はっきり言ってそれが心臓に悪い言葉であったことは、説明するまでもない。
 彼女の言葉に他意や悪意がないことは知ってる。もう付き合ってきて七年も経たつのだからそれくらいは分かってる。彼女の言葉は純粋だ。だからこそそれが容赦ない刃物となって時折心を抉ることがある。
「リーバー班長とか科学班のみんなは大変だよ。たまにコムイさんがおかしな発明品作って披露するし」
「…そうか」
「それにコムイさんの部屋のある実験室のフロアっていつも変な音がするし」
「そこは近付くなっつったろ」
「リナリーにも言われたけどさ、だって気になるじゃない。でも変な音聞いてからはなるべくスルーしてるんだよ」
「…はぁ」
「あー何今の溜息! ぶー、ユウのいじわる」
「……で? あとは」
「あと? あとねー、ラビにデコチューされたりとか」
「…………………」
「あ、そこで黙るの? いつもの行ってきますだよユウ」
 ひらひら手を振る彼女がどこまで馬鹿ウサギのことを理解してるのかは不明として。その一点だけは気に入らない。いつもいつも。かと言って同じようなことが俺にできるかと言われれば否。そんな自分想像しただけでも気持ちが悪い。
 彼女が首を傾げてそれからくしとくしゃみした。ぶるりと震えて勝手に人の布団をごそごそ持ち上げて「あーさぶくなってきた」と言ってばさと俺の方にまで布団を被せる。「おぃ」とぼやいても彼女が聞く気はなし。おまけにとんと肩に彼女の頭がぶつかる感じが分かって身体が固まる。
 二人きりじゃない。分かってる。竜の方は彼女の腕に抱かれて油断なく会話を聞いているしおかしなことになったらこいつは黙っちゃいないだろう。だからこそ俺だってそのことに安堵して彼女をここに置いて任務に出て行けるのだ。彼女を守る奴がいると分かっているからこそ。
「うー寒い。ユウ寒くないの?」
「別にこれくらい…」
「くしっ」
 彼女が続けてくしゃみをする。だからしょうがなく息をついてこつとその頭に頭をぶつけた。
 一人が常なんだから二人いればあたたかいに決まってる。それでも寒いって言うんならお前がここに慣れてるだけ。外はもっと寒い。
 常に終わらない緊張感を滲ませながらの任務。疲れないはずがない。常に警戒心を抱きながらの任務。疲れないはずがない。
 ただここでは、少しくらいはそれが和らぐ。今の俺にはそれで十分だった。

 もう彼女と出会って七年になる。正直こんなに長い付き合いになるとは思っていなかった。ドラゴンという珍しい生き物が寄生型のイノセンスを宿し、それを連れる彼女は装備型の剣を持つ。単純計算で二人分の戦力。けれどセットでないと発揮されないというその力のせいで自然と急務やアクマの一掃などの任務を任される彼女が辛くないはずはないと分かってる。だけど俺にしてやれることは何もない。
 俺が彼女にしてやれることはそんなにない。

「…は」
「うん?」
「今俺といて、何か得はあるのか」
「得…かは分かんないけど。一緒にいるのは嬉しいよ。あったかいし」
「…そうか」
 損得で動く奴じゃないと分かっていながらそう訊いた自分が我ながら馬鹿だと思った。思ってから目を閉じる。左手の中指にある指輪はもうもらってどれくらいになるだろう。まだ壊れていない。刀を握る手だからこそ指につけるようなものはすぐ壊れるんじゃないかとも思ったが、そうでもなかった。
 帰り道、いつも指にあるそれを眺めて一人で安堵する。これから帰る。俺はまた生き延びた。そうしたらまた彼女に会えるだろうと。
 口が裂けても言えないことは山ほどある。それで言葉にできることはほんの表層部分だけ。
 一人と二人がどれだけ違うかということを、彼女は分かっているんだろうか。
「あのね、私の感」
「…なんだよ」
「ユウはまた任務が入ると思うの。リーバーさんが慌ててたから」
「…そうか」
「うん。そう」
 彼女が黙る。俺も黙った。あたたかいのは隣に人がいるから。竜の方は今日は黙っている。最も布団に隠れてその姿が見えないだけで、いつもみたいに気に入らないって顔でこっちを睨んでる可能性も大だが。
 彼女の声が、いつもより弱い。
「でもね、リナリーが帰ってくるって喜びもしてたんだ。だから明日くらいにはきっとリナリー帰ってくるね」
「そうか」
「…ユウが無口」
「……何喋ればいいのか分かんねぇんだよ」
 こんな状況になったことは今までに数えるほど。ぼやけた俺の腕に彼女がぼすと拳をぶつけて「ユウのくせに」「何がだよ」「ユウのくせに、」そこで彼女の声が掠れる。顔を上げれば布団を引き上げてぐしと鼻をすする彼女がそこにいる。
「おぃ」
「久しぶりに掃除したの。元帥のお部屋の掃除。まだ分別してなかった空き瓶を分けたり、洗ったり、コップ磨いたりしてたの」
「…お前まだそんなこと」
「テーブルも戸棚も全部拭いて、蜘蛛の巣だって取って窓開けて換気して、ベッドの埃だってばたばたして払って」
「もういい」
「掃除、して。してるのに。毎月一回は絶対してるのに。あの人帰ってこない」
 彼女の弱い声が引きつる。俺はきつく唇を噛み締めた。
 俺が彼女のためにできることは? 泣いてる奴のためにしてやれることなんて知らない。帰ってくるかも分からない、生きてるかも分からない奴のことで泣く奴にどう接したらいいのかなんて分からない。
 俺は、どうしてやればいいのか分からない。
「…泣くなよ」
 だから月並みの言葉しか言えない。そうすると彼女が笑う。顔を上げた彼女は笑いながら泣く。泣きながら笑う。それがどれだけ俺の心に突き刺さるのか、こいつは知らない。
「ユウの前くらいでしか泣けない」
「…ラビの奴は」
「言ったよ。ユウの前くらいでしか、泣けない」
 ぐいと袖で目を擦る彼女。腕が勝手に動く。こんなことしたって苦しいのは俺なんだと分かっていながら、だけど彼女が望んでることは多分これだからと俺は腕を伸ばして彼女を抱き締める。畜生と唇を噛み締めるのはもうどうしようもないことだ。
「分かったから泣け」
 そうすると彼女が泣くと分かってる。俺に縋るようにして泣くと分かってる。彼女にとって俺が何かは定かじゃない。ただラビの野郎よりは上でリナリーとはまた違った位置になってるってことぐらいしか。
 声を上げて泣き始めた彼女の特別は昔からずっと一人だ。いけ好かないあの元帥一人。
(…畜生)
「……おい竜」
『ミスティーという名があるのだが』
「連れてけよ。寝た」
『分かっている』
 しばらくして泣く声は止んだ。それから彼女のすやすやした寝息が聞こえてきて、無駄に固まっていた自分が馬鹿だと思った。思ってからどうすんだよこれと思って竜の方に話を振ってみたところ、ごそごそと布団の間から出てきた。暗闇の中で金の瞳が光って見える。
『手伝え。私はドアが開けられない』
「…なら俺が連れてった方が早いってことじゃねぇか」
 ぼやいて、仕方なく彼女を抱き上げた。すやすや眠る彼女。軽い、と思って視線を落とす。女っていうのはこれくらい軽いのか。
「行くぞ竜」
『ミスティーだ』
「うるせぇ」
 かつんこつんと夜闇に沈んだ廊下を歩きながら彼女の部屋を思い浮かべた。鍵、はかかってないはずだからそのまま行けるだろう。
 ぱたぱたと飛ぶ竜の羽音と暗い廊下を歩く俺の靴音だけが響く静かな空間。
「……なんで止めなかった」
『何の事だ』
「部屋の掃除だ」
『…どうやって止めろと言うんだお前は。がどんな思いでいるか我々に理解できるとでも?』
 その言葉に舌打ちして口を閉じる。どうにも俺はこの竜と相性が悪い。もともと俺と相性がいい奴なんていやしなかったが、それでもマリやデイシャとは相性は悪くない。彼女とも。だけどこの竜は俺と彼女で態度を変える。
(いや、確かラビの前でもそうだったか。口を利くだけまだ俺の方がマシってことか?)
「泣かせたくはねぇだろうが」
『…それはそうだが』
 ぱたぱたと隣を飛ぶ赤い鱗と金の瞳を持つ竜。彼女とずっと共にいる竜。俺よりもずっと彼女に詳しいだろうし頼られているはずだ。そのこいつが止めないのならそれだけ彼女はあのろくでなしを。
 そう思ったら胸やけがした。腕の中にいる彼女は眠っている。
『…私には人の心がよく分からない』
 静かに落ちた声。それに顔を上げて眉根を寄せた。竜の方は視線を前にやったまま『私にはだけで十分だが、は私だけでは十分ではない。人は多くを望む』と言われて口を噤んだ。
 種族の違い。そういえば普段は喋らないし記号的な意味で竜と捉えがちだが、こいつはペットじゃない。生きてる。そしてこうして思考し喋り彼女のことを思っているから話すことだってできる。
 種族が違うと、考えてることが違うってことか。めんどくさい話だ。
『どうしてやれば彼女にとっての最善なのか、私には分からない』
「……それは俺も言える。こいつのために何をしたらいいのか俺だって分からねぇ」
『同じ人だろう? 何かないのか』
「俺がこいつと同じに見えるか? 俺の方が異例だ」
『…だがブックマンジュニアは当てにならぬ』
「……それはな」
 視線を外してラビを思い浮かべた。一見当たり障りなく誰とでも打ち解けてみせるだけの奴に見えるが、違う。あいつはブックマン後継者というものを背負っている。エクソシストになったのも記録するためだとか何とか。ならあいつを頼るのは筋違いだ。あいつはあいつの都合でここにいるだけ。そんな奴を頼るべきじゃない。
(なら、残るのは誰だ)
 リナリーはコムイがいる。あの兄妹は断ち切れないだろう。たとえ仲間という絆と彼女で結ばれていようが、最終的にあいつが取るのが誰かは知れてる。
「…嫌な期待寄せるなよ。俺は応えられない」
『期待はしていない。だが可能性は見ている』
「見るなよんなもん。俺は」
 俺は仕事でここにいるだけ。アクマを斬るだけ。俺はそのために造られたのだから。
 誰かに優しくするなんてしたことがないから分からない。戸惑いばかりがある。今この腕にある体温に戸惑いばかりがある。
 どうしてやればいいのか。そんなこと俺だって何回だって考えた。だけど結局分からなくなる。それが答え。七年も一緒にいて、それで答えが出ないのなら。それは俺には出せない答えなんだ。
(…俺だって考えちゃいるんだ。けど分からない)
 それが。いつも堂々巡りして辿り着く答え。情けないと思いはするけれど。
 がちゃんと彼女の部屋の扉を開ける。吐き出す息が白く濁る。
 いつかには煙草の微かなにおいのしたこの部屋も、もう彼女の育てる花の香りしかしない。
 彼女のベッドは少しアンティークがかったもので、部屋の隅にはソファがあり、棚には紅茶の瓶が並んでいる。
 相変わらず外に出ることもないから物があまり増えない部屋だ。女の部屋って言ったら何となくもう少し飾り気があるように思うのに、彼女がしていることは俺と同じ花を育てること。それだけ。何かを集めたり何かを飾ったりということはしない。特別必要ないってことだろうが。
 ぎし、とベッドに彼女を下ろして寝かせた。布団を引き寄せその身体に被せる。それから息を吐いて暖房機のスイッチを入れていこうかと思ったところでくいと袖を引かれる感触。
 まさか起こして。そう思ったが違った。
「…泣くなっていうのに」
 するりと目尻を流れた涙を指で拭う。
 俺のことを誰かと勘違いしてるのか。それとも夢だけでも幸せなのか。彼女の寝顔からはいずれのどれも想像できた。
 カーディガンの袖が伸びる。だから手を伸ばしてカーディガンを握ってるその手を取ってベッドに戻したときだった。彼女の唇が微かに動いたのは。
「ゆ、ぅ」
「、」
 彼女の唇からこぼれた自分の名前。それに身体が固まる。離そうと思っていた手が離せなくなる。
 その手が俺の手を握るから。なら彼女の夢に俺は、いるのか?
 ぱたぱたと羽音がして視線を彼女の寝顔から引き剥がす。枕元に下り立った竜が『可能性は見ていると言ったろう』と言い金の瞳で俺を見やった。すぐに言い返す言葉が見つからず唇を噛み締める。
 だけどこれは。生殺しだ。
「…何も。してやれねぇよ。俺は」
 そう言葉を搾り出し、彼女の手を剥がす。そうして立ち上がってつかつかと部屋のドアまで行って、気付いてかちと暖房機のボタンを押した。「あとは頼む」と言い置いてがちゃとドアを開ける。
 彼女に掴まれた手が熱い。
『神田ユウ』
「、」
『私はのためになる事をしたいのだ』
 振り返れば、金の両目がこっちを見ている。
 だから俺は強く唇を噛む。

 俺に。どうしろって言うんだ。これ以上。これでも精一杯なのに俺にどうしろと。
 俺はラビのようには振る舞えない。そんな自分想像しただけで気持ち悪い。そんなの俺じゃないだろう。
 じゃあ俺らしく、どうすれば彼女のためになれる? これ以上どうすれば。
 俺は一体、どうしたらいい。