「ここ、好きか」
 ぼそりとした声にそう訊かれて、畑に水遣りしていた手を止める。顔を向けるとユウがいて、長い黒髪が風に揺れていた。
 今日も仕事を終えてまっすぐここに来てくれた。ラビがいるんだから私は別に大丈夫なのに、心配だからと隣町からここに通ってくれている。そのことがありがたいようで、くすぐったく、嬉しい反面、申し訳なくなる。その分おいしい夕ご飯を食べてもらえるようにと努力はしているけど、ユウはしっかり食事代分を置いていくし、交通費のいくらにもなることもできていない。
 本当に、彼がどうしてここまで来てくれるのか、ここまでしてくれるのか、私は不思議でならない。
「えっと…好きだよ? ケーキ屋さんとかないけど。近くに遊びに行ける場所もないから、少し退屈だけどね。でも、ラビもいるし」
 最後の言葉に彼の片眉が跳ねた。「お前」「うん?」サアアアとシャワーで畑に水を撒くのを再開する。
 ユウは気に入らないって顔で腕組みして、沈んでいく陽を睨みつけている。日に日に短くなっていく夕陽は、もう丘の向こうに消えようとしていた。「…いや」言いかけたくせに言葉を濁した彼に首を傾げる。
「ユウは、どうしてわざわざここに来てくれるの?」
 疑問だったことをぶつけると、彼は眉を顰めた。「言ったろ。お前が心配だからだ」「私、大丈夫だよ。家事も炊事もできるもの。お金の心配もいらないし」「…そういうことじゃない」若干苛々した声が私の言葉を遮る。
 そういうことじゃない、って、じゃあ何なんだろう。ユウは私の何が心配で隣町からここへ通ってきているのだろう。
「お前、不安じゃないのか」
「え? 何が? ここでの生活ならもう慣れたよ?」
「そうじゃない。血が繋がってようがラビは男だ。お前は女だ。俺が言いたいのはそういうことだ」
 苛々したように革靴の先で地面を叩くユウ。私は彼の言葉に何度か瞬きして、視線を外した。
 …それは、私だって考えた。
 でも、父が私をここへ連れてきた。ラビのことを異母キョウダイだと紹介して、私をこの田舎へと押し込んだ。私に拒否権なんてないし、ラビと私は似ていなかったけど、ラビは父の特徴をよく引き継いでいた。だから彼と私はキョウダイ。兄妹か、姉弟かは分からないけど、血が繋がっている家族だ。私が彼を信じなければ彼も私を信じることはできないだろう。私達はそれぞれ特殊な環境の下で育っている。私が心を開かなくては、ラビだって心を開いてくれない。
 これから長く一緒にいるだろう人だ。家族だ。私の義兄か、義弟だ。私は彼を信頼したい。だから、そういったことは考えず、彼を信じることにした。
 …はっきり言うと、私はユウ以外に知っている男の人というのが少ない。八百屋のおじさんとかケーキ屋さん店長とか、そのくらい。私の中では異性のイメージがあまり明確ではない。だから、ユウよりずっと喋ってずっと笑うラビのことが新鮮でもあり、不思議でもあり、だからこそ、理解したいとも思っている。
「ユウは、ラビが、信じられないんだね」
 手元でシャワーの放水を切り替えて遠く細くに水を遣る私。ユウは隣でむすっとしていた。「当たり前だ」とぼやかれる声は機嫌が悪い。どうしてそんなに機嫌が悪いんだろう、と私は逆に笑ってしまう。
 どうしてそこまで心配してくれるの? 親身になってくれるの? 嬉しいけど、昔からあなたの優しさが不思議で仕方がなかったんだよ、私。
 遠くに水を遣っていると、シャワーの勢いが弱くなって、やがて水が出なくなった。振り返るとラビが元栓を捻って水を止めたようで、遠くから手でメガホンを作って「もーいいだろ、陽が暮れる。帰ろーぜ」と大きく手を振っていた。私はその手に手を振り返す。「はーい」と返事をして、手元のホースをくるくると巻きながら道を戻る。ユウは私の横を黙って歩いている。
「大丈夫だよ、ユウ。私達もう18だもの。大人だよ。だから大丈夫」
 そうやって私が笑うと、ユウは逆に顔を顰めた。鋭い眼光が私を睨んでいる。そこに夕陽のオレンジが射して、余計に眩しい。
「…根拠がないな、それ。お前は母親の看病ばかりしてて思春期ってヤツを知らないようなもんだ。あいつがどうかは知らないが、特異な環境下にあったお前らが健全に大人の階段を上ってるとは俺は思えない」
 いつになく饒舌なユウに眉尻を下げる。
 なんだか、責められているようだ。少し胸が痛い。
 そういえば、母さんが入院してからは、私のことを叱るのも、心配するのも、褒めるのも、抱き締めるのも、全部ユウだった。
「ユウは私が信じられない?」
 悲しくなってそうこぼすと、彼は足を止めた。さっきまで私を睨んでいた視線を明後日の方向に逃がして、ち、と舌打ちする。「信じてるよ」と吐き捨てるように言って私の手からホースを奪い、コートが汚れるのに土のついたホースをくるくる巻きながら早足で遠ざかっていく。
 その背中を見つめて足を止める。
 ユウは私を心配してくれている。あらゆる面で。昔からそうだった。私はそれを知ってる。分かってる。
 私もあなたを信じてる。きっと見つけてくれるって思ってた。あなたは私を捜しにこんなところまで来てくれた。嬉しかった。嬉しかったよ。
 だから私、ラビのことも信じてみたいの。父みたいな人が異性の代表だなんて思いたくないから。ユウみたいに、不器用だけどいい人だってちゃんといるって、もっといるって、父がよくないだけなんだって、そう思いたいの。
 女を不幸にするのが男だなんて思いたくないの。
 母さんの最後の言葉。男なんてみんな最低よって言葉に、そんなことないよって、そう返したいだけなの。
(私は、それだけなんだよ。ユウ)
 梟の声と風の音しかしないような静かな夜。ユウがいつもの時間に帰って、お風呂をすませて、一日の中で一番のんびりとできる時間になった。
 ベッドの上で昨日の続きを読もうとラビから借りた農業関係の本を開いて一ページを読み進め、気持ちが入らないことに気付いて、息を吐く。
 気がかりなことがあると私はこうだ。母の体調が大きく崩れたりしたとき、そのことばかり考えてしまって、ろくに他のことが手につかなかった。
 それなら、今の私の気がかりはなんだろうか。
(……私のこと、信じてくれてるのかな)
 夕方、私のことが信じられないのかと訊いたら、吐き捨てるように信じてるよと言って歩いて行った彼を思い浮かべる。
 母が死んでからここに来て、ユウが私を見つけてくれるまで、一ヶ月と少し離れていただけだったように思う。それまでは週に少なくても二日、多ければ四日五日と会う時間が続いていた。たったの一ヶ月と少し離れていただけだ。それなのに、再会してからのユウは、なんだかどこか遠い。それは彼が仕事をして立派な社会の一員になったせいなのか、それとも、ラビのことを必要以上に注視する、その姿勢のせいなのか。
 ふう、と息を吐いてベッドを下りる。本を置いてランプを消し、カーディガンを羽織って部屋を出た。
 こういう気分のときは眺めているだけでいいテレビを見よう。その方がきっと気持ちが解れる。
 リビングに行って、テーブルに置いてあるリモコンを取ってテレビをつける。適当にチャンネルを回してニュース番組にした。携帯なんて便利なものを持っていない私は、最近の情報はテレビでしか得られないのだ。ここはネットというのもできないようだし。ユウは、ノートパソコンなんて持って最近のことにも詳しそうだけど。
 駄目だな。ユウ以外を考えないと、気分も変えられないぞ、私。
 テレビに意識を傾ける。ソファに常備してあるブランケットを羽織り、膝を抱える。テレビの中ではロンドンで話題のケーキ屋さんを紹介していた。…いいなぁ。おいしそう。ケーキ食べたい。今度何か簡単なものに挑戦してみようか。ケーキ屋さんがないなら自前で作るしかないのだし。
 ケーキ特集が終わると番組は時事に切り替わって、私ではさっぱり分からないことを生真面目な顔をしたキャスターが取り上げていく。しばらく聞いてみたけれど、やっぱり分からなかった。自分が世間に疎いということは知っているつもりだったけど、何日かニュースを見ていないと今の時代の流れについていけない。
 世界は常に動いている。私はここで止まっているのに。
 まるで、世界から置いていかれたよう。
「…………」
 抱えた膝に額を埋める。
 知ってたよ。分かってたよ。私は、ユウが心配するくらいには世間に疎いって。色んなことに疎いって。だから気をつけているつもりだったけど、思えば、10歳で出会ってからこれまで、ユウは私のことを心配して、色々してくれた。彼は、私を守ってくれていたのかもしれない。ううん、きっと守ってくれていたんだろう。色んなものから。私を不安にさせないように、泣かないように、色んなことをしてくれていたんだ。きっと。
 だって私。ユウといると本当に安心したの。ユウがいるなら大丈夫って思えたの。
 彼は私によく言った。『何があっても俺がいる。大丈夫だ』って頼もしい言葉を何度もくれた。本当に、何度もくれた。
 ああ、私、子供だ。彼の言う通り。18歳なんて年齢だけだ。私はきっとその年齢に相応しい色んなことを知らないまま育ってしまった。そんな私が大人なわけがない。子供だ。限りなく、子供。
?」
 呼ばれて、ぱっと顔を上げる。ユウよりも高めの声。リビングの入口に立っていたのはラビだった。右の目に眼帯をしている彼がカーディガンのポケットに手を突っ込んで歩いてくる。心配そうにそばにしゃがんで「どした?」と声をかけてくれる。
 私は何を言えばいいのか分からなくて、曖昧に笑った。
 私と同じように、父親がいない家庭で、片親だけの特殊な環境で育った彼は、子供なのだろうか。
「ラビ」
「うん?」
「あの…ね」
 何をどう言おう。やっぱり、上手くまとまらない。もごもごする私にラビは笑ってソファに腰かけた。
 私達の間には人一人分の距離がある。詰めようと思えば詰められるけれど、埋めようと思わなければ埋まらない距離が。
「何、ユウになんか言われたの?」
「…どうかなぁ。んー」
 何か言われた。うん、何かを言われたのは確かだけど、ユウは結局何が言いたかったのか、そこのところが分からないままで終わってしまったから。私も上手く言えない。ユウは何が言いたかったのだろう。
 ニュースが終わって、テレビの中はCMが流れていた。携帯の宣伝だ。きっと私達には一生縁がないもの。
 それが終わったら新しいお菓子の宣伝、車の宣伝、スペシャル番組の宣伝などなど。
 私がぼんやりしている間、ラビは黙って隣にいた。同じようにぼんやりテレビを眺めているようだった。
「ごめん。上手く言えないみたい」
 ぽつりとこぼすと、彼は笑った。「いーよ無理せんで。言いたいこと言いたいときに言ってくれれば。オレはいつでも聞くからさ」と優しい言葉をくれるラビにこくんと頷く。それから、気遣われてばかりだと気付いて苦笑した。
 私、ユウにもラビにもお世話かけてばっかりだ。おかしいな。母さんの世話を看ることに慣れてたから、きっとこれからも誰かの世話を焼く側だと思ってたのに。

 母さんが死んだ。私の日常からぽっかりと欠けて消えた。
 母さんがいなければ、私は私の人生を送れていたんじゃないか、と何度か思ったことがある。母さんの世話ばかりしているから誰かと遊べないし、勉強だってちゃんとできない。私は自分らしく生きれてない、って。けれどなんてことない。母さんがいたっていなくたって、私はこうして縛られた生しか送れない。あの人の子供である限り私はきっとずっとこう。
 ユウは変わらずに私のそばにいることを選んでくれた。いなくなった私のことを捜してくれた。嬉しかった。
 父に連れられてやってきた田舎には私のキョウダイがいた。片目がなくても明るく笑って色んなことによく気がつくラビもよくしてくれる。土いじり初心者の私に手取り足取り農業を教えてくれている。彼は優しい。ううん、彼も優しい。ユウと同じだ。
 田舎に来て、不便なことも多いけれど、新鮮なことも多々ある。
 私は以前とは違う新しい日常を送っている。異母キョウダイというラビを加えて、代わりに母を失って、私の日々はゆるりゆるりと過ぎ去っていく。
 …そこにはゆっくり流れる時間がある。あたたかくしてくれる人達がいる。
 私はきっと贅沢な日々を送っているのだろう。
 でも、そこが空っぽだということに気付いてくれるのは、一体何人だろう。

?」
 呼ばれて顔を向けると、ラビがぎょっと驚いた顔をした。「え、どした? ユウがそんなひどいこと言ったんか?」と慌てるラビにきょとんとした私は、頬が冷たいことに気付いた。指で触れると濡れた。どうやら自分が泣いているらしいと気付いて、あはは、と空笑いする。
 ユウは悪くないと思う。ただ、彼の態度や言葉がきっかけであったとは思うから、100パーセント悪くないとは言えない。
「えっと、大丈夫…なんか、ごめんね。でも、たぶん、大丈夫」
 カーディガンの袖を目元に押しつける。大丈夫と言ったくせに肩が震えてきた。私は弱いな、とつくづく思う。何があっても俺がいるとと言ってくれるユウに甘えすぎていたのだろう、きっと。これじゃあ駄目だ。もっと強く立たなくちゃ。もう母さんはいない。私は、一人で立たなければ。
 一人で。
 肩を震わせる私のすぐそばで、ぎ、とソファが軋んだ。ぼやけた視界で瞬きをする。一人だ、と思った私の肩に腕を回して抱き寄せたのはラビだった。
 …そう、私はここに、一人ではないのだ。
「ユウがひどいこと言ったってんなら、オレが今度殴っとく」
 ラビの声は静かだったけれど、怒っているみたいにも聞こえた。私は緩く頭を振ってラビの言葉を否定した。少なくとも、ユウはひどいことなんて言っていないのだから。
「ふあん、が、いっぱいでね」
「…たとえば?」
「わ、わたしの。わたし、たちの。みらいとか」
「うん」
「このままずっと、いなかで、なにからもはなされたまま、おわっていくのかな、とか」
「うん」
「……ごめん」
 ラビの肩に顎を乗っける。まとまらなくて思いつくままの私の言葉にもラビは耳を傾けてくれた。そして、「オレもいるじゃんか。ここにいるよ。こんなに近くにいる」と言葉をくれる。
「オレ達はキョウダイだろ。これからはずっと、生きてくのも一緒だし、朽ちてくのも一緒だ。絶対に一人じゃない。…一人になんかさせないからだいじょーぶ」
 ぽんぽんと背中を叩かれる。「それにほら、ユウもいるしさ」と付け足されて、ふふ、と笑う。
 なんて心強いんだろう。
 ほら、母さん。男の人は父さんみたいな人ばかりじゃないよ。ユウやラビみたいな人だっているよ。ね、母さん。
「ラビ…」
「ん?」
「ありがとう」
 ありがとうと言った私に、ラビは黙ったあとにふうと息を吐き、ぽんぽんとあやすように私の背中を叩いた。「じゃ、もう寝ようぜ。明日も晴れっぽいし、また畑行かないとだ」「うん」「…一人でだいじょぶだよな?」神妙にそう確認した声に小さく笑う。ホラー番組を見たあと怖くて眠れなくて、眠るまでそばにいてくれなんてわがままを言ったときを思い出したのだろう。あのときは随分なわがままを言ってしまった。「うん。大丈夫」と頷く。すっかりラビの方がお兄さんだ。不甲斐ない妹で申し訳ない。
 寝室へと分かれる前に、「あ、ラビ」と彼を呼び止めた。「うん?」部屋に入りかけたラビが顔を覗かせる。
「ラビ、何月生まれ?」
「8月だったかな。夏だよ」
「あれ…私、春なの。……じゃあ、私の方がお姉さんなんだね」
 意外な事実が発覚して、子供っぽい姉で申し訳ないと思った私にラビは目を丸くしていた。「の方がねーさん…」なぜか愕然としていたので、そんなに驚いたのかと私もびっくりした。やがて彼は自分を取り戻すとふらふらっと部屋に入っていてドアを閉める。
 そんなラビの様子に、そんなに驚くところだったかなぁ、と私は首を傾げた。