アレンがティキに一人で向かっていった。いくらアレンのイノセンスが強くなったって言っても、ティキ相手に一人はやべぇ。思考の傍らでそう思い、頭端で違うことも思う。こっちには二人戦えない奴がいる。守りながら戦うのなら、一人はキツい。
 なら三人いる戦士のうちティキにはアレンが適任か。オレは江戸で全然ダメだったし。
 ティキとオレ達の間に立ち塞がったロードは、かぼちゃ傘に乗ってオレとに笑顔を向けて「ボクと遊ぼー、ブックマンに」と上機嫌な声で笑った。同時にばんと音がして振り返れば、リナリーとチャオジーがサイコロみたいな箱に閉じ込められて空に浮かび上がったところだった。
「リナリっ、チャオジー!」
「だ、大丈夫だよ。閉じ込められただけみたい」
 ほっと息を吐いたが剣を構え直す。まっすぐロードを睨みつける視線にオレも槌を抜いた。
「今は閉じ込めるだけにしといてあげる。ね? 遊ぼうよ二人とも」
 発動、と胸のうちで唱えて槌を構えやすいサイズにする。
「ノア一族の長子ロードだっけ? 勝ったら二人を放すって条件さ」
「うん。いーよぉ」
 がじりっと歩幅を広げた。オレも槌の柄を握り締めてロードに照準を定め、ノアを倒す計算を頭の中で繰り広げる。オレ達は二人、相手は一人。全く勝ち目がないわけじゃない。上手く運べばいけるかもしれない。とならもしかしたら。
 頭の中で目まぐるしい数字と情報が巡って帰結しようとしたとき、どろりとしたものがロードの後ろから溢れ出た。それはあっという間の速さで避ける間も防ぐ術もなくオレの視界を覆った。
「ラビっ、!」
 リナリーの声。それを境に、ぶっつり視界が途切れたが、それも一瞬だった。はっとして意識の焦点を戻せば、現実味のない世界の中にオレ一人が立っていた。チェス盤が地面となって広がってる世界で視線だけで周囲を確認する。誰もいない。さっきまで隣にいたもいない。どういうことだ。ここは、どこだ。
(落ち着けオレ。ロードの能力は空間移動。ってことは、どこか別の場所に飛ばされたか…)
 くすくすくすと笑う声がして振り返れば、チェス盤から生えたみたいな感じでロードの形をした駒っぽいものが笑ってる。
「…何笑ってんさ」
「ふふ〜。もしかしてぇー、どこか別の場所に移された〜とか考えてるのかなぁと思ってー」
「もしかしなくてもそうじゃんよ。で? お嬢さんはいつまでそんなチェス盤みたいな柄で床に生えてんだ? 戦う気あんの?」
 こんこんと槌で駒を叩く。ロードの形の駒はくすくす笑っている。「ぶ〜、ボクは戦わないよぉ」と。「は?」思わず顔を顰める。戦わないってなんじゃそりゃ。戦わないでどうやって勝負決めるっていうんだよ。
「ホラ来たよ。君の戦うべきモノが」
 背後に気配を感じて槌を振り被って構えて、目を見開いた。
(オレ?)
 右の眼帯、隻眼。鏡で見知ってる自分の顔を持った奴がそこに立っている。
「オレ、なわけねぇよなぁ」
 槌に手を触れてハンマー部分で火を選択、炎を纏わせる。マル火、劫火灰塵直火判。振り被って殴り飛ばしてやろうと思った槌に手を伸ばして触れたもう一人のオレ。その瞬間火が消えた。オレの意思に関係なく。
「ダメさ。お前は今精神だけ連れてこられてんだ。イノセンスはないんだよ」
 ぴし、と亀裂の入る音がした。「なっ」と漏らした先から言葉をなくす。手にしてた槌がぼろぼろと崩れてチェス盤の床に散乱したのだ。跡形もなく。
 ただの鉄屑と化しているイノセンスから目が離せない。
 唯一ノアとアクマとやりあえる武器が、こんな簡単に? そんな、馬鹿な。
☆  ★  ☆  ★  ☆
「おい、
「、」
 呼ばれて、ぱちっと目を開けてがばっと勢いよく起き上がる。
 視界に入ったのは、クレープ。甘いにおいのするおやつだ。そのクレープを持っている人の手を視線で辿って見上げれば、よく知っている人がそこにいた。
「ゆ、ぅ」
「あ? んだよその顔。お前がほしいってうるさいから買ってきたんだろうが」
 びしと私の鼻先にクレープを突きつけた彼が苛々した声でそう言う。「あ、りがとう」おずおずクレープを受け取った私にの隣にどかと隣に座り込んだユウは、お茶の缶をぷしゅっと開けたところ。
 周りに視線をやってみればそこは公園で、砂場で子供が遊んでいて、ブランコにも子供がいる。順番に並んで「次オレー」「その次わたしー」とはしゃぐ声がここまで聞こえた。鬼ごっこできゃーきゃー言いながら遊んでいる子供もいる。公園の風景だ。とても平和な光景。
 …でも。何かがおかしい。
(私、さっきまで何してたんだっけ…?)
 もふりとクレープを食べながら眉根を寄せる。チョコバナナの味がする。甘くておいしい。じゃなくて。
 さっきまで私は何をしてたっけ? 何か大事なことを忘れている気がする。
 おかしいな、どうしてユウの顔を見て驚いたんだっけ? 私、何かを忘れて。
「おい」
「ふぉ?」
「ついてる」
 私の頬に触れた指先がクリームをすくっていった。ぱくと指をくわえた彼が思いっきり顔を顰めて「くそ甘い」とぼやくから、私は思わず笑ってしまう。口直しとばかりにぐびぐびお茶缶を呷る彼に自然と笑みが漏れた。
 何かを忘れている。そう思ったのに、重要なことを忘れているんじゃないかと抱いた危機感が、どこかへゆるゆる流れていってしまった。それは、クレープの甘さのせいか、それとも隣にユウがいて安心してるせいなのか。
 最後のクレープの一欠片を口に入れてむぐむぐ頬張る。ああおいしい。甘いものってどうしてこんなにおいしいんだろう。
「…食ったら行くぞ」
「え? どこへ?」
 じろりとこっちを睨んだユウに首を竦める。そんな怖い顔しなくても。「いつまでもふざけてるなよ。今日は挨拶しに行くんだろうが」「…? 挨拶?」さらに首を捻った私にユウがぴきと青筋を浮かべた。ぎくっとする。お、怒ってる。
 がしと私の左手を掴んで「これをなんだと思ってる」そう言った彼が薬指を示す。そこにはダイヤの光るシルバーのリングが一つ。
 じっと指輪を見つめてから視線を上げて彼の顔を見てみる。不機嫌そうにこっちを睨んだいつもの顔だ。それから手の方に視線を落としてみる。私の手を掴んでいるユウの左手の薬指にも指輪が。
 どうして中指じゃないんだろうと思考のどこかで引っかかりを憶える。
「あっ」
「あ?」
「は、方舟っ」
 思い出してがったんと勢いよくベンチを立ち上がって上下左右忙しなく視線をやる。ロード、と戦うところだった、そうだよね私。ね。ロードの後ろから何かどろってしたものが見えて、剣を構えてそれから。それから?
 腰に手をやってすかと空を切った指先に自分の格好を見れば、教団の団服じゃなかった。膝丈の淡いピンクのワンピースだった。ばっとユウを振り返れば同じく団服じゃなくて、白いシャツに緩くネクタイを締めた普通の格好をしている。
 剣がない。ドラグヴァンデルが、イノセンスがない。
 怪訝な顔で私を見たユウが「何してんだお前」と言うから、いやいやそっちこそ何してるのと思ってがしとユウの肩を掴んだ。「ユウ怪我は?」「ハァ?」「怪我、だってノアと、一人で戦って」「ノア? なんだそれ。お前寝ぼけてるのか?」呆れたって顔で私の額を小突いた彼。呆然とする私の手を掴んで「もういい行くぞ」と言って歩き出すから慌ててついていきながら「ちょ、待って、ねぇユウ」「なんだよ」「ここ多分ロードの」続けようとした私の口をばしんと手で塞いだ彼が怒った顔で「さっきから訳分かんねぇことばっか言うんじゃねぇ」と苛々した声を出す。
 むぐと押し黙った私は、大人しく彼についていきながら、辺りに窺う視線を向ける。
 公園から出て、煉瓦の舗道を歩くユウ。彼についていく私。街は穏やかな活気に包まれている。パラソルの下で市場が開かれ、野菜や果物に始まって色々なものが売っている。
(どういうこと? ロードの能力は、空間移動って聞いた、ような)
 空いてる片手を口元に当てて考え込む。
 武器がない。剣がない。服だってさっきまでと違う。それにユウは、まだ追いついてなかったはずで、方舟の中で別れたままのはずで。ここに、私のそばにいるはずがないのに。
「あの、ユウ」
「なんだよ」
「あの、どこ行くの?」
「お前んち」
「なんで?」
「だから挨拶しに行くんだってさっきから」
 苛々こっちを振り返った彼。私の表情は曇っていた。だって私に家なんて呼べる場所はない。教団の自室だけが私の部屋と呼べるものなのだ。私のうちなんてあるはずない。
 彼が気付いたように酒樽の並ぶお店に私を引っぱり込んだ。まさかここが私の家なんだろうかと思ったけど、ユウは棚を見上げて私の手を離した。ロマネ・コンティのラベルのついたお酒の瓶を手にするから買い物なんだなと少しほっとして、それから驚く。あれ、ユウってお酒飲むっけ?
「それ、飲むの…?」
「ああ? 俺が飲むわけないだろ。手土産一つくらいなきゃさすがにまずいだろうが」
「? そうなの?」
 首を捻る私に彼が舌打ちしてお酒をカウンターに持っていく。
 彼が支払いをすませている間ちらりと外を窺ってみたけど、敵意や殺意は感じられなかった。
 ロードは一体どういうつもりでこんなことを。そもそもこれは現実、では、ないよね。アレンがいないしラビもリナリーもいない。私の知っている人はユウだけだ。ならここが時間の流れた現実であるはずがない、よね。
 戻ってきた彼が私の手を取る。「行くぞ」と。「うん…」と返しつつ振り返る。何も、おかしなところがない。それが逆に不自然に感じる。
「なんだよ。さっきから落ち着かないなお前」
「だって」
 普通の格好をしているユウの腰にも六幻の鞘はなかった。普通の人ならこれでいいんだろうけど、私達はエクソシストだ。イノセンスを扱う戦士だ。アクマを倒しノアと戦い千年伯爵を倒さんとする神の使徒。だったよね、私。
 急に自信がなくなった。ユウの手は憶えのある温度だったし、その声もその姿も全て憶えのあるものばかり。握られた手を振り解くことができない。これはロードが生み出した幻なんじゃないかと思っても彼の手から抜け出せない。
 ……私、こんなふうに。ユウと一緒にいたいと、思っているのかもしれない。
 少し歩いて、一軒の家に辿り着いた。こじんまりとしてるけど二階建ての家だ。ユウがとんと私の背中を押すから一歩二歩進んで振り返る。「俺が先に入ったら変だろ」と言われて二階建ての家をもう一回振り仰いだ。
 憶えはないけど、これが私の家、なのかな?
(っていうか、挨拶って、これの…?)
 じっと左手の薬指を見つめてしまう。
 視線を剥がして恐る恐る家のドアノブを握って、そろりと開けた。簡素に見えた外観に対し家の中は何か豪華で、玄関から赤いカーペットが敷かれている。背中を押されて玄関に入りながら恐る恐る赤い絨毯をブーツで踏みつける。
 赤い色。
「帰ったかー、遅いぞ」
「、」
 聞こえた声に、それまで考えていたことが全部頭から飛んだ。踏むのを躊躇っていた赤い絨毯を蹴ってリビングと思われる部屋に駆け込んだら、赤い髪が見えた。ワイングラスを弄ぶ手が見えた。
 椅子に腰かけてこっちを見たその人は、私が望んでやまなかったクロス元帥その人で。
「元帥っ!」
 抱きついた私に元帥が「ああ? なんだお前、昼間から」と呆れたような声を出して私の頭をわしゃわしゃと撫でた。元帥の服に染み込んだ煙草のにおいが懐かしくて視界がじんわりした。
 元帥。元帥だ。元帥がいる。
「来たかガキ。よくもオレのかわいい娘をたぶらかしてくれたなぁオイ」
「誰もたぶらかしてません」
 どんとテーブルにお酒の入った瓶を置いたユウが「があんたの娘なのは俺が不満に思ってることの一つです」とぼやいてじろと私を見た。元帥に抱きついて離れない私に「おい」と棘のある声を出す。こっちに来い、と暗に言っている。
 顔を上げると、元帥は眼鏡をしていたけれど、顔の半分を覆うあの仮面のようなものは存在しなかった。
 こんなにも似ている。声も、姿も、私の知っている元帥そのままだ。だけど断罪者はないし聖母ノ棺だって見当たらない。
 これは、やっぱり、現実じゃないんだ。そうだよ私、しっかりして。

「気付いたぁ〜?」

 ぽーんと小石を落としたような声に振り返る。部屋の入り口にロードが立っていた。拳を握って「ロード」と漏らすと彼女がくすくす笑う。くるくる回って部屋に入ってきながら「かわいい夢だよねぇ、ささやかで現実的。でも実現しそうにないこと」と言葉を並べてぼふとソファに座り込む。剣を取ろうと腰にやった手が空を切った。そうだった、イノセンスがないんだった。どうしよう。
 二人はロードに気付いていない。私の挙動にユウが眉を顰めて元帥が「どうした」と私の髪を撫でる。
 意識が。定まらない。
「いい夢でしょう?」
 にっこり笑ったロードに、私は唇を噛む。「みんな幻、なのね」と言葉を絞り出す私に「キミの心を忠実に再現したんだよ」とロードが両手を広げて笑う。
「声も姿も体温も、ぜーんぶキミが記憶してるものそのまま。どう? 彼らのデキはさ」
「…っ」
 剣がない。攻撃手段がない。殴るか蹴るか、一般人のそれしかない。そんな攻撃がノアに効くとは思えないけど、でもやるしか。

 だんとテーブルに手をついてユウが私の視界を塞いだ。ロードを見失ったことに一瞬慌てた私に「いつまでそうしてるつもりだ。隣来い」と言う彼は、本当にロードのことが見えていなくて、そして、エクソシストでない。
 これは幻。本物じゃない。元帥もみんな違う。触れるもの見えるもの聞こえるもの感じるもの全てが偽物だ。自分にそう言い聞かせるのに突き放せない。
 だってこんなに。こんなに近くにいて、触れられて、声が聞けて、その姿があるのに。
 一瞬意識から外しただけだったのに、もう一度ソファを見たときにはそこにロードはいなかった。やわらかい陽光が射し込んでいるだけで、何もない。まるでロード自身が幻だったとでもいうように。
 ぐいと腕を引かれて、怒った顔のユウに「来い」と再度言われて、そろそろ元帥から離れてユウの隣の椅子に座った。元帥がテーブルに置かれたラッピングされている酒瓶を面倒くさそうな手つきで手に取る。
「これはなんだ」
「開けてみればいいでしょう」
「お前なぁ、これから嫁にもらおうって親にそれじゃあ駄目だろ」
「これでも精一杯です。俺はあんたが嫌いだ」
「言ってくれるじゃねぇかこのパッツンガキ」
「年中酒と女のあんたに言われたくない」
「なぁーにぃー?」
 テーブルを飛び交う言葉に、ロードを捜していた意識が二人にいってしまった。いがみ合っている二人がそこにいる。私にとって大切な人達がそこにいる。
 でも、これは夢なんだ。幻なんだ。現実じゃないんだ。しっかりしなきゃ。しっかりしなきゃ私。
 ラビが。リナリーが。アレンが。方舟に。ユウと、クロウリーを、置いてきて。私は。

「うん?」
「俺のこと好きだろう」
 じろとこっちを見たユウがそんなことを言う。きょとんとした私に元帥が「無理せんでいいぞ。嫌いなら嫌いってはっきり言ってやれ」とか言うから困ったなと笑う。
「嫌いじゃないです、好きです」
 ぽろりとそう言ってしまってから我に返る。ふんとそっぽを向いた彼がどかりと椅子に座り直して「そういうわけでコイツはもらってきます」とか言う。
 …こんなところでふと思う。
(ああそうか、私。ユウのこと。好きなんだなぁ)