はとっても天然でかわいい女の子。そんなこと言うとリナリーの方がかわいいよと彼女は笑うけど、私は彼女の方が絶対かわいいと思っている。
 その彼女がいない。
 いつものアクマ一掃の任務にミスティーとセットで使命され、本部を飛び立って三日目。いつもならすぐ戻ってくるだけに、彼女の姿の見えない時間の長さに、私の心は少しざわついていた。
 私が任務に出たら帰ってくるまで彼女はここでこうして日々を過ごしている。見えない仲間の安否を思いながら、無事を祈りながら、彼女は鍛錬を積んだりしていたはずだ。聖堂で祈りを捧げたりしていたはずだ。だから私だって。そう思っていつものようにを心がけているのに、コーヒーを淹れる手つきは重く、頭のどこかで私は彼女のことを考えている。
 リナリー。私を呼んで笑って手を振っている彼女が遠い。
「リナリー、それじゃ薄いんじゃないかい?」
「えっ」
 はっとして手元に意識を戻せば、お湯加減を間違えていた。兄さんが書類の山積みになっているデスクで許可の判子をぽんぽん押しながら「昨日はすごーく濃いコーヒーが出てきたし、大丈夫かいリナリー。考え事かい?」「…兄さん」ぽんぽん判子を押しながらやんわりした笑顔で訊ねられて、結局、私は兄に彼女のことを訊いてみる。
はまだ帰らないのかしら。遅いわよね、いつもより」
「そうだねぇ。もう三日か…僻地へ行ったから連絡は期待しない方がいいだろうね。帰りを信じて待とう」
「うん…」
 コーヒーを淹れ直す手が重い。
 手元に意識を集中させて今度はちゃんといつもの手順でコーヒーを淹れて、仕事で忙殺される科学班のみんなに手渡す。その最中にも「どうしたのリナリー、なんか元気ないね」とか「何か悩んでるの? 暗い顔だよ」と言われた。窓ガラスに映した自分の顔は確かに少し俯きがちで、元気があるようには見えなくて、これじゃあ心配かけるのも無理ないなと思った。
 はまだ帰ってこないのだろうか。

「リナリー」
「、アレンくん」

 呼ばれて振り返ると、最近入団したばかりのアレンくんがいた。「すみません、ここ教えてもらいたくて」隣に来た彼がばさりと書類の束の1ページを示すから文字を追ってみると、それはお菓子のレシピだった。しかもホールのチョコレートケーキ。一つ瞬いて視線を上げると、彼は真剣な顔でレシピの文字を見つめている。
「これ作るの? アレンくん」
「えっと、はい。が今度一緒に作ろうねって…僕お菓子作りなんてしたことないから、ちょっと勉強しとこうかなって思って。って、分からないことだらけなんですけど」
 かくりと肩を落とした彼が「もあんまり上手じゃないよって笑ってましたけど、でもやっぱり未経験の僕よりは上手でしょうし。リナリーとよく作ってたって話聞いたの思い出して、それで」「…アレンくんさ」「はい?」「のことどう思う?」じっと彼を観察しながらそう訊いてみる。反応は分かりやすかった。視線を泳がせた彼が「えっと、それは、どういう?」声も若干上ずり気味。そんな彼ににっこり笑って「はかわいいわよね」と言ってみる。さらに視線が泳いだアレンくん。小さな声で「は、ぃ、かわいいと思います」「のこと好き?」「え、っと、僕はあの、別に、そういうわけじゃ」ちょっとずつ小さくなっていく声と赤くなっていく顔が正直に感情を表していた。
 神田もこんなふうだったら分かりやすいのにと思ったけど、それは神田らしくないからやっぱり今のままでいいかな。でもやっぱり、もうちょっとに対してこう大胆になれれば、きっと二人の仲だって進展だってするのになぁ。
 意地悪はそこまでにして、手書きでメモの入っている書類にもう一度視線を落とした。「スポンジから全部作るのね? これ」「あ、そうです。その方が作ったって実感があるよってが」「そう。そっか」ボールにメレンゲを泡立てるのに一生懸命になっている彼女や、わくわくそわそわの表情でオーブンを覗き込む彼女、チョコを溶かしながら味見でと言ってつまみ食いしている彼女、色んな彼女が思い浮かんだ。
 やだな、これじゃ私がに恋でもしてるみたいだ。彼女のことが大好きなんだから恋って表現もあながち間違いではないんだろうけど、それは、ほらね。やっぱり神田に譲らないとね。
 神田は私よりのことを思ってるだろう。短気で仏頂面で愛想のない彼が、それなりに喋って相手をして表情を和らげるのは彼女にだけだ。も神田のことを信頼している。二人は友達以上恋人未満の状態でここまで来ているけど、ライバルも増えてきていることだし、そろそろ神田も何か行動するときだ、と私は彼の恋路を応援していたりする。
 彼の片想いは、見ていてもどかしい。不器用にも程がある、なんて思ったりもするくらい。
 好きなら好きだって言っちゃえばいいのになぁ。そんなことを考えていると、二人の姿が自然と思い浮かぶ。
 よく見かけるのは鍛錬場と、外にある森の中で花壇の世話をしている姿。監視映像のゴーレムが飛ばしてくる映像にたまに二人の姿が映っていることがある。彼女が笑っていて、神田も少し笑っている、そんな仲睦まじい様子を何度か見たことがある。
 あの時間は二人のもの。そう思っていたから、私はあの中に入っていくことはしなかった。
 最近は花壇の時間にラビが入るようになってしまったから、神田との時間はまた減ったのかもしれない。ラビも多分彼女に好意を持ってるからなんだろうけど、なんだかな。私は神田を応援してるんだけどな。
「ねぇアレンくん」
「はい」
「大好きな人には、幸せになってほしいよね」
 レシピにクリップで留めてある手書きのメモに指を滑らせる。丸くて小さな字で『メレンゲは角が立つまでしっかりと』『オーブンは余熱を忘れずに』と書いてある。他にも色々、斜めだったり横だったり縦だったりで書き込まれているその文字は、彼女そのものだった。軽やかに駆け回る彼女。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、神田と鍛錬をしたりラビと図書室へ行ったり、アレンくんと食堂へ行ったり、そして私を振り返って一緒にティータイムにしようよと笑ってくれる。リナリーと呼んで手を差し伸べてくれる。小さい頃からそうだった。私はそれに甘えていた。お姉ちゃんと呼んだことはなかったけれど、近い思いは抱いていた。私は彼女が大好きだった。今もそう。
(でもね、昔のように、ずっと私のそばにいてなんてわがままなことは思わないよ。には幸せになってほしいの。こんな場所でも、あなたは幸せになれる。なるべき。そう思うの)
「…リナリーも、のことが好きなんですか?」
 きょとんとした顔のアレンくんがそんなことを訊いてくる。だから私は笑った。「大好きよ」と。さらにきょとんとした彼にくすくすと笑う。
 幸せになってほしい。
 幸せになりたい。私だって幸せになりたいとは思う。でも、もし一人だけ幸せにできますよと神様が言ってきたら、私は彼女の背中を押すと思う。
 幸せに、なってほしい。
 笑っていてほしい。思わず私まで笑ってしまうあの自然な笑顔で、天然でちょっと鈍い彼女に、幸せが訪れてほしい。
 それで、できるならそんな彼女の、隣とは言わないから、近くにいられたらいい。隣の場所は神田に譲っておくから、親友のこの位置は私のものでいさせてほしい。
 あなたのためなら何でもするわ、なんて、自分のことで精一杯になってる私が胸を張って言えることじゃないんだけど。それでもできる限りのことをしたいと、そう思っている。
「ただーいま、帰りましたぁ」
、」
 すっかり三日目の夜が更けて四日目に入ろうとしていたところで、彼女が帰還した。亜麻色の髪をばさばさにして、団服のコートはいくつかボタンが飛んでよれよれになっていて、激しい戦闘だったんだろうことが予想できた。ミスティーを抱いてよろよろ司令室に入ってきた彼女が私に気付いて「リナリ、ただいま」と疲れた顔でそれでも笑いかけてくれる。
 コーヒーを淹れる手を止めて私は彼女に駆け寄った。血の色で汚れている頬を指で拭って「怪我はない?」と訊くと、彼女は笑った。「大丈夫だよ」と。ばさばさになっている髪に手を通してからぎゅっと彼女を抱き締めると、いつもの花の香りはしなくて、土と埃の乾いたにおいがした。
「リナリ?」
「…おかえり。おかえり」
「ただいま。帰ったよリナリー、ただいま」
「うん。おかえりなさい」
 彼女の手が私の頭を撫でて、ぽんぽんとあやすように背中を叩く。伝わる温度にほっとして、ぎゅっと彼女を抱き締めて、離した。私より小さいけれど、私より年上の彼女は、私よりもずっと包容力のある笑顔でにっこり笑って私を包み込んでくれる。
おかえり! 遅かったじゃないか、さすがにボクも心配してたところだよ。大きな怪我なんかはしてないね?」
「はい、大丈夫です。途中でミスティーがエネルギー切れ起こしちゃって、食べ物の調達に時間がかかっちゃったっていうか…あ、これ領収書です」
 コートのポケットから紙切れをたくさん出してきた彼女に兄さんがよろりとよろけたのが見えた。彼女の腕に抱かれているミスティーが「ぎあ」と口を開けて鳴く。そんなミスティーに笑いかける彼女が見える。
 見たいと思っていた笑顔だ。そばにあってほしいと思っていた笑顔だ。私の大好きな、笑った顔だ。
「リナリー、着替えたらね、お腹空いたから食堂行こうと思うんだけど、一緒に何か食べない?」
「うん。行こうかな」
 ふにゃっと笑った彼女が「じゃあ急いで着替えてくるね。ミスティーと先に行ってて」差し出された赤くて小さなドラゴンを受け取って、階段を駆け上がっていく後ろ姿を見送る。あまり触れることのないミスティーに視線を落として「お腹空いてる? ミスティー」『少しな。つまむくらいはしたい』「そっか。じゃあ先に行って待ってようか」くるりと振り返れば、机の上に領収書を並べて唸っている兄さんがいる。「兄さん、私ちょっと食堂行くから」「行ってらっしゃーい」ひらりひらりと力なく振られた手は、領収書の代金をどこから搾り出すべきかと考えてるんだろう。室長は色々大変なのだ。
 司令室を出て、ミスティーを腕に抱いて階段を上がる。かつんこつんと靴音が響く。
「ミスティー」
『なんだ』
「私、には幸せになってほしいの。私よりもずっと幸せになってほしい」
 金の瞳がこっちを見上げたのが分かったけど、私は上へと続く階段を見上げたままでいた。ゆっくり一歩一歩、深淵から這い出すように階段を踏み締めて、「そのために、できることをしたいって思う。でも、自分のことで手がいっぱいになってる私にできることってあるのかしら」言葉を口にしながらかつんと階段を上がる。
 大事なものが増えて、私の世界が広がったり欠けたり、その度に浮いたり沈んだりする私。とても人のことを一番に優先して思考するなんてできない私。子供な私が彼女の幸せのためにできる微々たること、それはなんだろう。
『…お前はの親友だ』
「うん」
『存在しているだけで救われている。そこにいるというだけで生きる力になる。そういうものがある。…お前も分かるだろう』
「ミスティーは、のために生きているんだものね」
『そうだ。彼女は私の全てだ』
 分かってはいたけれど、断言されると、やっぱりミスティーはすごいなと思った。
 迷いも躊躇いもない言葉と行動信念。ミスティーはのためにここにいる。
 定位置が彼女の上着のフードの中か、腕に抱かれているか。普段はあまり喋らないから忘れてしまいがちだけど、そうだ。恋路なら神田を応援してるけど、ミスティーだってにとってとても大切な存在のはず。
「二人ともー、遅いよー!」
「、」
 階段の上から声がして顔を上げる。食堂のある階を背に彼女が手でメガホンを作ってこっちを見ていた。ぶんぶん大きく手を振って「ほら早く早く、ジェリーさんにもう紅茶頼んじゃったよ!」私の腕からするりと抜け出したミスティーがまっすぐ彼女のもとへ飛んでいった。じゃれるように彼女の周囲をぐるぐると飛び回って、伸ばされた手に抱かれて小さく喉を鳴らすミスティーは、一番彼女と一緒に生きてきたのだ。
(存在しているだけで救われている。そこにいるというだけで生きる力になる。そういうものがある…かぁ)
 それはきっと、ミスティーにとってのがそういうものだってこと、なんだろうな。
「リナリー、早くー」
 手招きに誘われ、私は階段を二段飛ばしで駆け上がった。闇の淵から抜け出して光に手を伸ばすようにして、最後の段を蹴飛ばしてばふっと彼女に抱きつく。彼女の背丈を追い越してからはあまりしていなかったけど、こうやって遠慮なく抱きつくことだってたまにはしたい。
「わ、っとリナリー、どうしたの」
「んーん、何でもない。行こ」
 にっこり笑えば、きょとんとしていた彼女も笑ってくれる。
 手を繋いで食堂まで行きながら、任務の話や他愛のない会話を交わしながら、祈り、願う。

 どうか彼女が幸せになってくれますように。
 どうか彼女が、幸せに、なれますように。