どさり、と人の倒れる音にからからんと金属がはねる音が続いて、視線だけで確認するとが倒れていた。ラビの様子もどこかおかしい。半透明なサイコロのような箱がある。分かったのはそれくらいで、ティキの攻撃を防ぐため突き出した左腕でどんと重い衝撃を受け止める。
 あのとき、壊れかけた左腕は動かなかった。何もできないままイノセンスは破壊され、僕は死んだ。
 今は自由が利く。左腕は動くし身体も動く。
 コムイさんは言った。ノアに正面から立ち向かってはいけないと。ノアがイノセンス弱点とするように、イノセンスもまたノアを弱点とする。光と闇のように均衡な関係性。僕の進化したイノセンスであってもそれは変わらない。
「おや、あのお嬢さんもロードにやられたのか。大丈夫かねぇ」
「っ、」
 左腕を振るう。飛び交う蝶型の食人ゴーレムを引き裂いて跳び退れば、ティキの両腕があの日の夜ように光を纏う。イノセンスを破壊するノアの力を。
「へぇ、逃げないのか?」
(すみませんコムイさん。僕は、逃げない)
 向かってくる光の塊に左腕を構え右手を添えた。イノセンスの光を纏い、ノアの光を相殺しようと全身の力を込める。
 それでもティキの力は強大だった。力を受け止め切れずに身体中が軋んでいる。ここまで戦闘を続けてきた疲労も蓄積されて、自分の全てが、悲鳴を上げている。
「ぐ…っ」
 負けるわけにはいかない。退くわけにはいかない。出口がかかってる。仲間の運命がかかってる。ここで僕が倒れるわけにはいかないんだ。
「受け止められやしないぜ? これは絶対の力! お前らエクソシストに取り憑いてる神とやらから解放してやるよ少年!」
 光が強くなる。くそと歯噛みする僕の目の前で、左腕にぴしと亀裂が入った。
(耐え、きれない)
「砕け散れ。アレン・ウォーカー」
 どんと吹き飛ばされた先で背中を叩きつけることになって、息が詰まった。
「アレンくんっ!」
「…、」
 リナリーの。声がする。
「一度じゃムリだったか…進化しただけあってなかなか頑丈だね。だが次で終わらせる」
 かつと靴音がした。「抵抗するなよ? 少年」とティキの声が。こっちに歩み寄る靴音がする。
 身体が。重い。
(ノアを…ティキ・ミックを止めないと。出口から、外へ…みんなを……)
 意識がぐらつく。左腕が痛い。痺れるようにじんじんしている。
 イノセンスを破壊されたあの夜のことを思い出す。
 結局に、話をする時間がなくて、スーマンのことも、この腕のことも、アジア支部であったことも何も話せずにいる。
 話をしたい。僕の話を聞いてほしい。いつものように笑ってほしい。僕の話にただ頷いてくれるだけで構わないから、言葉を、想いを、聞いてほしい。
 君は笑うだろうか。アクマも人も、どちらも大事で、どちらも譲れないものだと言う僕を。笑うだろうか。戦場の中で矛盾した想いを掲げる僕のことを笑うだろうか。
「起きてッスエクソシスト様っ! 起きてっ!」
「来ないでっ、彼に、私の仲間に触らないでよっ!」
 リナリーの声がする。チャオジーの声がする。
 どうにか顔を上げて前を見ると、ティキが見えた。ノアの光を纏っている彼が。
「心までは…砕かれるもんか。貴方達、闇から」
 ぎ、と軋む左手を動かす。動けと命じる。「絶対、逃げる、もんか…っ」左腕に添えた右手。ばんと箱を叩いたリナリーに笑いかけて、視界の端に見える倒れたままのに目を細める。息はしてる。眠っているのか、気を失ってるのか、それともラビと同じでロードの能力に侵されているのか。
 助けなくちゃ。守らなくちゃ。そう思った自分に口元を緩める。
 大丈夫。僕はまだ戦える。
「どうした? 腕を壊されて嬉しいワケねぇよな?」
「…ティキ・ミック。あなたはエクソシストのことを誤解してますよ」
 ごほ、と咳き込んでから手の甲で血を拭う。「対アクマ武器のイノセンスさえ壊せばエクソシストはただの人間だと思ってる。なんの力もないただの人間だとね」「……」歩みを止めたティキに目を向ける。向こうもまっすぐこっちを見ている。
「貴方達が本当に恐れるべき相手は、その人間ですよ」
 左手の十字架に意識を向ける。
 僕はまだ戦える。まだ戦いたい。だから戦う道を選ぶんだ。守りたいものがあるから。
「僕の心がイノセンスと結ばれてる限り。その器である身体が滅びない限り。僕がエクソシストである限り。僕の大事なものが、この世界に在る限り…!」
 掲げた左腕が光を纏い、自己修復を完了した。
 僕の後ろにはリナリーとチャオジーとラビ。すぐそこに倒れている。方舟のどこかにいるはずの神田とクロウリー。
 僕が守りたいものが、この世界にある限り。
「そう容易に、この神ノ道化は砕けません」

 僕は、絶対に諦めない。
☆  ★  ☆  ★  ☆
 破壊しても破壊しても、巨人形態のアクマが次々に集ってくる。日本の役九割がアクマで占められているということを考えれば当然のような話ではあるが、正直遠慮したい現実であるのも事実だ。
「ミスティー、無理をしないでくれ」
『分かっています』
 爪の先でアクマを引き裂きがぱりと口を開けてその手足を噛み砕く。その巨大さ故にゆっくりとした動きしかできないアクマの手足をもいで最後に頭を噛み砕く。二度と起き上がることのないように。
 別のアクマから放たれた光線が身体を貫けば痛みはある。さすがに個々のアクマのそれより威力は強いが、私の身体はすぐに再生する。問題ない。
 ばさりと翼をはためかせて飛ぶ。放たれる光線を回避しながら大口を開けて炎の球を放つ。弾丸の速度でアクマに突っ込んだ炎は対象を焼き尽くすまで止まらない。
 に、続くべきかどうかの一瞬の判断の迷いで、私は彼女とはぐれることになってしまった。
 今回の任務はアクマとノアに狙われている元帥を守護すること。それを忠実に考えるなら、私はこの場に留まるべきだと思ってしまった。その数瞬の思考の迷いが私と彼女を決別させた。
 リナリー、アレン、神田、ラビ、クロウリー、チャオジーの面々がペンタクルの模様に吞み込まれてこの場から消えた。そのすぐあとに空にキューブの形の方舟が現れた。消えた七人の行方は恐らくあそこだ。
(やはり追うべきだったか)
 ティエドール元帥、マリ、ブックマンと共にアクマと対峙しながら考える。
 戦力は十分とは言えない。彼らのうち二名は戦闘ができないと考えていい。あの方舟に江戸で遭遇したノアが全員集っているとしたら分が悪すぎる。
 神田もラビも彼女を守るだろう。アレンもそうだろう。分かっている。も戦うだろう。もう怪我を負っているかもしれない。
 彼女には私ができうる限りの呪いの数々をかけて守ってはいるが、やはり、私は彼女から離れるべきではなかった。
『鬱陶しい奴らだ』
 どおんと音を立てて巨人が倒れる。その頭を振り上げた尾で叩きつけて粉砕する。
 壊しても壊してもどこからともなくアクマが現れる。
 視線を上げて空に向かってがぱりと口を開ける。幸いにというか、伯爵がこの場をまっさらにしてくれたおかげで、周囲を巻き込んで攻撃できる、その点だけは先ほどから助かっている。要は巻き込んで全て破壊すればいいのだ。私の力が尽きるまで。
 ここに彼女はいないのだから。私が守るべき愛おしい存在は、そばにいないのだから。
 やるべきことは元帥の守護。エクソシストが欠けることを防ぐこと。ただアクマを破壊すること。彼女の無事をただただ祈ること。
 炎を纏う。いっせいに光線を放ってくるアクマに向けて私は突進する。
 今は神田達を信じて戦うしかない。彼女が戻ることを信じて、ミスティーと笑って私を抱き上げてくれることを信じて戦うしかないのだ。
☆  ★  ☆  ★  ☆
「ラビ。お前がどこへ行けるっていうんさ? ブックマンの跡継ぎとしてどこにも心を移さず生きてきたお前に、戻る場所なんてあるわけないだろ?」
 もう一人のオレが喋っている。よくできてるジジイの偽物や、教団に入ったときの記憶が再生されているせいか、見ている物全てにリアリティがありすぎた。
 へっと笑って「そんなこと分かってら」と軽口を返す。だけど、心では別のことを思っている。
 どこにも心を移さず生きてきた自分。そうであればよかった。それがブックマン跡継ぎの姿だった。
(だけど今のオレは)
 向かい側には「どうだか」と笑うもう一人のオレと、その隣にいる傍観者のままのジジイ。
「お前は人と悪魔の内で心を毒されておる。昔のお前の隻眼はそんな弱い光を灯してはいなかった」
 たとえ夢の中だろうがジジイはジジイのままかよ、相変わらず口うるさい。そう思ったとき視界の横を何かが通った。記憶とは違う景色に視線だけやって目を見開く。川を流れてきたのは棺に入ったリナリーだった。
「リナリ…っ」
 ざばんと水に入って棺に取りついて彼女を抱き起こす。「どうしたラビ?」と後ろからオレの声がする。感情を含まない自分の声が。「そんなのただの歴史の一部にすぎないだろ?」と声がする。
 顔を上げた先、さっきまで川だったところが一面全て棺に変わっていた。その光景にぎりと強く歯を食い縛る。
 歴史の一部。ああそうだ。いずれこうなる。今いる場所すら過去になる。ただの記録地になる。アクマとの聖戦という名のもとに捧げられた命は全て歴史の闇に抹消される。棺に入れられ、誰も終着点を知らない川へと流される。分かってるんだよそんなことは。
 ごつん、と脇に当たった棺の感触に視線だけ向けて言葉を失った。
 が。
…っ、っ!」
 リナリーを寝かせてに手を伸ばす。彼女は動かなかった。息をしていなかった。冷たかった。生き物の体温をしていなかった。唇が紫色になっていて顔色が白すぎる。死人。彼女は死んでいる。
 言葉が出てこなかった。ただかたかたと腕が震えていた。
 どうしてこうなった。どうしてこうなった。
(落ち着け、落ち着けオレ。これはオレの記憶を読んだ幻、夢なんだ。現実じゃない。夢だ。夢だ。手離せ。手離せっ)
 腕が震える。死んでいる彼女から視線を剥がせない。
「どうしたラビ。顔が真っ青だぜ」
「く…っ」
 一面に敷き詰められていた棺がかたかたと音を立てて口を開けていく。中から出てきたのは見慣れた顔や見知った誰かの姿。「ラビ」とオレを呼ぶ。ゾンビのような顔色でふらふら起き上がってくる全員が「ラビ」とオレのことを呼ぶ。それなのに彼女が起きない。目を覚まさない。どうして。どうしてだけが!
(これは、幻だ)
「そうだ幻だ。我らが記す歴史の形、人間という名の紙上のインク。インクは書き手に語りかけはせん。お前はインクを引く度にいちいち心を痛めるのか?」
「ち…幻でもうるせぇなジジイは」
 抱き起こした彼女の肩を抱く。やっぱり冷たい。顔が白すぎる。生気がなさすぎる。亜麻色のきれいな髪には弾力がない。瞼は落ちたまま持ち上がらない。
 嘘だと言ってほしい。幻でもオレはこんなもの見たくない。

「我ら一族の役目とは何か? ラビ」
「…やめろよ」
「何を捨ててでもその一つのために、世界の框の外で生き続けるのが我らブックマンであろうが」

 ジジイの正論が耳に痛い。ブックマン然としているジジイがうるさいと感じる。
「ら、び」
 呼ばれた。リナリーの声に。振り返るとリナリーが起き上がっていた。「わた…しは。まだ」手を伸ばそうとしたところでその手にナイフが握られているのを見てとっさにを抱きかかえて跳び退る。び、と掠った一撃で頭のバンダナが切れて落ちた。
「わたしは、まだ、せかいのなかにイる…?」
 憶えのある台詞だ。当たり前だ、最近聞いたものなんだから。これもオレの記憶から再生されてるのか。ほんと、よくできてる。
 ぴく、と腕の中の彼女が震えた。はっとして視線を落とす。彼女がオレを見ていた。確かに死んでたはずなのに、いつものようにやわらかい笑顔で笑って「ラビ」とオレのことを呼ぶ。周囲でラビラビラビとうるさい中で彼女の声だけはよく聞き取れた。それだけオレって人間が彼女を意識してるってことになる。
、」
「リナリーだよ? どうして避けるの?」
 ふらりと立ち上がった彼女。おもむろに腰の剣にかしゃんと添えられた手がかりかりかりと音を立ててゆっくりと鞘から剣を抜き放った。くるりとこっちを振り返った彼女は笑っている。オレの好きなあの笑顔で笑っている。笑って剣を構えて「どうしてラビ。私達を捨てるの?」と言う。こっちに一歩踏み出した彼女が「仲間じゃないっていうの?」と続ける。笑顔で痛いとこを突いてくる。ラビラビラビとうるさい声の中彼女の声が叫ぶ。
「私達は紙の上のインクなんかじゃないっ!」
 その声を合図にしたかのようにオレに飛びかかってくる憶えのある顔。ジョニー、コムイ、アレン、リナリーを殴り飛ばす。肩で息をしながら転がっているナイフに手を伸ばして構える。
(これは幻だ。幻だ。幻なんだっ)
 生き残る術はジジイから叩き込まれた。「薙ぎ払えラビ」と声がして、声のままにナイフを振るう。惑わされるだけだと思って閉じた視界で今度は悲鳴が耳に痛い。「何をするんだラビいぃっ!」なんて悲鳴が耳を貫く。目を捨てて、耳も捨てないと駄目か。くそ!
「ラビ」
 彼女の声に呼ばれて、そっちを意識してしまう自分がいる。「私達仲間でしょう?」と声がする。彼女の声がオレの心を深く抉る。
 幻だ。これは、全て、幻。
 薙ぎ払う。その度に悲鳴が聞こえる。ラビラビラビとオレを呼ぶ声がうるさい。リナリーの声がする。アレンの声がする。みんなの声がする。くそ。くそ!
 離れろ。とにかくここから離れるんだ。襲ってくる奴は薙ぎ払うしかない。迷うな。迷うな。迷うな!
「ラビ」
 ぱしゃんと前方から水音と声。はっと目を開けてしまったのが間違いだった。笑顔を浮かべた彼女が剣を振り被っている。
 斬ったよ。ラビじゃないって自分に言い聞かせて、私、ラビの形をしたアクマを斬った
 いつかに聞いた、彼女の声がする。
 間一髪で剣の一撃を避けてばしゃと着水した。腕を掠った。
 彼女が笑顔で剣を構える。
「ラビ。私のこと好きだよね?」
「…っ」
「ブックマンなのに、心を許しちゃったんだよね。私のこと愛しちゃったんだよね」
「ち、がう」
「違うの? 私のこと嫌いなの?」
「違う」
「私のこと、捨てるの?」
「違う…違う、違うっ」
 ナイフを構えてばしゃと水を蹴る。彼女が剣を振るう。がきんと金属同士がぶつかる硬質な音が響いて吐息が触れる距離で彼女の笑顔を睨みつける。違う、これは幻だ、幻なんだ。薙ぎ払えオレ。薙ぎ払え。
 ふっと彼女が表情を緩めた。剣から力が抜ける。押し切りそうになって慌ててオレの方も力を抜く。その時点で多分もうオレの負けだった。「ラビ」とオレと呼んだ彼女がオレの唇に唇を重ねて、息が止まる。
 幻。これは、幻、だ。
 薙ぎ払え。足音がする。後ろから何人か来てる。薙ぎ払え。振りほどけ。じゃない。これはじゃない。唇の感触も、吐息も、声も、体温も、全部そっくりでも彼女じゃない。
 ナイフを。振るってくれ、オレ。
(くそ…っ)
 ……駄目だった。彼女を攻撃することができなかった。クロウリーもユウもアレンもリナリーもコムイもみんなみんな薙ぎ払ったくせに、彼女だけ、無理だった。
 ロードがオレに勝負を挑んできた時点で、この流れは決まってたのかもしれない。
「…ち。ロードめ。こうなること分かってたなきっと」
「、」
 手を伸ばす。後ろから水音がする。どのみちもう無理だ。防ぐにしても避けるにしても間に合わない。
 だからオレは思い切り彼女を抱き締めた。力いっぱい、疲れた意識で、縋るようにして。
(好きだよ。愛してる…愛して、る)