「うぬぁ、まだ痛い…」
 うぐぐぐと階段の端っこでお腹を押さえて身体をくの字に折る。けほと咳き込めば喉から血の味がしたような気がした。それでもけほと咳き込む。苦しい。
 ちょっとだけ、ほんのちょっとだけでいいから外に。婦長さんや看護婦さんがいなくなった隙をついてベッドから抜け出してみたものの、まだ全然身体が痛かった。私が油断して最後の最後にアクマの攻撃を受けてぼろぼろになって帰ってきてもう丸三日。ベッドの上だけの生活に飽き飽きしてた私は言いつけを破って病室を出た。

 ほんとなら要安静で二週間だ。お腹から肋骨辺りまでをこっぴどくやられた。骨のいくつかにヒビが入って団服は破れるわ血がどばどば出るわで、ちょっと死ぬかと思った。だけど意地でも死んでやるもんかと思ったから這いずってでも帰ってきた。
 ミスティーが本部の見えたところで体力に限界がきて飛べなくなって、大丈夫もうすぐそこだから、だから私歩いていけるから。ミスティー抱っこして行くから。そうやって疲労困憊状態のミスティーを腕に抱えてふらふらふらふらしながらどうにか辿り着いた本部の前で、私は倒れた。たまたまだろうけどユウがいて、そしたらなんだか安心してしまった。顔見知りを見たせいだろうか。だからなんだか安心して、意識が遠くなってしまった。
 ぼんやりしてる視界で、ユウがいつになく小さくてまるで泣いてるみたいに見えたのは、私の気のせいかな。

(い、たい)
 せめて階段じゃなくてエレベータを使えばよかった。そう思うくらいお腹がずきずきしている。包帯でぐるぐる巻きにされてるはずなのにぽたと音がして、閉じていた目を開けて視線を落とせば、赤い色。痛いからと押さえていたお腹からそっと腕を離せば、赤い色。
 おかしいな。階段は地味に全身運動だって思ってたけど、こんなに、響くものなのか。身体に。
?」
「、」
 呼ばれて振り返る。階段の上の踊り場の方で息を切らせてるのはユウで、「てめ病室にいないと思ったらこんなとこで何をっ」と早口に怒った顔して言ってくるから。だから私はあははと笑って「ごめ、あの、ちょっとだけ散歩でもって」思って。語尾の声が掠れてどんと壁に肩をぶつけてげほと咳き込む。ああ痛い。
 段飛ばしで階段を下りてきたユウが階段に落ちてる血に気付いて舌打ちする。私は笑う。あー、婦長さんや看護婦さんより先にユウに見つかってしまった。まいったな。
「戻れ。手当て受けるぞ」
「う、待って…もうちょっと、もうちょっとだけ」
「痛いんだろうが。大人しく寝てればいいんだよお前は」
「そう、なんだけど。でも」
「戻れ!」
 いつになく強い声で言われた。強い声で言われたからびっくりしてぱちくりと瞬きする。
 強い声で言われたのに、ユウが怒っているというよりも、なんだか泣いているように見える。
「ユウ?」
 伸ばした手で触れようと思ったのに、げほと咳き込んで喉をせり上がる血の感じにぱしと口を押さえる。口の中が血生臭い。きもち、わるい。
 ユウが私を支えて何か言ってるのが視界の端っこに映る。だけど意識がもうぼんやりしすぎていて、聞こえなかった。そうして私はすぐに気を失った。
「…、」
 次に目を覚ましたとき、私はまた病室のベッドの上だった。
 何度か瞬きしてから『目が覚めたか』という声にもう一つ瞬きする。ひょこと私を覗き込んだのはミスティーで、ぺちと小さい手で私の頬を叩いて『ベッドを抜け出したそうだな。私がいない間に無茶をしたろう』と言われて口元だけで笑う。声に出して笑える元気がなかった。小さく「ごめんね」と言えばミスティーは黙った。黙って金色の瞳で私を見つめて、仕方ないって感じに吐息して視線を隣にやる。だから私は枕の上で首を傾げて、それから腹筋は使えないから腕をついてよいしょと起き上がってみる。
 暗い病室の中で、パイプ椅子にもたれて座ってるのはユウだった。病室にかかってる時計の針がコチと音を立てて動いて、午前二時を示す。彼は眠ってるようだった。毛布も被らないで、そんな寒い。
 寒いだろうからとベッドの端にある余分の掛け布団に手を伸ばして、ぴきと怪我の方に響くのが分かって声を押し殺した。いったい。
「…、ミスティ。あれ、ゆうに、かけてあげて」
「ぎぅ」
 ばさと小さな翼を広げたミスティー。むぐと掛け布団をくわえて爪の先を器用に巨大化、上手に破らないように布団を広げてばさりとユウにかけてくれた。ほっとしながら「ありがとう」と言ってどさとベッドに倒れ込む。
 まだ全身に上手く力が入らない。無理をしたせい、かな。
 暗い天井を見つめながら「ミスティー」と呼ぶ。「ぎゃう」と控えめな返事が返ってくる。ぼんやりと天井を見つめながら「ごめんね。元帥に、会いたくてね」と漏らす。
 こんなところで二週間も寝てたら身体は当然なまるし体力だって落ちるし、それに何より元帥が、またどこか任務にでも行ってしまうんじゃないかと思って。
 少し前までなら私も元帥の弟子ってことで一緒の任務につけたけど、単純計算で私とミスティーは二人分の戦力のエクソシストだ。すぐにでもさせたい仕事があったんだろう。私はそんなに長く元帥と一緒の任務につけなかった。私はまだまだ半人前どころか四分の一人前くらいのエクソシストなのに、まだまだ見習いでいたいのに、いたかったのに。だけど教団側はすぐに私と元帥と引き離した。半年も、なかったかもしれない。あの人と一緒の任務につけたのは。
 一緒にいたかった。もっと色々教えてほしかったしもっと色々話をしたかった。アクマの話でもいいしお酒の話でもいいし煙草の話でもいい。元帥とできる話なら何でもいいし何でも聞きたい。
 私はクロス元帥の弟子だ。弟子って言えるほど何かできるわけじゃないし、銃を使うわけじゃないし剣なんだけど。でも、あの人の弟子だ。あの人の。
「…………」
 声が出ない。嗄れている。クロス元帥、と呟いた声は声にならなかった。薬か何かを打たれているのかもしれない。妙に眠い。妙に身体が重たい。許可なくベッドを抜け出した私をきっと婦長さんは怒ってる。元帥は心配してくれただろうか。こんな怪我して帰ってきた私を、それとも笑うのかな。馬鹿をやったなって。
 ユウは。こんな私を怒るかな。それとも。
(でも、さっきは。なんだか、泣きそうだった。ように、みえた…)
「なんだチビ、また来たのか」
「チビじゃなくて神田です。来て悪いですか」
「誰もそんなこと言ってないだろう。いちいち言葉に棘を含めるな、めんどくさい」
「誰のせいです」
 会話。声が聞こえて意識が醒めた。薄く瞼を開けて一つ瞬けば、病室の天井が見える。それから点滴の透明な袋がぶら下がってるのも。
 何度か瞬きしてから会話を思い出してはっとして「げんす」と言いかけてむせ込んだ。ごほごほと咳をしたらまたお腹が苦しくなって胸が痛くなって、渇いている喉がひりひりと痛い。痛い。
 そんな私の背中に回った手。大きくて手袋越しの体温。知ってる煙草のにおいと、赤い髪。唇に当たった水差しの感触と「ほれ」という慣れた声に、痛い痛いと涙で滲んでいる視界でそれでもごくんと水を飲んだ。冷たい。喉に沁みる感じがする。それでも喉を通って胃に落ちる感じが分かった。ああ何にも入ってないんだな私のお腹は、と思う。
 水差しが離れて、クロス元帥が仕方なさそうに私を支えつつ「お前なぁ、要安静の二週間を通達された奴が入院三日目で外に出るか? 普通」と溜息交じりに言うものだから、ううと口ごもって「あの、すいません」と謝る。もう片手でぐりぐりと私の頭を撫でつける手袋越しの掌の感触。「安静は安静だ。もう抜け出すなんてことはしずに大人しく寝てるんだな」降ってくる言葉に小さくなって「はい」と答える。
 元帥がそこにいることが嬉しいのに、ベッドを抜け出してまで会いに行こうなんて考えたことはやっぱりいけなかったのだ。それを反省。それからもう一人の声の主、ユウを探して顔を上げる。ユウは前に見たのと同じでパイプ椅子に座ってたけど、なんだかよく分からない顔をしていた。あれ、なんだろうその顔。ユウが変な顔。
「おいチビ」
「、神田です」
「それはもういい。適当にその辺の枕よこせ、クッションにする」
 私の背中を支えたままの腕。それを外すためだろう。ユウが釈然としない顔でそれでも立ち上がって他の誰もいないベッドの枕をがしと掴んでぽいぽいと放る。元帥がそれをキャッチして私の背中側に押し込んだ。それに埋もれるようにして体重を預ける私。
 無理なくそのままでいられた。ずっと寝てる視線で天井しか見えないのは退屈だし不便だけど、これなら話もできる。
 だけど元帥は私から離れるとひらりと一つ手を振って「じゃあな」と言うから「え、あの元帥っ」と慌てて声を上げた。元帥がめんどくさそうにがしがし髪に手をやって「任務が入ってる。その前に、お前がもう勝手に出て行かんようオレの口から言い聞かせておけと婦長に怖い顔で言われてな」肩を竦めてみせる元帥と、婦長さんのこわーい顔が思い浮かんであははと空笑いする。
 お、怒られそうだ。っていうかきっと怒られる。まだ婦長さんの顔見てないけど、多分絶対怒られる。抜け出した私が悪いんだけど。
 元帥の肩にちょんと乗ってるティムがばいばいするように尻尾を振った。だから私もばいばいと手を振る。元帥には「気をつけて行ってきてくださいね」と声をかける。元帥はまた肩を竦めてばたんと病室を出て行った。かつんこつんと廊下を行くブーツの音が響いて、しばらくして聞こえなくなる。
(元帥、行っちゃった)
 ほぅと息を吐いて身体の力を抜いて背中の枕に預ける。それから気付いてユウを見た。ぱちと目が合う。あ、いつもの不機嫌そうな顔。
「えっと、ユウもごめんね。いっぱい迷惑かけちゃって」
「…別に」
「…あの、反省してるよ? ごめんね」
「…………」
 ぷいとそっぽを向いたユウに困ったなと眉尻を下げる。あんまり反省してるように見えないんだろうか。元帥を困らせたくないし、ユウを困らせたくないし、ミスティーを困らせたくもないから、私はもう怪我が治るまで大人しくしてようって思ったんだけど。もうどれだけ退屈でもここでじっと怪我よ治れーって念じてようと思ったんだけど。思うだけじゃだめ、かな。
 ちかと視界に射した光が眩しくて目を瞑る。光の射した方を辿れば窓で、もう夕方で、夕陽が射し込んでいた。眩しい。

「おかしいね」
「あ? 何が」
「ユウは、怪我してもへっちゃらな顔でいつもいるのにね。私、全然痛いみたい。ユウみたいにできないや」
「…それが普通なんだよ。俺みたいになろうなんて思うな」
「でも、私、強く。ならなくちゃ。ユウみたいに」
「俺みたいになんて言うな」

 いつかにも聞いた強い声。眩しい斜陽から視線を外してユウを見れば、がたんとパイプ椅子を蹴飛ばして立ち上がったところで。がしと襟首を掴まれてぐいと引き寄せられる。ちょっとお腹が痛い痛いと思って瞑った片目、吐息が触れるぐらい近い距離にあるユウの顔。
「お前はお前だ、俺みたいになんて言うな。お前はだ」
「…? うん」
 よく分からなかったけど、ユウは怒ってるみたいだった。だからパジャマの襟首を掴んだままのユウの手に触れて「ごめんね」と謝る。ユウはまだ何か言いたそうだったけど、結局唇を噛み締めて襟首から手を離した。ぼすとクッションに埋もれながらユウの手を握り締めて「こんな怪我して、無理もして、ごめんねユウ」「…もういい」ぎしとベッドに腰かけた彼。私の手を握り返しながら「もういいから、寝ろよ」と言う。だから私はようやく笑う。「うん、寝るね」と。
 その頃になってぱたぱた羽音がして、器用にドアを開けたミスティーが病室に入ってきた。金の瞳が少し部屋を彷徨ってから『クロス元帥はどうした』「任務だって、さっき行っちゃった」『…そうか』それでぱたぱた私のところに飛んできたミスティーが枕元に下り立つ。ちらりと視線が繋いでる手にいったけど、何も言わなかった。げぷと息を吐いたところを見るに、きっとまたたくさん食べてきたんだろう。ミスティーは丈夫だから、眠るよりもしっかり栄養を摂って休めば元気になる。ミスティーは順調に回復してそうだ。私も、見習わないと。
 目を閉じる。すぐに意識がうやむやになる。まだ薬が効いてるのか、それともただ身体が眠いと訴えてるのか。どちらにしても、眠らないと。
「ユウ」
「なんだよ」
「任務は?」
「俺はまだない」
「そ、か」
 ダメもとで「じゃあ私が眠っても、こうしててね」と緩く手を握り返す。少し間があってから握り返された。「分かった」と。だから私はふにゃーと笑う。なんだか変な笑い顔になった気がしたけどしょうがない、もう全然、力が残ってない。
 眠らないと。眠ってしっかり栄養も摂って、しっかり、怪我を治さないと。
(じゃあ、おやすみ。ね)