「………」
「どうした。神田と喧嘩か?」
「えっ、そ、そんなことないよっ」
 マリの横でユウから距離を取ってこそこそ隠れて歩いていたらさっそく指摘されてしまってぎくっとした。こそこそマリで隠れながら「あの、何でもないの。ほんとに何でもない」と言いながらそろーりとユウの方を窺ってみる。無表情にトランクを提げて歩く彼はこっちを見ようとしない。
 日本に上陸した私達は、クロス元帥の使いを名乗る改造アクマというものに遭遇した。今私達の道案内をしてくれてるのもそのアクマだ。
「…………」
 本当は、ユウと話をしたい。
 でもしたくない。矛盾した思いが頭の中でぐるぐるしてる。
 ほんとは話をしたい。クロス元帥が本当に生きてて、しかもこの日本にいて、あのアクマは元帥の使い。元帥は私達の行動をちゃんと見てる。私のことも頭の片隅に置いてたり、思い出したりしてくれたかもしれない。四年も待ち続けた元帥。信じ続けた人。きちんと帰ってきてくれなかったけど、だから今から私が迎えに行く。待っててよかった、信じててよかった、心配かけてごめんねユウ、私もう大丈夫。元帥のことで泣いたりしないよ。困らせたりしないから。そんなことを言いたかった。
 髪を結び直すふりをしながら指先で自分の唇にそっと触れる。
 話を、したいけど。でもどうしてユウはあの夜私にキスなんてしたのか分からない。
 お前が悪いって、そう言われたけど。具体的にどこがどう悪くてどうしてキスなんかしたのか。ユウなのに。ユウのくせに。無意味に外套を口元まで持ち上げて隠してみた。ほんとに無意味だ、私。
『あっちはまずいなー。こっち』
「どうしてまずいんだい?」
『レベル3がうようよしてんだよいっつも。で通りかかった奴みんな壊しちまう。2のオイラたちにはまずーいわけー。共食いのこと説明したろ?』
「そうか。ふむ、なるほど」
 ティエドール元帥は普通にアクマと会話していた。レベル3の言葉にぴくりとミスティーが反応する。
 ここは、日本はアクマの国と化している。上陸のときも移動のときも何度襲撃を受けたか分からない。ここは危険な場所だ。でもティエドール元帥はここに用があるっていうし、クロス元帥のこともある。もう引き返す船はない。
「…おい」
「へっ」
「貸せ」
 距離を取ってたはずのユウがいつの間にか隣にいてぎょっとしてしまって、かなり裏返った声が出た。じろりとこっちを睨んで貸せって言ってくるからあわあわする。か、貸せって何を?
 とんと腕で抱えたままのトランクに触れた彼が「持つ」と言うから「いいよ、大丈夫だよ」と言ったけどじろと睨まれた。そうするともうすごすご差し出すしかなくなる。なんか、ユウ怒ってるし。
 ざくざくざくと無言で歩く私達をマリが微妙な顔で見守っている。
「…怒ってんのか」
「え? 誰が?」
「お前が」
「私? 怒ってるのはユウじゃ…」
「なんでだよ」
「だ、って」
 おずおず顔色を窺ってみる。じーと見つめたらきちんと表情が分かった。ぱっと見怒ってるか不機嫌かに見えがちなユウだけど、特にそうじゃなかった。目元を険しくしてるからぱっと見怒って見えただけで私の勘違いだった。なんだ、よかった。
 でもやっぱり不安が胸に残る。
 なんでキスなんかしたのって訊きたい。ユウは悪戯でそんなことする人じゃないと思うし、気紛れでもそんなことしないと思う。でもじゃあ理由は? 理由なしにキスってしないよね、普通。唇には。冗談で頬なら分かるけど。何気にファーストキスだったんだけど、どうしてくれようユウの馬鹿。
 ぷいとそっぽを向いて「怒ってません」と言いながら歩いていってぼすとティエドール元帥に抱きついた。「おや? どうかしたのかい」「いいえ、私も改造アクマくんと話がしたいなぁって」『ほー、かわいこちゃんなら歓迎』にたっとした笑みを浮かべたアクマににこっと笑みを返す。ほんとはユウから離れたかっただけで、特に話がしたいわけじゃないけど。でもクロス元帥のことを訊いてみたいかも。
 ちらりと肩越しにユウを振り返ってみる。ぱちと目が合った。
 ぷいと顔を逸らして「クロス元帥は元気?」とアクマに質問。機嫌よさそうに左右に揺れながら前を飛んでいくアクマが手にしているボールをぽーんと放ってキャッチした。『元気元気―、あの人さぁ殺しても死なないタイプだよねー』けらけら笑うアクマに私は苦笑いする。アクマからでもそう見えるんだ、あの人って。
☆  ★  ☆  ★  ☆
『そー、ふーん。あんたも大変だなぁ。あんな人四年も待ってんの? オイラにはわかんないな〜』
「元帥はいい人だよ」
『ふーんふーん。あんたあの元帥のこと好きなんだ?』
「うん」
 好き、の言葉に見事反応した自分が馬鹿としか言いようがない。ごんと必要以上の力で薪を割ってからはっとする。馬鹿だろ俺。視線だけであいつを窺ってみたがこっちを気にしちゃいないらしい。っつーかあれから無視を心がけてるようにも思う。
 あれから。俺が一方的にキスしてから、彼女は俺に近づこうとしない。
 当然と言えば当然だ。俺はあいつに何も伝えてない。どうしてキスしたのかも、好きだとも、何も言ってない。一方的にキスされていつも通りのってのも想像できない。あいつはそんな奴じゃない。
に何かしたのか』
「…竜か」
『ミスティーだ』
 いつからいたのかのそりとした動きで岩の上からこっちを見る金の両目に視線を逸らす。何かしたのかと言われればしたとしか言えない。
 かこんと薪を割って「別に。ただ俺の勝手だった。あいつ、俺のこと避けてるだろ」『そうだな。お前が悪い』「…うるせぇな分かってる」かこん、とまた一つ薪を割る。アクマと談笑する彼女を視界の端に入れながら「このまま放置はしない。ちゃんと話す」とぼやくと竜が目を細めた。背中の翼で飛び上がると彼女の方に飛んでいく。
 かこん、とまた一つ薪を割った。これでいいだろもう。どうせ長居はしないんだから。
 火に薪を一つ放り込む。空っぽの住居は長いこと人が住んでいた痕跡がなかった。身を隠すにはちょうどいい場所だと元帥がここで休むことを提案し、今に至る。
(…すぐそばか)
 アクマの気配に六幻の柄に手を置く。殺気や敵意を出せば間違いなく気付かれるからそれは抱かない。ただいつ襲われても抜けるようにはしておく。
 そろそろ荷物も手離す時期だ。この状況に手荷物はいざってとき邪魔になるだけ。
「大丈夫だ神田。音なら私が拾ってる。そう苛々するな」
「・・・してねぇよ」
 マリの声に一つ舌打ちしてどかと床に腰を下ろす。膝に頬杖をついてアクマとクロス元帥の話題で盛り上がっている彼女を見つめた。「ほんと!? 私のこと言ってたっ?」『言ってた言ってた。オイラの他の迎えとかにも説明してたぜ。まーエクソシストってコート見れば分かっちゃうのになー』「それもそうだね」くすくす笑う彼女。その姿を視界に入れながら「マリ」と呼ぶと「なんだ」と返ってくる。
 俺はあいつに、ああやって笑って、そばにいてほしいだけなんだ。失いたくないだけなんだ。
(上手く、いかないもんだな)
「…何でもない」
「……と同じことを言うんだな。喧嘩なのか?」
「喧嘩じゃない。俺が悪いんだ。そのうちちゃんと謝る」
「そうか。いつ戦闘になるか分からないから、時間のあるときに早く伝えた方がいいぞ」
「…ああ。分かってる」
 解いた髪に手をやる。適当にまとめてからもう一度結び直すときに借りたままの髪ゴムが目に入った。白薔薇の小さな飾りが揺れる髪ゴムが。
 ラビ。リナリー。それに気に食わないモヤシ。クロス元帥がこの日本にいるなら合流って形になるかもしれないなと思って髪を一つにくくった。
 がしゃんと派手な音がして落ちかけた瞼を持ち上げる。反射で六幻の柄を握ったところで、改造アクマが取り落としたボールを拾ってあわあわしてるあいつが見えた。ちっ、何してやがるは。
「おいどうした」
「ユウ、この子様子がおかしいの。なんだろう、急に」
 顔を押さえて『ううう』と唸ってる改造アクマに舌打ちする。なんだってんだよ鬱陶しい。抜刀して六幻の先を向けたら彼女が庇った。「駄目だよユウ、道案内してくれるのこの子だけだよ」と。顔を押さえて呻いてるアクマが『わりぃ、めちゃデケー送信が伯爵様から…っ』「、伯爵って」青い顔をした彼女が俺を見上げた。六幻の矛先を下げて外に視線をやる。特に敵意や殺意は感じない。
 アクマが言う伯爵って言ったら該当するのは一人だけ。
(アクマ製造者…ここにいやがるのか)
『めちゃめちゃデカい送信だぜこれ…、日本中のアクマを、江戸に、集める気だ』
「江戸だと?」
「私らが向かってるところじゃないか」
「…元帥」
 青い顔をした彼女が元帥を振り仰ぐ。がしがし頭をかいた元帥が「参ったねぇどうも。私らの侵入がバレてしまったのかな」『いや、違うと思うけど』ふらふらしてる改造アクマが危なっかしく飛ぶ。苛々しながら「なんだよ、つまりどういうことだ」と訊けばへへへと壊れた笑いが返ってきた。『まじー、これ、強すぎる…あいつに改造されて命令聞かなくてもだいじょーぶになったのに、こりゃ、無理だ』彼女の手からボールを拾い上げてふらふら飛んで外に出て行くアクマ。彼女が追うのか追わないのかと言った目を元帥とアクマに交互に向けている。
 どうせ答えは決まってる。マリがすでに出立のため荷物をまとめた。俺も水の入った鍋を残り火に引っくり返して火を消す。まだ青い顔をしたままの彼女の手をがしと掴むとびくっとした反応が返ってきて、こっちを窺う目にそういや話をしてないままだなと思った。けどもう時間がない。また時間のあるときに話すから、そんな顔してこっち見るな。俺はお前にそういう顔をしてほしいわけじゃない。
「準備しろ。荷物は俺が持つ」
「う、うん」
 慌てて開けっ放しのトランクを閉めに行った彼女。そのそばで竜が翼を翻してこっちを見ている。
(悪かったなきちんと話す暇がなくて。次に時間があったらちゃんとする)
「貸せ」
 おずおずトランクを差し出してくる彼女。トランクを二つ提げて俺とマリは後方、彼女は元帥の後ろつかせた。竜はいつものようにフードから顔を出している。金の瞳が険しいところを見るに、警戒してるんだろう。さっきから頭上を行くアクマが多い。
 この先に江戸がある。そこにアクマ製造者が来ている。製造者がいるなら恐らくノアもいると思った方がいいだろう。アクマの襲撃に混じって何度かデカブツを見かけたが、こっちを攻撃するわけでもなくただ見ていた。気付くと消えてたから戦えない奴なのかもしれないが、ノアだったら問答無用で斬るだけだ。
 改造アクマはふらふらしながら『こっちー』と先を飛んでいく。
 落ち着かない視線を左右に向けて剣の柄に手をやっている彼女。とんとマリが肩を叩いてきたからじろりと睨むと「隣に行ってやれ。後ろは私がいれば大丈夫だ」「……悪い」すっかり見抜かれている。目が見えないのに鋭い奴だ。
 ざくざく歩いていって彼女の横に並ぶ。不安でいっぱいの顔をした彼女が「たくさん飛んでるね。こっちに気付かないといいけど」と言って剣の柄を撫でた。トランクを持ち替えてその手に手を伸ばして握り締める。やっぱり小さい手だ。剣を握るには。
「こっから先が本番だ。そんな顔してると死ぬぞ」
「う…。うん、ごめん。しゃんとする」
 背筋を伸ばして一つ頷いた彼女。吐息して手を離そうかと思ったらぎゅっと握られた。前を向いたままの横顔に視線を投げると、口元を緩めて笑った彼女が「ごめん、やっぱり不安。離さないで」と言うからそっぽを向いた。小さな手を握り返して「分かった」とぼやく。

 アクマは破壊する。ノアも斬る。伯爵もぶった斬る。
 そして俺は、この手を守って、もう一度手を繋ぐんだ。