珍しく任務が入らない。そうすると極端にすることがなくなる。そうするとやっぱり彼女のいる病室に足が向いて、気付くと階段を上がってる自分がいる。
 ああ馬鹿みたいだ。そう思いながらそれでも、彼女が読みたいと言ってた本とそれ関連の本を脇に抱えて階段を上がった。そのうちこの間ベッドを抜け出した彼女が立ち止まっていた階段辺りにさしかかって歩みが止まる。
 入院しないとならないほどの怪我を負いながらそれでもベッドを抜け出し、行きたかった場所。
 簡単に想像がついた。彼女はいつも元帥元帥とあのろくでなしのことを呼んでうるさい。それでも楽しそうにその元帥のことを喋るし、純粋に慕ってるんだろう。そう思ったら胸がむかむかしてきたからだんと強く階段を踏み締めて最後は段飛ばしで駆け上がった。ふーと息を吐いて顔を上げる。さすがに図書室のある場所からここまで階段で上がるのは俺でも疲れた。
 かつかつと医療フロアの白っぽい廊下を歩く。彼女の病室までの道のりなら当の昔に憶えた。
 こつん、とドアの前に立って一つ息を吐く。それからかんとノックして「俺だ」と言えば「どうぞー」という声が返ってくる。スライド式の扉を開ければ、白いベッドで本を広げてる彼女の姿。俺に手を振って「あ、また本持ってきてくれたの?」「ああ。とりあえず片っ端からな」パイプ椅子の上にどさと持ってきた本を下ろす。彼女はどこかきらきらした目で『お庭に花壇を作ろう!』とか『初めての土いじり』とか、そんな題名が掲げてある本を手にして見つめてる。
 何かの冗談かと思った。彼女が花を育てたいと言ったときは。彼女は唯一俺の見る華を散らしてくれる人だったのに、その彼女が花を育てたいと言う。最初は声が出なかった。だけど彼女の言う花は花壇であって、俺の言う華じゃない。自分にそう言い聞かせるのに少しかかった。
 今は、もう落ち着いてる。彼女がいればやっぱり華は散る。彼女の声やしぐさ、色んなものが華を散らして、俺の意識には彼女がいる。

「ねぇ、ユウは土いじりしたことある?」
「ないな」
「そっかぁ。むつかしいかなぁ」
「…知るか」

 熱心に本を見つめてぱらぱらとページをめくる彼女。むつかしい入門書の類より雑誌系から入った方がいいかもしれないなとか考えてると、赤い竜と目が合った。金の瞳。なんだよなんか文句あるのかよと睨んでも何も返ってこなかった。ただ鬱陶しいくらい金の瞳がこっちを見てるから俺から視線を外す。なんだってんだ、あいつ。
 彼女が一人ぶつぶつ「スコップ? 部屋にないや…借りれるかな」とかぼやきながら庭に花壇をの本を見ている。何をそんなに熱心になれるのか、所詮花壇ごときで。俺はそんな彼女に感心しながら窓に視線をやる。
 少し空気が悪い。ここは彼女しかいないから、換気くらいしても大丈夫だろ。そう思って「空気が濁ってる、窓開けるぜ」「あ、ユウ」返事を聞く前につかつか窓まで歩いていってがたんと押し開けた。びゅおと寒い風が舞い込んでくる。
 途端にヴーなんて音が響いてびくっとした。まさか敵襲かと六幻の柄をがっと握るのとどたどたと大勢の足音にがらぴしゃーんと病室のドアが勢いよく開けられるのは同時。
 その向こうにいたのは看護婦の群れで、「ちゃん今度は何をっ」「抜け出そうなんていけませんよ、完治まで絶対安静です!」「婦長のこわーいお仕置きまた受けたいんですかっ?」「…ええと」彼女がそろりと俺を見てから窓の方を示して、「あの、ごめんなさい。窓を開けてもらったんです」と言う。それで看護婦の目がいっせいに俺を見るもんだからたじろぐ。なんだってんだ、窓一つ開けたくらいで。換気は必要だろどの部屋にだって。彼女は感染症の類は持ってないんだし窓開けたくらいでこんな、大げさな。
 なんだか知らないが看護婦達は納得したらしい。それからこっちに歩いてきた一人が「ごめんなさいね、婦長にきつく言われてるのよ。何か一つでも変化があったなら飛んでいきなさいってね」それでぱたんと窓が閉じられて鍵が閉められた。握ってた六幻の柄から手を離して舌打ちする。あの婦長、ほんと徹底してやがる。
 彼女が困った顔で看護婦の方に頭を下げたりしながら「すいません、これからは気をつけるので」そう言ったりして、その場はすぐ静かになった。看護婦の群れがいなくなってぴしゃりと扉が閉まれば、あとには俺と彼女が残るのみ。ああ、竜もいたか。
「…悪い。こんな厳重になってるとは思ってなかった」
「ううん、ユウに言ってなかった私も悪いよ。気にしないで」
 ぱっと笑った彼女。厳重という表現をした自分に唇を噛みながら軽く頭を振った。一瞬また華が。
「ユウ?」
「いや。何でもない。…それより」
 彼女がまだ見てる本の方に視線をやって、しょうがないからそばにいく。ぎしとベッドに腰かけて「いるならもう少し簡単なやつから持ってくるぜ。雑誌で写真が多いやつの方が入りやすいだろ」「あ、ほんと? これ全部文字だと思うとさすがにまいってたの」困ったように笑った彼女がぽんと本を叩く。それでも花壇をやりたいという希望は変わらないんだから、あれだ。馬鹿だなこいつは。…俺もだけど。
 まだ任務が入らなかった。珍しいことに。
 任務が入ったら入ったで面倒なことに変わりないからない方が楽なはずなのに、アクマを斬って斬って斬って壊して殺して、そうしてる方が頭は使わず悩む暇もないってことを俺は知っていた。そうしていれば余分な思考をする頭が残されず、俺は忙殺されるように時間をやりくりできるのだと知っていた。
 かつ、と今日も今日で階段を上がる。いつものように図書室からいりそうな本や雑誌を頂戴して、必要なものには貸し出し欄のとこに名前も残して。
 馬鹿げてる。頭の片隅でそう声がする。
 だけどそれでもこの足は毎日のように石の階段を踏み締めて、彼女が待ってるだろう病室に向かう。
 馬鹿げてる。彼女でも読み込んでいけそうな本を探すのに結局俺も付き合ってその本を読む破目になる。彼女が眉根を寄せたところの解説をしてやる。事前に読んだ知識をあげただけでも彼女はユウすごいねときらきらした瞳でこっちを見ていた。それが妙に頭に残ってる。
 馬鹿げてる。華を、花を育てようなんて。結局のところ彼女のそれに付き合うことに決めてる自分が馬鹿げてる。
(…しょうがないだろ。あいつ馬鹿なんだよ。ほんとに)
 かつ、と階段を上がりきって何度か深呼吸した。医療フロア独特の、少し医薬品の混じるにおい。好きじゃない。こんなの好きな奴がいたら相当物好きだけど。
 そういえば最近、本以外は何も持っていってない。お見舞いの品ってのは普通果物とかその辺だったかと考えながらかんとノックして「俺だ」といつものように声をかければ「はーい」と返事が返ってきた。がらりとドアを開けていつものようにどさとパイプ椅子に持ってきた本やらを下ろして「とりあえずこんなとこだろっての見繕ってきた。適当に読んどけ」「ありがとうユウ」彼女が笑うから俺は視線を逸らす。「持って帰るやつは。返しとく」「あ、えっとね」ベッドサイドのテーブルに積んである本を分け始めた彼女。視界の端にそれを収めながら、いつかに渡した紅茶のパックが手付かずで置かれているのに気付いた。
 確か彼女は紅茶が好きだと思ったが、記憶違いか?
「…紅茶」
「え?」
「好きな銘柄じゃなかったか。それ」
 顎でしゃくって示してみせた紅茶のパック。彼女が「ううん違うよ」と笑って、それから少し残念そうな顔をしながら「入院してる間は決まったものしか食べちゃだめなんだって。だから、これは退院してから飲もうと思って」「…そうか」やっぱり厳重だな。そう思って吐息してぎしとベッドに腰かける。赤い竜は今日は窓際で日向ぼっこをしていた。寝てるのかまどろんでるのか、いつもの鬱陶しいほどの視線はない。
(退院しないと、こいつは好きなものも食べれないってわけか。ほとほと厳重だなここは)
 適当に雑誌を手にとってぱらぱらとめくる。花の栽培方法について写真と解説つきで説明してるページを斜め読みしながら「なぁ」と声をかける。彼女は俺とは別の本に目を通しながら「んー?」と返事をする。ぱらりと一つページをめくって大地を耕すなら今はこれがおすすめ! とか宣伝の載ってる箇所を見ながら訊く。「なんで花壇なんてやろうと思ったんだよ」と。
 彼女がんーと視線を天井に向けて、「だってここさみしいでしょう? 外とか特に、森とかだけでしょ?」「まぁな」「それに、教団の中は大人の人ばっかりで。私には少し窮屈だし」苦笑いした彼女がぱたんと本を閉じて「だからね、息抜きだよ。花壇作ってお花の世話して、それくらいならできるかなって」「…そうか」だから吐息する。ぽーんと軽い音と一緒にまた一つ華が散った気がした。
 任務が入らない二週間っていうのは思ってるよりもずっと長いものだということが分かった。それがここ最近の話。
 彼女が病室から抜け出したあの日からようやく二週間が経過し、その怪我はあらかた治った。が、病室を抜け出す無茶をしたことが祟ってかプラス一週間入院することになった。ただし今度は出歩いてもいい。傷はもう治りかけてる。
 治りかけこそ気をつけろ。よくある言葉だ。だから俺は彼女の分まで彼女の怪我を気にしてる。
「おい、ほんとにやるのか? 花壇なんて」
「うん。色々たくさん考えたんだけど、やっぱり花壇がいいな、私」
 それで今、彼女が入院してる間に考えた花壇の話をしながらゆっくりと階段を下りている。珍しく陽光の射し込む昼間の世界が窓の外に見えた。彼女が嬉しそうな顔で窓に額を押しつけて「あったかいね」と笑う。俺は吐息してその光を睨みつけた。眩しい。普段照らないから余計にそう思える。
 隣では何がおかしいのか含み笑いする彼女が見えて、「なんだよ」とぼやけば彼女が笑う。「んーん、いつものユウだなぁと思って」「…なんだそれ」ぷいと視線を逸らして床を睨みつける。
 まるでどっかの誰かみたいにらしくないことをした。だけどしょうがない。俺が同じように入院してたらお前はうるさくやってきただろうなんてこと、考えなくたって分かることだ。それにお前がうるさくついてこないとこないで俺の調子が妙に狂う。お前が一人でただ病室で寝てるのかと思うと何事にも集中できなかった。だからしょうがない。らしくないことをしたがそれももう終わることだ。彼女の怪我はあらかた治ったし、俺もそろそろ任務が回ってくるだろう。むしろ二週間何もなかったことの方が奇跡的。
「ユウ、手伝ってくれなくてもいいんだよ? 私が一人でゆっくりやればできるだろうし」
「怪我を甘く見るな。せっかくあと一息なんだ、最後まで安静にしてろ」
「はーい」
 苦笑いした彼女が窓から離れる。カーディガンのフードにいつものようにおさまっている赤い竜と目が合った。金の瞳。猛禽類の目。だけど彼女のそばに寄り添う一つの体温。
 視線を外して彼女が階段を下りる斜め後ろをついていく。
 背中から射し込む光があたたかい。
「すっかり体力落ちちゃったと思うんだ。ちゃんと退院したらさ、ユウ相手してね。組み手とか剣とか」
「ああ」
 たん、たんと一段ずつ階段を下りていく。その間に言葉を交わす。「ユウが任務行っちゃったら一人でもがんばる。腹筋とか腕立てとか色々」「…怪我が完治してからな」釘を刺せば彼女が苦笑いする。分かってるの顔。だから息を吐いてポケットに手を突っ込む。
 ゆっくり流れていく時間はとても緩慢で、退屈で、時折また華がちらつく。それでも彼女といるとどこかに消えている。
 それでいい。
(…いいんだ)
 たん、と踊り場に踵をつける。順番に下りていって下まで行きたいと言い出したのは彼女だったが、半分くらいまできたところで「きゅうけーい」なんて参った声を出すからしょうがない奴と吐息。窓から射し込む光を背中に受けながら、座り込んで「案外疲れるね。っていうか私絶対体力落ちてる」とぼやく彼女に「そりゃそうだろ」とぼやき返す。
 緩慢な時間が嫌いで余分に思考できる時間が嫌いで、見たくないものが見えて考えたくないことを考えるのが嫌いで、だから暇がないようにしてきた自分の時間。
 それを、少しだけ修正しよう。
行くぞ。いつまでも座ってるな」
「えー、もうちょっと待ってよー」
「ここで時間食ってるとあっという間に夕方だ。作業すんなら昼間の方がいい」
「うー…」
 よいしょ、と立ち上がった彼女が「それもそうだ。あったかいうちにやっちゃいたいし」とこぼして、自分に気合いを入れる感じでおーと拳を上げて「よし行きます、下りまーす」と階段を下りるだけなのに妙にはりきる始末。はりきって階段を下りていく彼女に仕方ないと吐息して、あとをついて歩く俺。
 こんな俺もよっぽど、アホっぽい。
 その日の夕方、一緒に食堂で夕食をとってるときに任務の通達が入った。十分で来てくれの無茶振りに畜生がと舌打ちしながらチャーハンをかきこんで「悪いな、任務だ」「うん。行ってらっしゃい」彼女が笑って俺に手を振る。少しさみしそうな顔。それでも任務だ、仕方ない。
 皿の片付けも早々に食堂をあとにして自室に取って返して着替えてる間に華がちらついた。顔を上げればいつもの小さなテーブルにいつも通りにあの華がある。
「…、」
 何か言おうと思ったのに、結局何も言えなかった。コートを掴んでばさと羽織りながら部屋をあとにして、考えるのはこれからの任務のことと、それから時間が足りず今日中断になってしまった製作途中の花壇のこと。
 用意するものが足りなかった。俺と彼女が顔を突き合わせて本に載ってる花壇を作るにはを論じて、いるだろうと思ったものを用意したにも関わらず。俺がそれなりに下準備して場所の算段と煉瓦なんかの調達はしといたものの、それでも足りなかった。それに彼女の頭の中の計算と実際の煉瓦の数はだいぶ違うような気がしてそれもさっきから引っかかってる。大は小を兼ねる、余分に用意しとくに越したことはない。次はもう少しいるものについてまとめてから、雨が降らないうちに花壇を作り終えないと。
 ああ全く、なんで俺がこんなことを。
 なんで俺が。そう思いながら、それでも煉瓦の数や入手経路を考えてる俺はあれだ。馬鹿なんだろ、どっかの誰かみたいに。