。甘いもの好きじゃないのか。男の子だもんな。そっか。
 納得しつつ、お母さんに紅茶とケーキを持っていき、一緒に食べた。一つは食べきれず半分ほど残った母のタルトケーキと、自分にと買ってきたショートケーキ、両方頑張って食べた。おかげで夕飯はいらないくらいお腹いっぱいになった。
 彼は、甘いものが嫌いらしい。こんなにおいしいのに。
 じゃあ今度来てくれたときに何を出そうか。なんて、またプリントを持ってきてくれるとも限らないのに、そんなことを考えつつ、今日持ってきてくれたプリントを解いた。
 それから学校へ行けたのは三日後。
 だんだんと授業についていけなくなってきた自分を感じつつも、仕方がない、と諦める。
 私は他の子より勉強に割ける時間が少ない。その分家事炊事が得意になったけれど、それがいいことなのかもよく分からない。
 授業を終えての昼休み、一人でぼちぼち作ってきたお弁当をつつく。
 眠いな。昨日遅くまで母さんの体調を気遣っていたせいだろうか。あまり眠れていないのかもしれない。
 午後の授業をうつらうつらして過ごし、夢なのか現実なのか分からない場所で意識が彷徨う。
 遠くの方にお父さんがいて、お母さんが必死に走っている。母さんを追いかけるように私が走っている。最初は私がついてくることを確認していた母さんも、だんだんと父さんしか見なくなり、父さんは、私達がいくら走っても追いつけない遠いところに後ろ姿だけを見せていた。
 ついに転んだ私はあっという間に母さんを見失い、父さんを見失った。
 呆然とその場に座り込む。
 あんなに一生懸命走ったのにはぐれてしまった。母さんは行ってしまった。父さんだけを追いかけて。後ろに私がいることを知っていたのに。
 …涙がこみ上げてきて頬を伝う。
 なんだか急に悲しくなって、そして、空しくなった。
 母が父へ人生を捧げたのは母の意思だ。でも、私は私の意思で母に人生を捧げているわけではない。私だって他の子達のように勉強したり遊んだりしたかった。だけど環境がそれを許さなかった。病弱な母という存在がそれを許さなかった。
 だから仕方がないって諦めて尽くしてきたのに、そんな私なのに、どうして置いていかれないといけないのだろう?
 悪いことなんて何もしてない。とてもいい子だったのに。
 他所から見ればなんてできたお嬢さんなのと褒められる私なのに。
「おい」
 それなのに。
「おい。
 …呼ばれた。誰かに。
 ぱち、と目を覚ましてのろりと顔を上げると、ぼやけた視界の中に黒い髪が見えた。それから何度か瞬くと、呆れたような顔も見えた。「もう終わったぞ。つかお前、何泣いてんだよ」言われて頬に手をやる。濡れていた。夢現だっただけに、あの夢が、私の胸に食い込んでいるようだ。
 いつの間にか教室のざわめきはなくなっていて、もう授業は終わっていて、あとは家に帰るだけだった。
 家に帰る。イコール、母の世話をする。それが私の図式。
「…………」
 ごち、と木目の机に額をぶつける。
 …帰りたくないなぁなんて。思ってしまった。
「そういえば…」
「あ?」
「私の名前、知ってるんだね。私は、あなたのこと知らない」
「…カンダユウ」
「カンダ? 言いにくい。ユウって呼ぶね」
「勝手にしろ」
 のそりと顔を上げる。遅い手つきで帰り支度を始める私をユウが見ている。寝こけていた私を起こしたらさっさと帰ってしまうのかと思いきや、待ってくれている。どうやら一緒に帰ってくれるらしい。そう分かって少し気持ちが回復する。誰かとの下校なんて久しぶりだ。
 ポケットに手を突っ込んで仏頂面のユウの隣を歩く。
 別に、会話がなくたって、誰かが隣にいてくれる帰り道は一人の帰り道よりずっと心地いい。だから私はこれでもいい。十分だ。
「…なんで泣いてたんだよ」
 ぼそっとした声はガラガラガラと大きな音を立てて通り過ぎていった馬車の車輪の音で掻き消された。「え? 何?」と顔を寄せる私に彼はなんでか距離を取る。投げやりに「だから、なんで、泣いてたんだよッ」と大きな声で訊いてくる。ガラガラガラと遠ざかっていく馬車の音を聞きつつ、困ったな、と笑う。
 なんで泣いてたか。それをユウに話したところで、何か変わるだろうか。きっと何も変わらない。ユウには分かってもらえない。なら、話すこともないよね。
 …ああ、でも。ユウが私を気にしてくれて、そう言ってくれたなら。泣いていた理由くらい、分かるように話そうか。
 すうっと息を吸い込んで空を見上げる。夕暮れ。オレンジ色。その中を黒い色をした鳥が飛んでいく。
「私のお母さんが病弱だって話、は分かるよね」
「だからお前がしょっちゅう休んで面倒看てんだろ」
「うん」
 そこまでは色んな子が知っている話だと思う。ただ、ここから先は、先生とか、そういう人しか知らない話だと思う。
「私のおとーさんはね、家にいないの。毎月お金だけ仕送りしてきて、家にはいないの。顔も一度も見たことない。…一回だけね、小さいときに、お父さんはって訊いたことがあるの。そうしたらお母さん泣いたの。……そういうことみたいなの」
 彼は何か言おうとした口を閉じた。唇を引き結んで黙っていたかと思うと、「それがさっき泣いてたのと関係あんのか」とぼやく声に、笑う。笑って「さっき夢を見てたんだけどね。お母さん、私を置いて、お父さんを追いかけていっちゃって。私、置いていかれちゃって」言ってて思い出して、なんだかまた泣けてきた。家路を辿る足が止まる。「わたし、おいて、いかれちゃってね」とこぼす声が震えてくる。
「お、おかーさんのせわとか、がんばったのにね。おかーさんは、わたしよりずっと、おとーさんが、だいじみたいで。わたし、おいて、いかれちゃった…ッ!」
 じわじわと涙がこみ上げて頬を伝った。げ、と隣で顔を顰めた彼が「おい、泣くなよ」と周囲を気にするようにきょろきょろする。私はあのときの母さんみたいに笑おうとするんだけど失敗した。余計に悲しくなった。悲しいと思ったことを笑い飛ばすのは、どうやらすごく難しいことみたいだ。
 そう思うと、悲しそうだけどいつも笑っていた母は、すごいんだなぁ、と思った。 
「ちょっと来い」
 ぐっと手首を掴まれて引っぱられる。人目を気にしたユウがお店とお店の隙間の狭い路地へと私を押し込んだ。ぐすぐすと泣く私に呆れたように息を吐いてがしがしと髪をかくと、その拍子に髪ゴムが外れてしまったらしく、ぱらぱらと黒い髪が彼の肩を滑っていく。それに一つ舌打ちしてから彼は仕方なさそうに私を見た。
「あのな、俺は詳しい事情なんて知らんが、それは夢だ。現実じゃない」
 当たり前の指摘に頷く。涙は止まらない。
 そう、あれは夢だ。ユウに言われなくてもそんなことは分かっていたから、心に大して響かなくて、涙は止まらない。
 ぐすぐすと泣き続ける私はついに座り込む。私を追いかけてユウも膝をつく。何か言いかけては口を閉じ、開いて、でもやっぱりやめて、みたいなことを何度か繰り返して、彼は突然私の肩を掴んだ。びっくりした私が顔を上げると、彼のきれいな顔は案外と近くにあった。その彼が言う。「もしお前の親がそんな馬鹿なことを本当にしたときは、俺がお前のこと拾ってやるよ」と言われて、ぱちぱちと瞬く。「だからもう泣くな」とハンカチを押しつけられて、こく、と頷いた。

 …嬉しかった。
 慰めでもそんなことを言ってくれたユウのことが好ましいと思った。面倒くさいけど仕方がないってふうにしながら、それでも優しくしてくれるユウのことを好ましいと思った。
 もしも私が母さんに置いていかれるような現実が待っていたとしても、ユウが、いてくれるかもしれない。そう思ったら少し安心して、元気が出た。
 夢の中では誰もいなくて泣くことしかできなかったけど、現実でユウはそう言ってくれた。…嬉しかった。

「ありがとうね」
 私が左、彼が右に曲がる角で一度立ち止まってお礼を言ったところ、彼は例の仏頂面でそっぽを向いた。私はそんな彼に苦笑いする。
 涙で濡らしてしまったハンカチは今度洗って返すことにしよう。
 さあ、そろそろ帰らないと、母さんが待ってる。
「また明日ね、ユウ」
「…ああ」
 ひらりと一つ手を振られた。ぱたぱた手を振って返す。そうして、私達はそれぞれ家路についた。