ダグから連絡を受けた事件を解決してからそろそろ一週間になる。
 そろそろあいつも帰ってくる頃だろうと思いながら、いつものように鍛錬というか筋トレというかで体力を作る彼女を視界に入れつつ、オレは本を読んでいた。あんまりサボってるとジジイに大目玉を食らう。
 よくやるなぁと思いながら、三十分のジョギングを終えた彼女がはぁと息を吐いてミスティーからスポーツ飲料水の入ったペットボトルを受け取る姿を見るともなしに見ていた。ぱちと目が合うと笑いかけられる。首筋を伝って落ちた汗が眩しく映る。そうされると笑い返す以外オレはどうすればいいんだか。
 改めて視線を本に落とした。いつもの三分の一のスピードでしか読み進められない。やっぱここじゃ集中できないか。
「ちょっと、休憩」
 隣に座り込んだ彼女がスポーツ飲料を煽る。タオルでぱたぱた自分を仰いでる様子を横目にしながら「は頑張るなぁ」とこぼした。本気で感心してるよ、のそういう頑張るところ。困ったように笑った彼女が「やれることしてるだけだもん」と言う。いや、それでも努力を重ねるところはやっぱりすごいことだと思うぜオレは。
 ぱら、と本のページをめくりつつ「ユウちゃんのこと気になる?」と訊いてみた。一つ二つと瞬いた彼女が困った顔をする。気にならないなんて嘘だわな、そりゃ。
「どうしてそんなこと訊くの?」
「ジジイからの情報源なんだけど、元帥が一人殺られたらしい」
 気持ち声量を抑えてそう言うと、びっくりした顔の彼女の視線がいつも首からしてるロザリオに落ちた。クロス元帥とお揃いっていうやつだ。もしかしたら一人嫌な想像をしてるのかもしれない。…オレから説明した方がいいか。
「殺られたのはケビン・イエーガー元帥。十字架に裏向きに吊るされて、背中に神狩りって書いてあったらしい」
「神狩り…エクソシスト狩りってこと?」
「多分な」
 相槌を打ちつつぱらともう一つページをめくる。珍しくミスティーが言葉を挟んできて『それが神田と何の関係がある』と言うからぴっと指を一本立てた。
「元帥が所持してたイノセンスは、元帥自身のものを含めて9。全部持ってかれた。あとでコムイから説明あるだろうけど、敵はどうやらハートを狙ってるらしい。オレらエクソシストの重要なもんだし、敵にとってもそれは同じだ。もしもハートがあるなら元帥くらい強いヤツが持ってるんじゃないかって、やっこさんはそう考えて元帥を狙った」
「…じゃあ、今ユウがデイシャとマリとで行動してるのは」
「ユウんとこはティエドール元帥と合流しようとしてる。アクマの邪魔ばっかで捜索は難航してるっぽいけど」
 が青い顔をしていたから言葉を切る。「元帥が死んだ」と漏らす彼女に眉尻を下げた。オレはイエーガー元帥と面識ないし、そう思うこともないけど、はそうじゃないかもしれない。
 そこへゴーレムが一機飛んできた。ノイズのあとに『ラビ、ダグが地下水路で帰還したそうだ。一応連絡しておくよ』とコムイの声がして「ああ」と返してよいこらせと立ち上がった。微妙なこの場の空気を変えるべく彼女に手を差し伸べて「ほら、ダグが帰ったらしいし、ちょっと出迎えに行こうぜ。からかい含めて」にっと笑うと彼女が瞬きしてから少しおかしそうに笑ってから手を取ってくれた。うん、そうでなくちゃ。
 つーかオレも人のこと言えないよなぁ、正直にまっすぐなダグの方がまだ救いがあるってもんだ。
 彼女が羽織ったカーディガンの間からミスティーがじっとりこっちを見ている。それにへらっとした笑いしか返せないオレ。つーかそんなじっとり見るなよミスティー、視線が痛いです。
 断末魔の悲鳴が聞こえたのは、地下水路へ向かおうと階段を下りている最中だった。
 ががしゃと腰の剣に手をやる。オレも槌の柄に触れながら「どっちからだった? 今の」と階段の上と下へ交互に視線をやる。フードからすり抜けたミスティーが『こっちだ』と先陣切って飛んでいくから、彼女と並んで走ってあとを追いかける。
 廊下の角を曲がったところで赤い色に息を呑んだ。探索部隊が折り重なって倒れているのが見える。彼女が口元を押さえながら視線を走らせて「ここには、もういないね」とぼやくのに頷き返して死体に歩み寄った。殺気や敵意を感じない。ならもうこの辺りにはこれをやった犯人はいないってことだ。
 ぱしゃと血溜まりを踏みつけて倒れてる一人の首の脈に手をやる。息はもうない。
(この背中の穴が致命傷になったのか…人の仕業とは思えねぇな。でもここは教団本部だぞ? 部外者は門番の検査で弾かれるはずだし、アクマが入り込むことなんてできるはずがない)
「ラビ」
「ああ」
 他の団員が集り出している。手短な奴を指名して「コムイに知らせろ。オレらは犯人を追う」と言い残し、こっちだとばかりに羽ばたいて角を一つ曲がるミスティーを彼女と一緒に追いかける。血まみれの足跡が一つ、奥に続いてる。
 待て。確かこっちは。
「、人」
 角を曲がった先に、団員が一人倒れていた。同じく血まみれ、背中に穴が開いている。が膝をついて「しっかりしてくださいっ」と声をかけると団員の目がうっすら開いた。顔はもう土気色、出血もひどい。助からないと分かっていながら膝をついて団員の目線に合わせ「今すぐ医療班を呼ぶからな」と言うと、団員の唇が震えて「ダグ」と言葉を紡いだ。心臓が一つ鳴る。やっぱり記憶違いじゃない。こっちはダグの部屋がある方だ。
「ダグ? あいつがどうかしたのか?」
「ダグが…あっちに……」
 団員はそれきり瞼を落とし、うなだれ、息をしなくなった。彼女が隣で唇を噛んで胸の前で十字を切る。次に瞼を押し上げれば彼女はもう表情を引き締めていた。それに頷いて、二人でまた走り出す。
 さっきの奴はダグって言った。あいつが同じような怪我をして瀕死常態になってるのが頭を過ぎる。冗談じゃねぇ、死ぬなよダグ!
 頭を過ぎった最悪の予想。それも、ダグの部屋に飛び込んだら消えてなくなった。
 あいつはいた。開け放たれたままのバルコニーに、白い団服を着て、見覚えのある黒い髪で。
「ダグ?」
 上がった呼吸でほっとして息を吐く。なんだ生きてた、よかった。見たところ外傷もなさそうだし、あいつは無事だったんだな。よかった。
 ほっとしたところだった。だけど、こっちを振り返ったダグを見て、その目を見て、そのほっとした心が消えて失せた。
 人形のようなガラスの瞳をしたダグがそこに立っている。オレの後ろではほっと息を吐いた彼女がいた。「よかった、無事みたい」と漏らした彼女とは正反対にぐううと唸ったのはミスティーで、オレは小さく笑った。ああミスティー、その通りさ。その通り。
「ラビ! 助かった、変な奴に襲われて命からがら逃げてきたんだ! どうしようかと思ったよ」
 返事ができなかった。オレの代わりに前に出ようとした彼女を腕で制す。怪訝な顔を彼女とダグの二人に向けられて、「どうしたのラビ」と小さな彼女の声に片目を向ける。

 、お前はダグにあんまり会ったことないだろうし、分からないかもしれない。でもオレには分かるんだよ。誰よりも人の目で心を見ていたあいつのことが。

「ダグ、お前言ったよな。目の光で、人のことが分かるって」
「ああ、そうだね。そんなことも言ったかもしれない」
「それ、ようやくオレも分かったさ」
 ばっと槌を抜き放って空中で回転したそれをぱしと手にする。「満満満」と唱えれば槌が巨大化した。彼女がオレから離れて部屋の外に下がってしゃっと剣を抜く。ミスティーが口から炎を燻ぶらせている。
 どん、と振り下ろした槌の一撃をダグは俊敏な動きで避けてみせた。
 確信する。信じたくなかったけど、これが現実だった。
 槌を肩に担げるサイズにしてバルコニーに飛び出す。猫のように着地したダグは、虚ろな機械の目をしていた。
 信じたくなかった。でもこれが現実だ。
、ジジイを呼んできてくれ」
「え? でもラビ」
「オレがやる。頼む」
 彼女を見れなかった。今自分がどんな顔をしてるのかが分からない。自信がない。醜い顔をしてないだろうか。それとも人間味が出すぎてないだろうか。ジジイの名を出したのはブックマン後継者としての自分を忘れないためだったけど、心が揺れていた。
 目の前のダグがアクマなら、あいつは死んだってことだ。
(…馬鹿野郎)
 槌を振るう。迷った数瞬の時間を置いて駆け出す彼女の足音。ミスティーだけ残った。それはよかった。どおんと壁に叩きつけた槌はまた避けられた。
 分析しろ。頭を働かせろ。こいつはどうやってここに入り込んだのか?
「…水門か。下には門番がいないもんな。ダグ、お前がみんなを殺したんだな」
 返答はなかった。いやな笑みを浮かべたまま黙っているダグの横に飛んできたゴーレムが代わりに喋った。『ちっ』と舌打ちする声に眉を顰めて槌を構える。ゴーレムかと思ったけど違うな。顔の形が髑髏だ。あんな趣味の悪いゴーレムは教団にはない。
『少しずつ団員を殺して黒の教団を全滅させる予定だったんだけど。思ったより早く見つかったなー』
「なんさお前は」
『オレは伯爵様の使いだよ、エクソシスト!』
 ぐわっと口を大きくして襲いかかってきた蝙蝠に強く床を蹴って跳ぶ。追撃しようとした蝙蝠を横からどんと吹き飛ばした一撃に瞬きしてざざとバルコニーの床を滑って着地する。ミスティーの鱗の弾丸、グランスだったか。無表情にめりめりと赤い鱗を剥がして『私が引き受ける。お前はあれを倒せ』と言われてダグに視線を移した。ダグは笑みを浮かべたままこっちを見ている。
『さあ見せてやれ、お前の力を!』
 蝙蝠が煩わしい声で喚く。ミスティーがぎゅんと高速で蝙蝠に突っ込んでいった。
 ダグの身体が変形していく。鈍い色の鉄で覆われていく。
 何度思ってもまだ呑み込めない現実。
(本当に、お前は死んだんだな。ダグ)
 ぐっと槌を握る手に力を込める。先手必勝。「満満満」と唱えて槌を巨大化させどかんと振り下ろした。だけど受け止められた。ぎしと軋むアクマの手には盾が握られている。もう片方には長い槍が。アクマにしちゃ上出来な外見じゃないか。騎士だなこれは。
 たったの一週間、離れていただけだった。その間にレベル1から2へと進化した。あいつがそんなにたくさんの人を殺すなんて。どうしてだ? どうして。
 無駄だと分かっていても、叫ばずにいられなかった。
「どうしてだダグ! 何があったんさ!」
 人の魂を呼び戻すということがどういうことか。それがどんなに空しい行為なのか、恐ろしい行為なのか、熟知しているはずの教団の者が。どうして。
『払教の女神像のところに行ったんだよこいつは! チビの女が死んで、藁にも縋る思いで奇跡を起こそうとしたんだよ!』
「な、」
 答える声は蝙蝠からのもの。オレは絶句した。その隙に突き込まれた槍の一撃をどうにかかいくぐりバルコニーの床を蹴って距離を開ける。ミスティーがすばしっこく逃げ回る蝙蝠を追いかけてその羽が一枚グランスによってもげた。ふらついて飛び回りながら蝙蝠がけたけた耳障りに笑っている。
『バカだよなぁ、人間てバカだよなぁ! 教団の人間でも伯爵様の思い通りだぜ! ほんとバカだよなぁ!』
「黙れ」
『アクマになった男のバカ息子、あいつが勢い余ってチビを絞め殺しちまったんだよ!』
「黙れよ」
 がしゃん、がしゃんと重い音を立てて距離を詰めてくるアクマに槌を構える。呪詛のような声が聞こえる。『神など必要ない』という呪詛の声が。鉄の仮面の向こうで剣呑な光を帯びた目が光る。

「ラビっ!」
「、来るな!」

 ジジイをもう呼んできたのか、タイミングの悪いところにが剣を抜き放って飛び込んできた。ちょうどオレとアクマの間に割って入るように。ぎらりとアクマの目が光って突き出された槍が彼女を捉える。槌も足も間に合わない。
 瞬速で突き込まれた槍の一撃を、彼女は受け止めていた。ぎしと剣の軋む音のあとに衝撃で吹き飛ばされる。こっちは「伸っ」と唱えて受け止めることに成功した。危な。

「ごめ…思ったより重い」
 剣を握った彼女が「ありがとう、大丈夫。私も行く」と言ってオレの手をすり抜けて剣を振り被ってアクマに向かっていった。「はあああっ!」『死ねっ!』剣と槍がぶつかり合い響いた金属音が鼓膜を震わせる。
 バルコニーに着地して槌を構える。どうするオレ。どう戦う。あいつは外見からして硬い。ただ殴るだけじゃ倒せないだろう。
『たったの一週間で人を殺しまくって、立派なレベル2のアクマだぜ!見ろよ、』
『黙れ』
 煩わしい声をミスティーの声が遮った。遅れてどおんという爆発の音。どうやらミスティーがあの蝙蝠を撃破したらしい。
 がんきんがんがきんどおんと剣撃が響き、バルコニーの一部が崩れて落ちる。彼女が押されている。力の差か。
下がれ、オレがやる!」
「っ」
 突き込まれた槍の一撃をがあんと重い音と一緒に受け止めた彼女が空へ吹き飛ぶ。すかさずミスティーが飛んでって巨大化して受け止めた。
 意識から目の前のアクマ以外を排除して槌を構える。集中しろオレ。でないとやられるぞ。
 がしゃんとこっちに槍を向けた相手にそれ以上時間を与えず槌を両手で振り回す。「満満満」言いながら槌を頭上へ持っていって最後に大きく振り被りアクマに一撃を見舞うも、盾でがっちり受け止められた。薙ぎ払われた槌に腕が引っぱられて体勢が崩れる。これだから槌はめんどくさい!
「ラビっ!」
 彼女の悲鳴のような声が聞こえた。そのときには正面から突進してきたアクマの直撃を受けて吹っ飛んだあとで、壁にしたたか身体を叩きつけ息が詰まる。
 畜生、あんな重装備してるくせに速いな。さすがレベル2、強いな。1とは格段の差だ。
「ラビっ、ラビ!」
「…てぇ」
 だん、とバルコニーに着地してどうにか立ち上がる。頭を打った。ふらふらする。槍の矛は槌でどうにか防いだもののまともに食らった。
 そのときダグの部屋が目に入った。そこにジジイが立っている。こっちを観察するようないつもの冷たい眼差しで。
 お前は何者だと、問われているような気がした。
(オレはブックマン後継者。何にも属さず、心を移さない)
 槌を構える。槍を構えたアクマが二度目の突進攻撃をしかけてきた。直線的な攻撃。破壊力は抜群。その攻撃を踏んばるつもりで構えた俺を後ろからふわりと支える手の存在にはっとする。
 、馬鹿、下がってろって言ったのに!
 口にしてる余裕はなかった。どおんと音を立てて槌が突進攻撃を受け止める。ずざ、と靴底が滑った。彼女が片手で剣を振るい「シムラクルムっ」と唱える。音もなく出現した計六本の光の剣が六方からアクマを包囲して突っ込んだ。そのうち二本が盾に防がれそのうち一本が槍に薙ぎ払われたものの、三本は貫通した。よろけたアクマが一歩二歩と距離を取る。
(なぁジジイ。オレ、もう失格なんかな)
 彼女がふらつくオレを片腕で支え、片腕で剣を構えている。奇声を上げて槍を振り回し突進してきた相手に剣を垂直に構え「グラウィス」と唱えると、光の壁が出現してオレ達とアクマとを分断した。どおんと音を立てて壁にぶつかったアクマが、懲りずに体当たりを繰り返す。力ずくで破るつもりだ。
 近距離で、鉄仮面の間から光る青い双眸が見えた。ダグと同じ青い瞳。
(オレはブックマン後継者。だから他人に情を移さない。ダグのことは気にしない、気にならない、忘れろ。忘れろ!)
「イノセンス第二解放」
 頭上で槌を回し、解放の言葉で空中に出現した判を選択する。火の文字を叩き潰すようにして選び取り床に槌を垂直に叩きつける。
 終わりだ。
「劫火灰燼。火判」
 アクマの足元に火の文字の入った印が出現し、次の瞬間には炎の蛇がアクマを呑み込んで火柱を上げた。それで終わりだった。焼き尽くすまで、オレの火は消えない。
「…ラビ。大丈夫?」
「ああ。平気」
「でも血が…」
こそ。怪我ないかよ」
「うん…」
 ジジイの見てる前では泣き言なんて言えるわけもなく、その場は笑って誤魔化すしかなかった。結局最後まで傍観者としてこっちを見ていたジジイはオレに何も言わなかった。彼女がどうして助太刀してくれなかったんですかとぶうたれたけど、エクソシストが三人いれば倒せるだろうと思ってなというのがジジイの言い分だった。
 彼女と一緒に医療班に手当てを受けながら、ミスティーの金の目がこっちを見ていることに気付いて頬をかく。いて。ここ擦ってら。
(…コレット。ダグ)
 最後にバルコニーから離れるときに振り返った場所。ダグの部屋。持ち主を失った部屋。
 目を閉じて哀悼する。
 できるならあの二人に、幸せになってほしかった。そう思ったときに涙が一つ流れて落ちたのに気付いてぐいと袖で頬を拭う。
 ああそうか。オレは、悲しかったのか。その感情を押し込めようとして、彼女が心配そうにこっちを見ているのに気付いてどうにか笑った。
 ああ泣きたいと、心底思った。