こんな落ち着いた時間は、先へ進めば進むほど訪れないものだろう。そう思ったら、彼女に寝ろと言ったくせに自分が眠ることができなくなっていた。阿呆だな、俺。
 そもそもこんな近い距離でいて普通に寝ろっていうのが無理な話だ。
 手を伸ばせば抱き締めるのに事欠かない距離。
 俺の腕を枕に彼女が眠っている。こっちの気も知らないで、完全に警戒も何もなく。
(…お前にとっての俺って何なんだろうな)
 昼間、唐突に空を見上げて、ユウがいてよかったなぁなんてしみじみこぼした彼女は、恐らくクロス部隊のことを考えてたんだろう。いくら人数が多くても元帥探しの任務には危険が伴ったままだ。ラビ、リナリー、あのモヤシのことも気がかりなんだろうこいつは。無理してないかとかそんなふうに気にしてるんだ。
 また少し痩せたように見えた。風呂上りの彼女を見たとき特にそう感じた。俺から言うなら他人の心配よりまずは自分の心配をしろって話だ。
(お前は大丈夫だって笑うけどな…。いつもいつも)
 伸ばした手で彼女の髪を梳く。汚れていた髪がきれいになるとやっぱりいいもので、このままずっと汚れずにいればいいのにと思いながら彼女の髪に指を通して毛先を絡める。
 それにしても近い。なんだこれは。俺を試してるかこの状況は。
「…………」
 ぷに、と彼女の頬を指でつつく。当たり前に寝たままだった。
 肘をついて少し身体を起こす。クッションが馬鹿になってるソファはうんともすんとも言わないのが助かった。
 元帥とマリは寝たろうか。ここからじゃ見えない。恐らくまだだろう。今日の見張りは竜ってことになってるが、戦いの中にある俺達が完全に気を治めるには時間もかかる。
 さらりと指で彼女の髪を弄んだ。少し開いてる唇を指先でなぞる。閉じて寝ろよ、風邪引くぞ。それでそんなことしてる自分にはっとする。何してる俺。自問しながら眠る彼女を見つめてしまう。
 こんなにそばにいられたのはどのくらい久しぶりだろう。
 俺は。
(…やめろ。こんなときに思うべきことじゃない)
 寝ろ。寝るんだ。頭にそう命令しながら、薄く開いたままの唇を指先でなぞっている。やわらかそうだとか考えたところでぴしゃんと思考を閉じてぱっと手を離す。これ以上起きてたら自分が何をするのか分からない。寝ろ俺。とにかく寝るんだ。身体を休めることだけを考えろ。
「ゆ、うぅ」
「、」
 うなされてるように眉根を寄せた顔で彼女が俺の名前を口にする。
 お前は今どんな夢を見ていて、俺の名前を呼んだのか。
 眉間に寄ったままの皺に手をやってぐにぐに解した。「ここにいるだろ」とぼやいた声が思ったより大きくなって物音のしない部屋に響いて聞こえる。「仲がいいねぇ、いいことだよ」まだ起きてたらしい元帥のしみじみした声に舌打ちして今度こそ寝転がる。
 ソファをくっつけただけの狭い寝台で、彼女を腕に抱きながら、狭いんだからしょうがないを理由に月光を受けて緩く輝いてみえる亜麻色の髪に顔を埋めた。
 じゃ、と雨に塗れた土を蹴る。今日で通算三度目になるアクマの襲撃に彼女と背中合わせになって抜刀した。
「六幻。災厄招来」
「発動。ドラグヴァンデル」
 数をこなすために刀を一本増やし両手に柄を握った。背中合わせの彼女の隣に巨大化した竜がどんと爪を振り下ろす。「元帥とマリは?」『分断されたな』「橋を渡るっつうのはまずかったな。せめて舟にすべきだった」「うん…」刀を構えてじりじり包囲を狭めてくる敵に目を細める。めんどくせ。
「とりあえず片付けるぞ。マリと元帥ならそうそうやられん」
「うん」
 地面を蹴って上に跳ぶ。『上に行ったぞぉ!』『エクソシストだ殺せーっ!』『そうだ殺せぃっ』『コ・ロ・セー』不協和音と群がるアクマに舌打ちして刀身を構える。蟲型の剣気を振るって適当な数を打ち砕き、ぎゃあぎゃあうるさいアクマを斬って斬って斬り倒す。ぶしゅと音がして腕が切れた感じは分かったが止まりはしなかった。多少の怪我ならすぐに治る。とにかく壊せ。とにかく殺せ。
「クルクス」
 静かな声が耳に届いた。光の一線が圧倒的な熱量でアクマを粉砕するのが視界の端に確認できた。
 腕を上げたな。いつまでも竜に庇われた戦い方はしてないか。
『がら空き』
「、」
(しまった)
 横っ面を張り倒されるような突進を受けて体勢が崩れ、舌打ちして六幻を振るいアクマを破壊。剣気で持ち直した体勢が竜巻のようなものに巻き込まれて、完全に計算が狂った。畜生め。いや、今のは俺が気を逸らしたのが原因か。
「ユウっ!」
 彼女の、声が聞こえる。
(俺のことはいいから戦え)
 がしゃと六幻を構える。『しねーぃっ!』と顎が外れた機械の顔がこっちに向かって突っ込んでくる。死神の鎌のようなものを大きく振るうその姿はまさしく悪魔。短く笑って六幻を構えた。誰が死んでやるか。俺は死なない。死ねない。
 空中戦を展開して六幻で飛ぶように破壊を続けて、ようやく一段落したところで彼女と目が合った。ほっとしたような顔をした彼女にふんとそっぽを向いてだんと着地する。六幻の発動を解きながら「ユウ怪我は」言いかけた彼女が弾かれるように顔を上げた。瞬間、吹き飛ばされた。解きかけた六幻から界蟲を放って最後の一撃を撃ち込みがしゃんと崩れ落ちたアクマを破壊する。
っ」
 吹き飛ばされた彼女が茂みの向こうに転がったのを全力で追いかける。くそ、最後の最後に気を抜きやがった。甘い奴め。
、おい返事しろ!」
「ん、痛…っ」
 がさがさ茂みが揺れて、腕を押さえた彼女が参ったなぁって顔出てきた。じゃっとブーツの底でブレーキをかけてがしとその腕を握る。「怪我か」「大丈夫、ちょっと打ったの。平気」「平気じゃねぇだろ。ちょっと待て」放り出したままの荷物を取ってきて中から救急箱を引っぱり出す。あっても邪魔なだけだと思ったがそうでもなかった。俺は必要ないが、俺以外には必要なものだ。
 よろけて木にぶつかった彼女が「ミスティー、元帥のところへ。見つけてきて」『分かった。大丈夫か』「ユウがいるから大丈夫」無責任なことを言って笑う彼女。竜が空に舞い上がり、少し向こうで続く戦闘音のする方に向かって飛んでいく。
 残念そうな顔でぱたぱたコートの土煙を払って、「あー汚しちゃった。新しいコートなのに」とか言う彼女にいっそ呆れる。なんのためのコートだ。そのためのコートだろ。
 適当に怪我の手当てをして、彼女の分のトランクを持ち上げて行くぞと言おうとしたところでぴりっとした殺気に気付いて片手で六幻を抜刀した。彼女が同じように剣を抜き放つ。『えええくそしすとおおおおお』煩わしい声を上げてレベル1の大砲攻撃がより進化したものがどどどどどと音を立てて連射される。地面を蹴ってそれを避けながら界蟲一幻を打ち振るいアクマに突っ込ませる。うぜぇ。
 がさりと茂みが揺れた。視線を跳ね上げる。まだいやがった。
『死ねよエクソシスト』
「お前がな」
 邪魔だと判断したトランクから手を離す。だんと強く地面を蹴って六幻を振り上げた。いい加減諦めろ。
 俺に向かってにたりと笑ってみせたアクマが『ざんねんんん』と世迷いごとをほざいた。その脳天に六幻が突き刺さった、ところで異常に気付く。
 しまった。罠だ。
「横だっ!」
「、」
 茂みから飛び出したと思ったアクマはただの幻で、そういう能力らしかった。今度こそ茂みから飛び出したアクマが拳を前面にして『アッハッハー!』壊れた声を上げて彼女に突っ込む。がきんと硬質な音がして彼女が剣で拳を受け止めたのが分かったが、さっき腕を打ってる。力が上手く入らないんだろう、踏んばりきれずに吹っ飛んだ。結構なスピードで崖に向かって。
(くそっ!)
 アクマを放置はしておけない。六幻を二幻刀にしてその全てから剣気を振るった。ぎしゃあと唸って口を開けて突っ込んでいく蟲型の剣気からすぐに意識を外す。彼女が、
 崖に放られ、彼女が落ちると思った。俺の六幻なら命を吸わせれば飛ぶことも可能。だから迷わず飛び込んだ。ひゅおおと風を切って落下する彼女に手を伸ばす。間に合え。
 がし、とコートを掴んでどうにか引き寄せた。もう地面が近い。行くぞ六幻。

「イノセンス…第二解放」
「、」
「アーラ・フェルム」

 ヴ、と音がした。彼女の背中に現れたのは鉄色の翼で、がしと俺の腰に手を回すと「行くよユウ」と言う。ちょっと待て俺が六幻で飛ぶなんて言葉言う暇もなかった。鋼の翼がリンと音を鳴らしてためなしでどんと加速する。ちょ、ちょっと待てお前!
 数秒で空に舞い上がった彼女が、呆然とする俺を見て困ったように笑った。
「初めてだったの。緊張しちゃった」
「お前。第二解放、できたのか」
「今初めて。落ちちゃったから、念じてみたの。よかった上手く発動できて」
 たん、と地面に足をつけると彼女の手が離れた。背中で無機質な色に光る鉄の翼が空気に解けるように消えていく。その色に少しアクマを思い起こした自分を殴りたくなった。
 そのうち元帥とマリが竜に連れられてやってきた。ちんと六幻を鞘に収めてそっぽを向く。二人と一匹に駆け寄った彼女は相変わらず笑っている。
 無理を、してないだろうか。
 転がったままのトランクを拾って担ぐ。頭を過ぎるのはさっきの鉄の翼の色。
 内心複雑だった。強くなってくれるのは構わない。どうせこの戦争から抜け出すことは無理なのだから。だったら他を追い抜く強さを得て怖いものなしになってくれればそれがいい。負ける心配も怪我する心配も死ぬ心配もしなくていいなら、こんないいことは。
 その状態は、少し間違えれば俺ってことになる。彼女が俺のようになるのは、なんだか嫌だ。
 舌打ちして解けた髪に手をやった。いつの間にか切れてたらしい。髪紐を探してコートのポケットを叩く。入ってねぇし。どこだと内ポケットに手を伸ばしていたらすっと目の前に差し出される髪ゴムが一つ。
「はい」
「…なんだよこれ」
「髪ゴム。貸してあげる」
「こんなの持ってたか? お前」
 彼女が好みそうな、小さな白薔薇の飾りがついた少しシャレた髪ゴムだった。じろと視線を向けると彼女が困ったように笑う。「うん、こないだラビがお土産って買ってきてくれたの」「へぇ。あいつがね」指でつまんで受け取った髪ゴムをうろんげに見つめる。へぇ。あのラビが。いつの間にこんな抜け駆けしてんだあの野郎、今度会ったら憶えてろ。
「結んだげる」
 俺の後ろに回った彼女がいそいそ髪をいじり始めた。頭の上で一つくくって「これでいい?」とこっちを覗き込むから「ああ」と返してそっぽを向いた。彼女の髪にも同じものがある。ってことはあいつ、同じものを二つ買ってきたわけか。は普段一つにしか結ばないんだから一つにすればいいものを。なんで俺とがおそろいみたいなことしてんだよ。
 俺の手からトランクを片方受け取った彼女が打った方の手をぷらぷらさせた。その手からトランクを取り上げて「いてぇなら持つ」と言うとあははと困った笑いが返ってきた。「頼んでいい?」「ああ」がこんがこんとうるさいトランクを片手でぶら下げる。
 彼女の髪で白い小さな薔薇が雨粒に塗れてきらりと光った。俺の頭にも今同じものがある。
(まぁ、別にいいけど)
「元帥、次はどちらに?」
「そうだねぇ、この道を行こうか。橋は危ないし、舟を使おうかね」
「はい」
「最初から舟にしときゃよかったでしょう元帥」
「一般人を巻き込むかもしれないだろう? そういう道はなるべく避けるものなんだよユーくん」
「その呼び方やめてください」
「まぁまぁ神田。とりあえずこの道ですね元帥」
「そうそう」
 がこんがこんと音を立てるトランクが鬱陶しいものの、腕をさすっている彼女に持たせる気はさらさらなかったのでもう気にしないことにした。