「…ちっ」
 三幻式の状態で再生能力を乱発したせいで、ノアを倒した頃には意識が霞んでいた。
 あいつは倒した。だが同時に六幻の限界がきて砕け散った。本部で修理しないともう使い物にならなそうだ。
 …身体に、力が入らない。再生能力で治るまでには、もう時間がない。
 ごばと音を立てて、この空間全体が崩れ始めていた。
 どうにか振り返った視界では出口の扉が地面と瓦礫の中に消えていくところ。
 立とうと膝に力を入れたがすぐに折れた。感覚がない。手にも足にも。かろうじて心臓が動いてるような状態で、立って歩く力が、残ってない。
 ぼんやりした視界にあいつが見えた。先へ行ったのだからここにいるはずもないのに、お前は、また泣いている。
 泣くなと言いたい。笑えと言いたい。お前が泣いてると俺がどうしようもなくなる。
 いつかに、ラビに先手を取られたこともある。泣いてたらそばにいて抱き締めてやればいいんだと思い知らされたことがある。そんなことこの俺が自分で気付くなんてことがあったらそれこそ奇跡に近いが、それでも悔しかった。自分が不甲斐なかった。
 お前は一人じゃない。竜がいつもそばにいる。俺がいる。ラビもいる。リナリーもいる。コムイもリーバーも、科学班の面々も。お前は一人じゃない。一人じゃないんだ。たった一人がいないからって泣くんじゃねぇよ鬱陶しい。
 たった一人がいないくらいで。
(あいつが、死んだら。俺は、泣く、のか?)
 ご、と音を立ててこの空間が崩れ落ちる。
 立てない。身体が動かない。
 砕け散った六幻に落とした視線の中に何かが混じる。目を細めたところでそれが左手の中指にあるはずの指輪だと気付いた。震える手を伸ばして、地面の砂ごと粉々になった指輪を握り締める。
(悪い…

 壊すつもりはなかったんだ。俺なりに結構大事に扱ってたんだ。さすがに、ノアとの戦闘で壊れちまったけど。
 お前の手にある指輪は壊れてないだろうか。壊したらまた買うっつってたけど、本当に買うつもりなのかあいつ。
 ……ここを出たら、お前にもう一度ちゃんと伝えようと思ってた。今度はこんな土壇場じゃなく、もっとちゃんとした場所で、もっとちゃんとした俺で、お前にもう一度。俺の気持ちを。
 それから。一応謝らないとな。指輪、壊して悪かったって。ちゃんと。

いま、きます

 ブーツの底で宙に浮かぶ白い階段を踏めば、かつんと高い音が響いた。
 リナリーの足が辛そうだったから、前からアレンに手を引いてもらって、私が後ろから背中を押しながら前へと進む。
「リナリー大丈夫? 足痛くない?」
「大丈夫、歩ける。って、とアレンくんに助けてもらってるんだから、偉そうに言えないんだけど」
「いえいえ、僕は全然構いませんよ」
 アレンがにっこり笑う。私も頷いて彼女の背中を押して階段を上がるのを手伝う。
 手袋越しのリナリーの体温に、正直とても安心していた。不安なときは人肌で安心できるっていうあれは本当だったんだなぁとこんなときに実感する。
 それは、触れている人が間違いなく生きている、と伝わるからだろうか。
 …不安だった。心がとてもざわざわしていた。最初の部屋にユウを、その次の部屋にクロウリーを置いてきてしまった。二人はまだ私達に追いつかない。どっちも地震で部屋が揺れて、私達はぎりぎりに抜け出している。
 二人は。二人は、もしかしたら。もう。
 キスした理由。俺がお前を好きだから
(…ユウ)
 唇を噛む。強く噛み締めた痛みで心を誤魔化したとき、ひょこりとラビに顔を覗き込まれてびくっと驚いてしまった。「大丈夫さ、オレ代わるぜ?」「ううん、大丈夫。私が一番怪我してないもの、大丈夫」ぶんぶん首を振ってどうにか笑ったとき、リナリーが小さな声で「強く、頑張らなくちゃ」と囁いたからぱちと瞬きして振り返った。「頑張る?」私が首を傾げるとはっとした顔でリナリーがぱたぱた手を振る。「あ、ううん違うの考え事。教団に帰ったらすぐ鍛錬し直さなきゃって、その」あんまり真面目な回答に思わずきょとんとする。すぐに鍛錬って、そんな無茶だよリナリー。
「うへぇリナリー何真面目なこと考えてんさぁ!? 帰ったらオレは寝る! 寝ますよそんなん、クタクタだもん! 誰か毛布かけといてさっ」
「ね、寝てもいいよ別に」
「私は、植木鉢が気になるかも…枯れてないかなぁ」
 世話をする暇なく部屋を出てきてしまった植木鉢を思い浮かべる。白い花。まだ咲いてるといいんだけど。
 アレンに視線を上げて「アレンは帰ったら何するの?」と訊いてみると、ぐっと拳を握った彼が「無論、食べます。ジェリーさんのありとあらゆる料理を全部」と胸を張るからまたきょとんとしてしまった。ああ、そっか、アレンもミスティーと同じでたくさん食べるんだった。
 ミスティー。ここにいない赤い鱗を持つ金目のあの子を思い出して、コートのフードを振り返る。空っぽだった。いつもの重みはない。あの子は多分、ティエドール元帥を護衛してる。私達に与えられた任務を全うしてるんだ。
 リナリーがペンタクルのマークに呑み込まれて、私はとっさに手を伸ばしていた。まさかこんなところに来るなんて思ってもみなかったけど。
「ぶっ、あは、ははは…っ」
 笑い声に顔を上げれば、チャオジーがいた。私達に注目されて恐縮したように笑いを引っ込めた彼が「あ、すいませんッス。なんか今のエクソシスト様達見てたら、オレらと同じ普通の人間みたいで…」怪我をしている彼が拳を握った。その手は、震えているようだった。
「神の使徒様なんていうから、全然ないと思ってたッス。冗談言って笑ったりとか…その、恐怖とか、そういうの」
「不安なときは楽しいことを考えるんです。元気が出ます、大丈夫」
 チャオジーの手に掌を重ねたアレンが優しく笑った。それに頷くチャオジーは泣きそうな感じで、私もじんわりきた。ぶんぶん首を振って涙を誤魔化したとき、『か〜っ、こんなときにのんきレロねぇ。そんな叶いもしないこと考えたってもう無駄レロ』レロレロうるさいかぼちゃ傘にパンチを食らわせてぷんとそっぽを向いた。喚いた傘が『痛いレロっ、暴力反対レロ!』とか言うからべぇと舌を出す。いちいち雰囲気壊すそっちが悪い。
 だけど、そんなかぼちゃ傘にさえアレンは笑って「そんなことないよレロ」なんて言うのだ。
 それが根拠のない言葉でも、笑顔を向けられれば、私はすごく安心する。不安を感じさせない笑顔のアレンに私も笑おうって思える。
「僕が教団に帰ってしたいことは、みんなでコムイさん達にただいまを言うことです」
「…うん」
「どんなに望みが薄くったって、何も確かなものがなくったって、僕は絶対諦めない」
「うん」
 アレンの笑顔が眩しかった。その笑顔を見習おうと思った。諦めないと言ってみせた彼がすごいと思った。だから私はぐっと拳を握って彼の言葉に強く頷いた。
 私は、諦めかけた。あの廊下が崩壊して、もうユウが追ってこれないって、思ってしまった。
 クロウリーだって、傷がひどかったのに置いてきてしまった。部屋の崩壊が始まってたのに。
 絶望という黒い闇が心を覆い始めていたところから顔を上げる。
(…ユウは諦めないよね。どんな状況だったとしても、絶対)
 彼を思う。人付き合いが皆無で、好き嫌い合う合わないが激しくて、強くて、一匹狼で、任務だから斬るとか戦うとかそんなのばっかりで、全然自分のこと大事にしなくて怪我ばっかりして帰ってきて、でも私には優しくて、私にとって誇らしくて、頼りがいのある人。

 彼にキスされた。好きだと言われた。
 私は、彼を、好きなんだろうか。

 白い光の溢れる階段の終わりにたんと踵をつけて、光の向こうへ踏み出したときだった。「アッレーン」と声がしたのは。ぱちと瞬いた視界の先で「ロードっ」とこぼしたアレンに抱きついてキスしてみせた一人の女の子に、みんなが目を点にしてる中、自分の唇に手をやってしまう。こんなときにユウにキスされた船でのことを思い出してしまった。
 茫然自失のアレンをラビがぶんぶん揺さぶって「おおいしっかりするさアレン、アレン!?」と声をかけるも、アレンは真っ白なままだった。かぼちゃ傘が飛んでいって『ロートたまああぁ! エクソシストとチューなんてしちゃダメレロっ』と声を上げる。
 唇から手の甲を離して剣の柄に指を這わせる。
 見据えた視線の先に、テーブルと長椅子があって、料理も並んでいて、ずっと向こうにノアが見える。ティキミック。ここまで繋がる鍵を寄越して、江戸でも戦った相手が。
「ロード何お前、少年のことそんなに好きだったの?」
「ティッキーにはしなぁーい」
 機嫌よさそうにくるくる回ってティキのそばに行くロードという女の子は、肌は白かったけど、多分変化するんだろう。黒い色に。聖痕のあるあの姿に。ティキと話をしてここにいるって現状を踏まえる限りあの子もノアの一人。
 私と目を合わせたティキが薄笑いした。「やぁお嬢さん」と。「ここまで辿り着いたな。包丁使いくんは置いてきちまったのか?」「………」私は答えなかった。そんな私に相手は肩を竦める。フォークを口に運んだティキが「待ってる間に腹減ってさ。一緒にどう?」と平然な顔で食事を勧めてきた。茫然自失から回復したアレンが「お断りします。食事は時間があるときにゆっくりしますから」と返すと、ナイフの方で上を示したティキが「その時間。あとどれくらいか知りたくない?」何気ない声でそんなことを言う。
 くすりと笑ったロードがかぼちゃ傘に腰かけてふわりと宙に浮かび上がった。「外、絶景だよぉ」という声に、見える空の色へと視線を投げてしまって、その下に広がるはずの光景を想像して、背中が寒くなる。
 駆け出してだんと柱の一つに手をついて覗き込んだ先には、崩壊していく白い町の姿があった。
 床から幾本もの柱が天井を支えているだけの窓も柵もないこの場所から見えたのは、塔周辺にあった最期の白い町が崩壊していく光景。どおんと音を立ててそこかしこが崩れ落ち、ゆっくりと、何もない空間へと消えていく。
 その景色に、自分の顔から血が失せていくのが分かる。
(ユウ…クロウリー……)
 そんな。それじゃあ二人は。私達を先に行かせるために残った二人は。
「ここ以外は全て崩壊し消滅した。残るは俺達のいるこの塔のみ」
 ワイングラスに口をつけたティキは食事を続けている。こんなときでも飄々と。
 ばたんと大きな音がして視線だけ向ければロードが扉を蹴ってしめたところで、「座りなよ」と私達に着席を促す。私はアレンを窺った。唇を噛んだ彼はティキを睨んでいる。
「座れよエクソシスト。恐ろしいのか?」
「………」
 誰が。ユウがいたら、きっとそんなふうに返して斬りかかっていっただろう。そう思ったら、少しだけ、自分を取り戻せた。
 ……たとえば。今見た景色の中に、彼らが消えてしまったんだとしても。私は。
 アレンが最初にテーブルに歩いていってがたんと乱暴に手をついた。私も彼に続いて長椅子の背もたれに手を触れる。
 ユウならやるだろうことを、私がここでやらないわけにはいかない。
 任務で斬るだけだ、なんてかっこいいことは言えないけど。アレン、ラビ、リナリーとチャオジーのためにも、私がここで諦めるわけにはいかない。
 用意されてる食事に手をつけるなんてことはできるはずもなかったけど、ティキはまだワイングラスを傾けていた。私は黙って目の前の白いお皿を睨みつける。どこまでもふざけてるみたいで、嫌な人だ。
「さて、やっとゆっくり話せるようになったな。少年」
 相変わらずの飄々としているティキと、にこにこ笑顔を浮かべるロードがアレンにひっついている。
 向かい側のリナリーが震えてるのが分かってぎゅってしたくなった。強制開放の影響でリナリーは今イノセンスが発動できない。彼女はとても不安になっていると思う。私よりもずっと。できるなら、大丈夫だよ、私が守ってあげるからねって抱き締めてあげたい。
「そんな顔すんなって。罠なんか仕掛けてねぇよ。イカサマはしないって言ったろ?」
「大丈夫だよぉアレン。ボクの扉は塔の最上階にちゃんと用意してあるから」
「…ちゃんと外に通じてればいいんですが」
 アレンから視線を外して隣のチャオジーを見てみる。こんな状況下で不安なんだろう、震えが見て取れた。ラビに視線だけ向けると視線で頷かれる。オレは大丈夫だってことだろう。うん、私も大丈夫だよラビ。
 私達のうち二人は戦えない。戦闘になったら守らないと。
 これが、ユウの言ってた弱点になるってこと、なのかな。
「話したいことってなんですかティキ・ミック卿。それとも手癖の悪い孤児の流れ者さん?」
「そうツンツンすんなよ少年」
「……この左腕のことですか?」
 アレンが掲げてみせた左腕に、ティキが意地の悪い笑みを浮かべた。寄生型のイノセンスが形を変えるっていうのはそんなに珍しい話じゃないと思った私だったけど、ティキの言葉の続きを聞いて愕然とする。
「実はけっこー衝撃だったんだよね。確かに壊したハズだったんだけどな」
「壊せてなかったんでしょう。ここに在るんだから」
 無言の火花を散らすティキとアレン。そろそろアレンの左腕に視線をやって「ねぇ、壊したってどういうこと?」と訊ねるとアレンがぎくっとした顔をした。まさかアレンの左腕が前と形が違うのって。「あ、ええとそれは」「あれぇ、何少年内緒にしてたわけ? ティーズに心臓喰われたことも?」「し、」絶句する。アレンが慌てて手を振って「あ、ごめんなさいちゃんと話そうと思ってたんですよ! それに、イノセンスの一部が心臓として機能してくれてます、問題ありませんっ」「ほんとに…?」「はいっ、このとおり!」困った顔で自分を指して笑ってみせるアレンに、私は絶句状態からどうにか立ち上がる。「心臓って…っ」「アレン聞いてねぇぞ! お前そんな傷負ってんのか!?」リナリーとラビだって当然驚いてアレンを問い詰めたけど、アレンは笑って「はい、でも大丈夫ですよ」と言うだけ。
 そういえば私、アレンから大丈夫じゃないとかもう駄目かもなんて言葉聞いたことないな。
 …私はすぐ泣いちゃったりして、その度にユウに甘えてた気がする。私も強くならなくちゃ。強く在らなくちゃ。アレンみたいに。
 じゃないとまたユウにもみんなにも迷惑をかけるときが来てしまう。
 ティキがマッチをすってくわえた煙草に火をつけた。意識をノア二人に戻して集中する。いつでも剣を抜けるように、戦えるように。
「ロード。そろそろ少年から離れてくんない?」
「え〜っ、愛してるのにぃ!」
「コラコラ。エクソシストとノアの恋は実らねぇぞ」
 ふーと煙を吐いたティキが席を立つ。その姿を視界から外さないようにしながら剣の柄にそっと指先をかける。
 ドラグヴァンデル。ここまでの戦闘でそれなりに消耗してる。これ以上の長期戦はなるべく避けたい。だけど、そんなことを言ってられる相手でもない。
「俺ね。千年公の終焉のシナリオっての? 遊び半分で参加してたんだけどさ。やっぱ悪はそうでなくちゃな。うん、少年のおかげでちょっと自覚でてきた」
 ちん、と鞘から剣を少し抜く。つま先から頭の上まで、全身を意識して目を細めて状況を見つめる。
 やれる。ううん、やるんだ。ユウがいたらそうする。だから私もそうする。理由はそれで十分。
 煙草を吸ってふーとまた煙を吐いたティキが、「退治っての? 本気でやんねぇとなってのが分かったわ」それとほぼ同時に視界を何かが舞った。視界に捉えた違和感に反射で抜刀しながら、視界に捉えた場違いな大きな黒い蝶がリナリーの肩に触れそうに、
(しま、)
 しまった。そう思った私が抜刀し切る前に、アレンの左手の爪が蝶を貫いた。
「ティキ・ミック。僕も一つ言っときたいんですが。これ以上僕の仲間に手をかけたら、僕はあなたを殺してしまうかもしれません」
 だんとテーブルに足をかけて乗り上げたアレンが「リナリー信じてて。あいつは僕が行く」と残して駆け出した。今度こそ抜刀した私は視線をティキとロードに向ける。どうする、どっちと戦う? ティキが強いのは分かってる。だけど戦えない二人をラビだけに守れなんて言えない。なら私は。
 かぼちゃ傘に乗って私達の前に下り立ったロードが戦場には場違いな笑顔でにこっと笑った。
「ボクと遊ぼー、ブックマンに
 方舟消滅まで、刻限は、あと僅か。