日本へ向かう、という段階になって、物資の調達で少し大きめの街に寄ることになったその日。本部への定期連絡の電話に出てくれたのはリーバー班長で、コムイさんは仮眠中だと言われた。受話器の向こうではリーバーさん以外にも科学班の面々がいていつも賑やかだけれど、今日はそれ以上に賑やかだった。
 ううん、賑やかって言い方は変だ。きっとまた棺が聖堂に、たくさん並んで。
『日本か…なんの偶然なんだろうな。それとも必然、か』
「え?」
『いやいやこっちの話だ。そっちはみんな元気か? 神田はキレてないか?』
「うるせぇよリーバー」
『うおう、そばにいたか』
 舌打ちしたユウが私の手から受話器を取り上げてリーバーさんに暴言を吐く。苦笑いしたリーバーさんは疲れているようだった。受話器を握るユウの手に掌を重ねて眉間と眉間をごちんとぶつけて「大丈夫です。大きな怪我はしてないし、こっちの心配はいりませんよ」と吹き込む。じろりとこっちを睨んだユウと至近距離で見つめ合って数秒。顔を離して明後日の方向を向いたのはやっぱり彼の方だった。よし、勝った。
 それでも握られたままの受話器に、彼の手に手を重ねたまま「そっちは無理してませんか」と言う。リーバー班長はすぐにこう答えた。『だいじょーぶダイジョーブ』と。どんな言い方をしたとしても、きっとみんなにそう返してるんだろうと思った。
「ここから先は船で移動になります。日本は島国だって聞いたから、通信できるのは大陸に戻ってからです。コムイさんにそう伝えておいてください」
『了解。神田はなんかあるか?』
「別にない」
『相変わらずだなぁオイ』
 苦笑いしたリーバーさん。私も苦笑いした。本当に、もうちょっとでも人に愛想よくすればいいのに、ユウはいつまでたってもこうだ。

 通話を終えて、食料の買出しを彼と一緒にすませる。わいわいがやがやと人が多い街はそれなりに賑やかだった。フードに隠れたままのミスティーを振り返って「お腹空いてない?」と声をかける。もそりと顔を出したミスティーが『大丈夫だ』と言うから頷いた。じゃあちょっと多めに買い込んでおけばいいかな。
 露店で食料を買う。紙袋がすぐに両手いっぱいになった。最低でも五日はかかると船の乗組員の人に言われたから、最低限のものだけ買ってみたのにこれか。ユウが仏頂面で支払いをすませて片腕に袋を抱えてざくざく歩いてくる。「持つ」と言われたけど首を振った。まだ買うもん、ユウに持ってもらわないと。
 並んで歩き出すと、微妙に人の注目を浴びる。ひそひそ会話する人もいて気にしないようにした。どこへ行ってもこのコートは結構目立つ。アクマにはひと目で私達がエクソシストだって分かるだろう。それも、なんだかな。
 それから元帥達と合流して船に乗り込んで、街を出発して、何時間くらいたったろうか。甲板でぼんやり海風を受けていたらばさりと何か放られた。
「わぷ」
「着てろ。風邪引くぞ」
「、ユウ」
 放られたのは緑色の外套だった。寒くはないけどなぁと思いながらとりあえず羽織ってみる。ミスティーは隣で海を見ていた。私とミスティーは船が初めてだから甲板に出ていたけど、みんなは船の中だった。ユウだけ出てきたらしい。首を傾げて「海なんて珍しくないって言ってなかったっけ」と訊いても答えは返ってこず、一人分の間を開けてユウが隣でつまらなそうに海に視線を向けて頬杖をついた。「あの親父と一緒の部屋にいるよりはマシだ」とぼやく声に苦笑する。嫌いなんだなぁティエドール元帥のこと。私はあの人面白いって思うんだけどな。
 ミスティーがぴくりと顔を上げた。どこか警戒するような目つきだ。その視線を追ってみると、水平線の辺りにいった。夜の空と黒い海が混じって境界線がなくなっている部分に、不自然に紅い色をしているところがある。
 空が。
「ユウ」
「あ?」
 ぐいと袖を引いて、水平線のところで微かに紅く光っている部分を指す。「あっち、私達がいたところだよね」「…ああ」「なんだろう。アクマかな」活気に溢れていた港町の光景を思い出して、それが死体と瓦礫で様変わりしている風景を想像した。拳を握って「私、あそこに」「行く必要はない」すっぱり言ったユウに視線を移す。彼は赤い空を視界に入れながら「俺達の任務を忘れるなよ。アクマの破壊は第一じゃない。俺らは元帥の護衛をしてるんだ」それは、正論だった。だから口ごもってしゅんとする。
 そうか、そうだった。私ってば普段はアクマの破壊くらいしかしてないから、頭が足りてないのかも。
「ごめん」
「…謝る必要はねぇだろ」
「うん…」
 一人分開けられてる距離は一歩踏み出せばすぐに埋まった。ぽてとユウの肩に頭を預ける。ずっと海ばっかり見てたせいか眠い。
 私を支えた腕と「寝るなら船室戻れ」の言葉に浅く頷いた。「ユウは?」「別に」「別にって答えになってないよ…ねぇ」「ちっ」舌打ちした彼がくるりと向きを変えた。私を連れて「そばにいればいいだろ」と言うからえへと笑う。うん、そうしてくれると嬉しい。
「ミスティー」
 手を伸ばすと飛んできたミスティーが腕の中に収まった。甲板を横切りながら空を振り返る。まだ紅い。その紅が目に沁みた。
(…アレン?)
 紅い色。アレンとは別に何も関係ないのに。
 どうして私、今、アレンのことを思い出したんだろう。
 アレン達がどうしてるのかリーバーさんは言わなかったけど、きっともうすごく離れてる。それなのに今どうして、アレンの笑った顔が見えたんだろう。
「どうかしたか」
「ううん。何でもない、大丈夫」
 眉を寄せた彼に誤魔化すように笑う。ううん、誤魔化したのか、私。

 元帥の方がソファでうたた寝している部屋に戻る。今日はマリが寝ないで起きてる日だ。部屋にいないところを見るに、どこかしらに時間を潰しに出歩いてるんだろう。
 ベッドに連れていかれて座り込んだ。もそもそ外套を脱いでコートを脱いで鞘を外して髪を解いて、ベッドに潜り込む。壁際のベッドだったから一番端にいってユウの分を開けておいた。彼は座ることしかしなかったけど。
(五日は乗ってないといけないって、長いなぁ…海上でアクマの攻撃を受けたら、私とミスティーで行かないと。ユウもよく跳ぶけど、飛べるのとはまた違うし。海の上だから、落ちたりしたら困るし)
 この間発動に成功した第二解放、と勝手に名付けただけの防御と移動を誇る技。自分からじゃ見えないけど、想像したやわらかい羽じゃなく、私の背中には鉄の羽が生えているらしい。ユウがどこか苦々しい顔をしてたのを憶えてる。感覚としてはすごく自由が利いてやわらかいと思ったんだけど。
 ユウは苦い顔をしてたけど、でも正直、空を飛んで戦ったり移動したりができるならすごく頼もしい。遠距離攻撃や防御の技は持ってたけど、今までよりもバラエティに富んでいた方がこの先戦っていくのも自信がつく。私のイノセンスはあくまで剣でドラグヴァンデルのはずだけど、どうして背中に羽を生やすことができたんだろう。私の思いに応えてくれたのかな。なんてね。
 手を伸ばす。ユウの手をぎゅっと握った。こっちを見た彼が「なんだよ」と言う。ふにゃりと笑って「何でもないよ。寝ないの」と返すと彼はそっぽを向いた。まだ寝ないって、そういうことなんだろう。
 枕元でミスティーが丸くなっている。金の目がちらりとユウを見た。私はゆるゆる目を閉じる。
 初めての船は地面に足がついてない感触でふらふら揺れていた。
 頭の中にさっきからアレンがいる。
 しまったなぁ。こんなに気になるなら、ちゃんとリーバーさんに確認しておけばよかった。みんな無事ですよね、クロス元帥は見つかりましたかって。元帥が無事見つかっていたら嬉しいのに。でも少し怖くて訊けなかったんだ。あの元帥がやられるなんて思えないけど、私達のところだけでもアクマの数は計り知れない。元帥を追ってるアクマのことを考えると背筋が寒くなる。レベル2ならまだしも3なんかに囲まれてしまったら、ノアに囲まれてしまったら。いくら元帥でも、
「…何考えてんだ」
 ぎ、とベッドの軋む音がして薄く目を開ける。仕方なさそうな顔をしたユウが隣にいた。ベッドに転がって頬杖をついてこっちを見ている。
「さっき、紅い空を見たら。アレンが思い浮かんだの」
「…なんでモヤシなんだよ」
 気に入らないって顔をするユウ。私は目を伏せて「分かんないけど。みんな大丈夫だよね」と漏らす。ユウは答えなかった。どうでもいいのかもしれないし、分からないから何も言わないのかもしれない。黙っている彼の手が私の前髪を揺らした。中指に光る指輪に何となく安心して目を閉じる。
 大丈夫だよね。みんな。きっと。信じるしか、ないよね。
☆  ★  ☆  ★  ☆
(…寝たか)
 静かになった彼女の髪から手を離す。後ろの方でわざとらしい大きな欠伸が聞こえて「おや帰ってきてたの」と白々しい声。それには答えずに黙って彼女を見つめた。船に乗るのは初めてだってあんなにはしゃいでたから疲れたんだぞお前。船くらい海のあるところ行きゃ乗れるだろう。そもそも空を飛ぶって経験の方が普通は貴重だ。竜に乗って飛び回ってるお前にはない感覚だろうが。
「ユーくん」
「その呼び方やめてください。なんです元帥」
「私はちょっと絵でも描いてくるよ。しかし誰もきてくれないのも困るから…ミスティーどうかな。少し私と話でもしてみないかい?」
『…お供します元帥』
 小さな翼を羽ばたかせて飛び上がった竜がじろりとこっちを睨んできたからなんだよと睨み返す。ばちばち無言の小競り合いをしてからふんと顔を背けた。
 期待はしていない。だが可能性は見ている。こいつはいつかに俺にそう言った。
 ばたんと部屋のドアが閉まる。眠ってる彼女と二人だけになって、シャワーでも浴びるかと思って起き出した。正直そばで見てるだけは自信がない。…自信ってなんの自信だ俺。
 着替えだけ持ってさっさとシャワーを浴びてさっさとすませた。空調の利いてない船室はエンジンのせいで外より温度が高めで、白いシャツだけ袖を通して部屋に戻る。彼女は相変わらず眠っていた。
 他に誰もいない部屋で、六幻の手入れでもするかと思ったが思っただけで終わった。どうもそういう気分じゃないらしい。
 落ち着かない。アクマの気配があるわけでもないのに。
「…ちっ」
 どかりと彼女の眠るベッドに腰かける。相変わらず眠ったままだった。こっちの気も知らないでのんきなもんだ。ここにいるのが俺じゃなくラビとかだったらどうする気だ。あいつ変な気起こしてお前を襲ってるかもしれないだろ。
(…それは俺もか)

 俺はどうしたいんだろう。
 頭の中にあの人がいる。名前も知らない人がただ笑っている。そのうち忘れるだろうと思ったがやっぱり頭の中に残っていた。身体を壊され記憶も壊れ、それでも残っている部分が叫ぶ。あの人のことを。
 今にいる俺が叫ぶ。もういいんだと。あの人の知る俺は死んだのだからと。だから俺は新しい俺で、ここで、もう割り切るべきなんだと。
 いつか手遅れにならないうちに。あの人のように、彼女をこの手の届かないところへ持っていかれる、その前に。

「ん…ぅ」
「、」
 ぱち、と彼女の目が開いた。何度か瞬きしてこっちを見た彼女がふにゃっとした笑顔を浮かべる。「なんか、おきちゃった」と目を擦るから、「そうか」と返して伸ばそうとしていた手で拳を握った。
 起きてくれてよかった。これ以上は考えたくない。
 もそもそこっちにやってきた彼女が「あれ、ミスティーは」と気付いたように枕元を見た。「元帥と出てった。そのうち戻るだろ」「そっか…」もふりと枕に埋もれてこっちを見る視線。なんだよと眉根を寄せれば困ったような笑顔が返ってくる。
「ねぇユウ」
「んだよ」
「ユウは頑張るね。どうして頑張るの?」
「あ? 何が」
 ごろりと仰向けになった彼女が天井に向かって手を伸ばす。「ミスティーはね、私のために頑張ってくれてる」「…知ってる」「私も、ミスティーと、ユウやラビやリナリーやアレンや、教団のみんなのために戦ってる」「…ああ」「ユウはどうして戦うの?」不思議そうにこっちを見た彼女。視線を逃がして「別に」と答えた頭の中にあの人がいる。視界の端に華が見える。

 違う。俺の今の現実はここだ。ここなんだ。

 腕を伸ばして、彼女の手を取る。「最初は違った」と搾り出した声は思ったよりずっと小さくなった。ぱちぱち瞬きしてる彼女を見つめる。やわらかい髪。やわらかい瞳。この七年一緒に生きてきた一人の人。
「今はお前が理由かもしれない。お前がいるから、戦う」
「? 私?」
「…多分な」
 最後は曖昧に誤魔化した。はっきり言えたことがなかった今までからすれば自分を褒めてやりたいくらいに心のうちを言葉にできた方だった。
 ぎしとベッドに手をつく。
 無防備にも程がある。俺を信じてるんだろうと言えば聞こえはいいが、少しはこっちの身にもなるといい。そんなふうに何にも知らないって顔をされると教えてやりたくなるだろう。この胸のうちを。
「? ユウ?」
「…お前が悪い」
「え?」
「お前が悪い」
 どこまでも危機感を持たない彼女に顔を近づけて、口付ける。
 指先で憶えてたとおり、触れた唇はただやわらかかった。