ほぅ、と梟らしい鳥の鳴き声を聞く。ばさばさと羽音もして、多分木の枝から空へ飛び立っていったんだろう。そう思いながら顔を上げずにただ木の幹に背中を預けて小さく丸くなって、夜、誰もいない外の森で、俺は一人でいた。誰にも会いたくなかったから外に出た。部屋に入ればせめて寒くはないけど、誰かが来ると嫌だから。
 強く固く閉じた瞼。黒いだけの景色。何もない景色。そんな中なのに華が見えることがある。
(くそ)
 たとえばアクマと戦う。たとえば鍛錬をする。いずれかで自分を追い込む。そうすれば見る余裕なんてなくなって、俺の視界にはただのつまらない現実しか映らなくなる。
 それでいい。それがいい。
 イノセンスの適合者になんてならなければ大人しく、今頃死ねてたんだろうか。『破棄』という形であの寒い場所に戻れたのか、それとも跡形もなくなってたか。いずれにせよ別れ道は、一体どこからだったろう。
 俺はイノセンス適合者としてこの先も生きていかなくては。エクソシストとしてこの先も生きていかなくては。
 瞼の裏に。それでも華が見える。
(くそ)
 ざわと風が吹いて髪を揺らした。今は解いてる髪がばらばらと風にもっていかれるのを感じる。寒い。
 寒い。
 そのときじゃりとブーツの音がして、弾かれて顔を上げた。ぱっと一瞬何かが散ったように見えたのはきっと気のせいだ。

「、お前」
「あれ…ユウ、だ」

 どこかふらふらした足取りで本部までの坂道を上がってきたのは、つい最近ここに来たばかりのとかいう奴だった。団服を着てるところを見るに任務帰りなのかもしれない。そういえばうるさいのがいないなと頭のどこかで引っかかりを憶えてたのに、忘れてた。うるさいのがいないってことはイコールこいつに任務が入って本部を出ていると、そういうことなのに。
 とんと幹から背を離して「任務だったのか」と訊けばあははと空笑いに似たものが返ってきて「うん、ミスティーと二人で」という声。眉根を寄せてつかつか歩いていけば、ふらふらした感じの彼女がざくと地面を踏み締める。その両腕に抱えるようにしてるのは赤い竜で、どうやらどっちも疲労困憊状態らしい。
 ざく、と地面を踏み締める彼女。そこに見えていた華を、彼女が散らした。目を見開く。それは今までになかったことだったから。
 華が、散った。
「ユウ、お願いが」
「あ? んだよ」
「ミスティーを、食堂まで。ご飯を…」
 ふらふらしてる彼女ががつと小石にブーツの先を引っかけてどったんと派手に転んだ。それでも竜の方だけは死守して肩から地面にぶつかった光景に眉根を寄せる。阿呆かこいつ。そんな受身取ったら痛いに決まってる。
 事実彼女は痛そうな顔をしていた。それでも「ゆう」と俺のことを呼ぶもんだから、舌打ちしてしょうがなく竜の方に手を伸ばしてひょいと取り上げた。こういう場合は食堂よりも普通は医療フロアに行くもんだ。こんなに血が、
 血?
「…おい」
「ん、」
「これは竜の血じゃないな。お前のだろ」
 竜に触れた手にべっとりとついた血の赤黒い色。何もおかしいことなんてないのにあははと笑ってみせる彼女が「さすが、ゆうだ。最後の最後にちょっと油断しちゃって、近づきすぎちゃった…最後の、攻撃、くらったの」途絶え途絶えにそう言った彼女がはぁと息を吐き出してごろんと寝転がり空を仰いだ。はだけた団服の向こうには、切り裂かれた服と傷跡。まだ流れている血の色。
 舌打ちして竜を無理矢理ぼすんと服の中に押し込んだ。寝転がって「空がきれいだぁ」とかぬかす馬鹿の腕を取って「阿呆、なんて怪我して放置してやがる。今すぐ医務室直行だ」「あー、もう歩けないよ…ごめんゆう」「引きずってでも連れてく」だから彼女の片腕を首に回して立ち上がる。もう体力が残ってないんだろう彼女は引きずるようにしか歩き出せない。これじゃ医務室までどれくらいかかる。急がないと出血が多い。ただの人間じゃこれは危ない。
「おい、歩け。
「…、」
 ずる、と彼女の足から力が抜ける。体重をかけられてがくんと視界がぶれる。さっきまで固まってた身体は言うことを利かず彼女を支えきれずにがんと地面に膝をつく破目になった。いてぇ。
 何を、してるんだよ俺。
(医務室に今すぐ。誰かいないのかよ、畜生)
 子供の体躯だった。だから同じくらいの彼女を抱き上げることができない。せめてもう少し俺がでかければ彼女を抱き上げて医務室まで走ってくことだってできるのに。できるのに、
「おー、なんだ。ボロボロになって帰ってきたな」
 降ってきた声。それに顔を上げる。そこにいたのはあのいけ好かない元帥で、ふーと煙草の煙を吐き出してこんなときにも悠長な面をしてやがる。色々と言いたいことが胸の内に巣食っているのに何も言えない。いけ好かない元帥でもそいつは元帥で、大人で、俺より何もかもできるだろう。実際軽いものを扱うように俺の手から彼女を抱き上げてみせた。「俺が運ぼう。お前はドラゴンを連れて来い」と言われて服の中に突っ込んだままだった竜の方を取り出した。辛そうな顔だ、多分。竜の顔なんて普段を知らないから何とも言えないけど。
 レントゲン検査を受けて彼女と竜を医務室まで運んだ。彼女はすぐに処置室に入った。ぽーんと治療中の光が灯り、寝台に寝かされた彼女はすでに扉の向こう。
 妙に落ち着かなかった。竜の方はいくつか薬を打たれただけでもう小さなベッドで眠っている。
 嫌なシチュエーションだ。よりによっていけ好かない元帥と一緒に処置室の前にいるなんざ。
「寝ないのか? 子供はとっくに寝る時間だぞ」
「…別に。眠くないですから」
 言葉に棘が含まれる。しょうがない。別に今更隠そうとも思わない。ふーと煙草の煙を吐き出した元帥は特に心配してるって顔はしず、ただそれでもその場は動かず、処置室の治療中の灯りを見つめていた。
 しょうがないから、本当にしょうがないからと割り切ってぼすと廊下に備え付けのソファに座り込む。ソファは一つ。左の端に元帥、俺は右の端に陣取った。
 こんな気持ちじゃどうせ寝れない。だからせめて彼女がちゃんと処置室から出てきて、ちゃんとその寝顔を確認してから寝よう。そう思った。
 一分、二分、三分。数えたのはそこまで。あとはもう数えるのはやめた。
 治療には一体どれくらい時間がかかるんだろう。そうやって治療中の赤い光を睨みつけているうちにまた華が見えた。だから気のせいだ幻だと自分に言い聞かせる。俺は今彼女が出てくるのを待ってるんだ、自分にそう言い聞かせる。
(見えない。見えない。見えない)
 強く固く閉じた瞼。その裏にも華が見える。ああくそと一人歯噛みする。
 だけど瞼の裏で、その華を軽い足音と共に誰かが散らした。ぽーんと軽い音。水の上に広がる波紋のように、瞼の裏で自然に氷解するように華がなくなる。なくなっていく。

 ユウ

 聞こえたのは、彼女の声。
 ぱちと目を開ける。治療中の灯りが消える。ソファから飛び降りてドアに駆け寄った。開けられたドアと寝台に寝かされた彼女。顔が見えないと寝台をよじ登って「いけません、まだ絶対安静なんですよ」「うるせぇ」看護婦の声を振り切ってどうにか寝台の上の彼女を見つめる。寝顔は苦しそうなものじゃなかった。なんだ、よかった。
 よかった。そう思ったら途端に力が抜けた。ぺたんと床に座り込んで、自分で思ってるよりもずっと脱力して安心している自分に気がつく。
 ユウユウユウと、呼ぶなって言ってる名前を連呼して。俺についてきては色んなことを勝手に喋って勝手に訊いてきて、ほんとに迷惑だ。迷惑だよ。だけど。
(…ほっとけないだろ。こんな、どうしようもない、馬鹿)
 こつとブーツの音がして、元帥の方が「具合いはどんなもんだ」と訊いた。医師の方がカルテっぽいものをめくりながら「ウイルスの感染等は確認されていませんので、安静に過ごして治療を続けていけば二週間とかからないでしょう」と返す。怪我の状態の大まかな説明をさせていただきますと、とか続ける声をぼんやり聞きながら、寝台からだらりと落ちた彼女の手に手を伸ばして少し握り締めた。
 人の体温がした。当たり前に。生きている感じがした。当たり前に。
 こつとその手を額に当てて、よかった、と漏らす自分の声を聞く。
 次の日には彼女はけろっとした顔で白いベッドの上でぶんぶん俺に手を振って「ユウー!」と朝から元気がよかった。その傍らにはいつも通り竜がいて、クッションの上で丸くなっている。
 彼女のベッドに歩み寄って「傷はどうなんだよ」と訊けば、あははと笑った彼女が「全治二週間、要安静だって。しばらくは出歩けないなぁ」と残念そうに言う。問題はそこじゃないだろと思いつつしょうがないからぼすと彼女の手に握ってたものを押しつけた。不思議そうに瞬きした彼女が「なぁにこれ」と包みを見て首を傾げる。そっぽを向きながら「紅茶。好きだったろ」ぼそぼそそう言えばぱっと彼女の顔が輝く。「うわほんと? ありがとうユウ」と笑う。
 だから俺はしょうがなく壁に立てかけてある折りたたみのパイプ椅子を引きずってきて、ベッドのそばに展開して座り込んだ。
 俺にまだ任務の伝達はない。なら、彼女の暇潰しの相手に話ぐらいはできるだろう。そう思った。

 視界の端に映っていた華。だけど彼女の笑顔で、その華も解けるようにして消えていった。