俺が神田ユウと名乗るようになったあの日から。俺のことを唯一ユウと呼ぶあいつに、そう呼ばれることに慣れた日々の中の一部。
 便宜的に決められた年齢、国籍、誕生日その他諸々。何も知らないあいつは便宜上のそれを真実だと思い込み、6月6日、俺の誕生日を祝う。

「誕生日おめでとうユウ! ね、また少し背が高くなったね? 私は160止まりなのかな…リナリーに追い越されたままだよ」

 はいプレゼント、と蕎麦を出してきた相手になんだよこれと目を向けると、えへんを腰に手を当てて「私の手作り。ジェリーさんに指導してもらって頑張ったんだから」と言う。ふうん、とこぼして手作りだという蕎麦をよく見てみると、確かに一本一本太さもばらばらで、ちぎれているところもあるし、手作り感ってのはよく出てる。
 毎年毎年、俺が喜びそうなものをチョイスして、今年はこれか。手作り蕎麦。ケーキなんて甘いもんは俺が嫌いだから、誕生日ケーキならぬ誕生日蕎麦。
 全く、お前は馬鹿だな。そりゃあ俺は甘いもんなんてクソ食らえと思うが、お前が半日かけて作ったのだと言うなら、胸焼け起こしてでも食べたのに。
 箸、つけ汁を用意したが「さあどうぞ」と蕎麦を勧める。その表情の真剣なことと言ったらない。
 これでまずいと言おうものなら泣き出すんじゃないか、という緊張感が伝わってくる中、箸を手に取り、太さや長さが不均等の蕎麦をつまみ、つけ汁に先をつけてすすった。
 …まぁ、こんなもんだろうな。は蕎麦に関しては素人なんだから。つまりそういう味しかしなかったが、真剣すぎる顔の彼女にそれをそのまま伝えるのも憚られた。が、美味いと嘘を言うのも嫌だ。二口目をすすって考えて、「それなりじゃないか」とこぼすと彼女はぱぁっと表情を明るくした。「まずくない? ねぇ、まずくはない?」「まずいってことはない」「ほんと? 頑張って作った感じは出てる?」「ああ」やったぁ、と喜んだ彼女がフードの中に収まっている竜を抱いてくるくる回る。「やったーよかった、頑張ってよかった」と竜に笑いかけるその横顔を眺めつつ、蕎麦をすする。
 この蕎麦を作るのにそんなに頑張ったのかと思ったら、さっき食べたときより美味く感じた。…おかしな話だ。

「おい」
「ん? 何?」
「…これ食ってからちょっと付き合え」
「うん、いいよ」

 朗らかに笑った彼女から視線を逸らし、ずるずると蕎麦をすすって食べる。
 確か今こっちに爺さんが来てるはずだ。イノセンスの加工に支部から呼ばれたとかで。
 もういい加減歳なじじいに、一度くらいは、こいつを紹介しておこうか。そんな気紛れなことを思ったのはなぜか分からなかったが、そう思ったんなら、行動すべきだ。
 蕎麦を片付けて食堂を出て、その辺の奴らに爺さんのことを訊き、科学班の研究フロアへ行く。「ねぇ、ズゥおじいさんて誰?」不思議そうにこっちを見上げてくる彼女に「アジア支部の知り合い」とだけ言ってフロアを突っ切る。相変わらずゴミゴミしてる場所で書類の山に埋もれてるジョニーやタップを視界に入れつつ、歳のせいで丸くなった背中のじじいを見つけて「おい」と声をかける。こっちを振り返った爺さんは相変わらずじじいで、当たり前だが、前に見たときより歳を取り、皺が増えていた。

「神田か」
「ああ」
「元気かい?」
「ああ」
「…おや、そちらのお嬢さんは?」

 今頃気付いたのか、遠慮がちに俺の後ろにいるのことを見る。「何隠れてんだよ」「え、お邪魔かなって思ったから…」俺に隠れたままでいようとする彼女を前に押し出す。「おら自己紹介しろ」と肘でつつけば、むっと眉根を寄せて俺を睨んだあと、爺さんに向き直ったがぺこっと頭を下げてから笑う。「えっと、です。ユウと同じエクソシストです。あ、こっちはミスティーって言って私の相棒です」フードから竜を抱き上げた彼女が笑いかけ、竜がぱかっと口を開けて「ぎゃう」と鳴く。それを眺めていた爺さんの視線が俺に移る。
 含みのあるその視線にああやっぱ紹介なんてしなきゃよかったかと今更後悔したが、もう遅い。

「おじいさんは、アジア支部の方なんですよね。科学班でお仕事ですか?」
「ああ、剣を打ってくれないかと頼まれてねぇ。老いぼれが参上して腕を披露したのだよ」
「へえー…あ、私も剣を使うんです。イノセンスで、ドラグヴァンデルって言って、ほら、これなんですけど」

 爺さんとの流れていく会話を聞きながら腕を組む。
 別に爺さんにを紹介して何がしたかったというわけでもない。ただ、そのうちぽっくり逝くだろう年齢の爺さんに。俺の過去を知っている人物の一人に、こいつのことを話そうと思った。それだけだ。
 他愛ない会話を交わす彼女を眺め、それにしてもまた背中が丸くなったなと爺さんを眺めたりしていると、ふいにじじいがごほごほとわざとらしく咳き込んで「喉が渇いたのぅ」とぼやく。は裏の読めない正直な奴だから、その呟きに「あ、私ちょっとお茶もらってきます! 待っててくださいねっ」とぱたぱた走っていった。
 ていよく追い出されたというのに、気付いてない。それでいいけど。
 じじいはそんな彼女の後ろ姿を皺の多くなった目元で眺めていた。

「神田」
「んだよ」
「まだ華は見えるのかい」

 …いつかの過去にも、そう問いかけられたことがあったっけか。
 自分にしか見えない華。それに囚われてはいけないとじじいは言った。それはただの幻、夢。だから忘れなさいと。
 常に視界をちらつく華。今もじいさんの周りに咲いて見える華に、「ああ」とぼやいて返し、一度口を閉じて。言うべきか否か迷って、結局口にした。

「……あいつといるときは見えない。華が散るから」

 ぼそっとぼやいたその声は、「班長〜判子くださぁいー」「そこ、死ぬな! 起きろ! まだ仕事が山積みだぞっ」とかうるさいフロアの声に掻き消されそうだった。が、じじいに俺の声は聞こえたらしい。皺の増えた顔がにこりと笑みを作る。

「そうか。そうか…彼女は、お前の恋人かね」
「違う」
「即答か。ふふふふ」
「…なんだよ。気色悪い笑い方すんな」
「お前にも青春が訪れたのだと思ったら、私にとってこんな嬉しいことはないのだよ、神田」

 皺だらけの顔で笑うじじいに舌打ちしてそっぽを向く。
 何が青春だ。随分前に死んだ俺が、便宜的に得ただけの年齢で、死に損なって生きてるだけだ。
 あの人に会うためにアルマという友を破壊した。あの人に会うことを目指してエクソシストになった。あの人のために己の全てを捧げ、命を削ってでも修羅場を潜り抜け、息をし続けてきた。
 それが、いつからか。あいつに会ってから色々と変わってしまった。あの人のために捧げていた己の全てが、だんだんと、壊れていった。
 …フロア中に散らばっている書類を踏む足音。それを聞くだけで、俺の視界で華は散り始める。

「おじいさーん、お待たせしましたぁ。ユウのもあるよ」

 トレイに湯飲み三つと急須を持って戻ってきたを視界に入れる。そうすると華が消える。ぽーん、と軽く、弾けるようにして消えてなくなり、俺の視界はお前を中心にクリアになっていく。
 はい、と渡された湯飲みを手に取り、注がれた茶の水面を眺めると、茶柱が立っていた。
 ふっと口元が笑う。
 お前がいると色々と幸先がいいんだよ俺は。その分お前のせいで苛々したりすることが多くなったが、それすら、俺は甘受する。
 お前のことが好きだ。きっと、あの人より、愛している。
 まだはっきりとは言えない。俺はあの人のために生きることを選んだ。身体はそのことを憶えている。壊れた記憶が叫ぶほどにあの人のことが好きだった。愛していた。
 まだ華の見える今の俺では、お前のことを同じくらい愛してるとは言えない。
 だけどいつかきっと、心から、お前に告げることができるはずだ。愛していると。だから、俺を愛してくれと、いつか。
 いつか。
「…行くぞ」
「え? え、ズゥおじいさんとの話は? 全然してないよね?」
「いいんだよもう」

 ずかずか歩き出す俺に慌てた様子の彼女が俺とじじいを何度か見比べ、ぺこっとじじいに頭を下げて「じゃあおじいさん、またお話しましょうね」と手を差し出す。「ああ。神田を頼むよ、」「あ、はい」余計なことを言ったじじいと握手を交わした彼女が俺を追いかけてくる。トレイ片手に速足で「待ってユウ、私落としちゃうから」と慌てるに、仕方なく歩調を緩める。
 手を伸ばして彼女の手からトレイを取り上げた。うっかり足元滑って転んでぶちまけられても俺が迷惑だ。
 俺を見上げたが「ねぇ、ほんとにもういいの? おじいさん普段アジア支部にいるんでしょう? 本部からは遠いし、今くらいしか話せないかもよ?」と首を傾げる。そんな彼女に俺は「いいんだよ」とぼやいて階段に足をかける。
 お前のことを話すことはできたんだから、もういい。じじいが余計な一言まで言ってくれたことだし。
 俺が神田ユウと名乗るようになった日々の。俺のことを唯一ユウと呼ぶあいつに、そう呼ばれることに慣れた日々の中の、これは一部分。
 …俺の命はまだ続く。俺はまだ息をし続ける。最初に生きると決めた、そのときよりも強い気持ちで、生を選び取る。

 だから、目を醒ませ。
 あいつのいる現実へと還るために。