「なんだよ。どうした」 「え」 「止まってる」 ぺしと手を叩かれてがちゃがちゃとお皿を洗う。「ううん何でもない」と笑うんだけどなかなか上手くいかない。だってまさかクロス元帥とユウが一つの食卓で顔を合わせてご飯を食べるなんてこと、するとは思ってなかったんだもん。 微妙な空気だったし、始終睨み合ってる感じはしたけど。でもさ、なんだか笑えたし、いいことだなぁと思ったんだよ。 (…いけない。すっかりロードのペースだ……) きれいに洗ったお皿をシンクに置く。そうするとユウがそれを布巾で拭いてくれる。 …なんだろうこの感じ。懐かしい。少し思い返してみて、ああそうか、花壇の世話をしてるときと感覚が似てるんだなぁと分かった。二人でこうして一つのことに向き合って作業するのは初めてじゃない。 ユウは案外丁寧にやってくれるんだよなぁと食器を拭く手の動きを見てて思う。 何となく頬が緩んでしまって、こっちを見た彼が「何笑ってんだ」と言うからえへと舌を出した。 うん、何笑ってるんだろ、私。 これはロードが私に見せてる幻なんだって分かってるのに。分かってるのに、ユウや元帥と一緒にいられるのがこんなに嬉しいだなんて。 そのとき、がしゃんと音がした。何かの落ちる音だった。 「?」 洗い物の手を止めて顔を上げる。ユウがぴりっとした空気を纏って台所の窓の向こうに目を細める。私はそれを追いかけたけど、隣家の壁が見えるだけで、特に何もない。 …カタカタカタと音がする。なんだろう。 「…まずい」 「え?」 「手洗え。早く」 「う、ん」 急かされるままばしゃばしゃ水道水で手を洗って、どおんという大きな音にびくっと肩が跳ねた。カタカタカタと震動しているのは家全体みたいで、シンクの上できれいになったお皿が滑り落ちてがしゃんと床で割れる。私の手を取った彼が「出るぞ」と言うから「え、ちょっと」と声を上げて振り返る。ああ、食器が。きれいに洗ったのに。 ばふと私の頭に外套を引っかけた彼は険しい表情をしている。 玄関のドアに耳を押しつけて気配を探るような仕種。そうしていると、いつものユウを、六幻を構えてアクマを斬る彼を思い出す。 これは現実じゃない。現実じゃないのに。 「ユウ、どしたの」 「…感じるだろ。揺れてる」 「う、うん」 「警報が追いつかなかったようだな」 彼の言葉の意味が分からなかった。と、首を捻った私の聴覚を叩きつけるような轟音が響いて身を竦めた。ぐらりと揺れる世界の全て。ユウが私を抱き止めて舌打ちする。遅れて鳴った、彼の言う警報。ヴーヴーヴーと耳にうるさい音に片目を開ける。これは、どういう。 『警告。警告』 「ちっ、遅ぇよ」 どおんと爆発のような音。手を這わせて腰の辺りを探るけど何もない。この手に握るべきものがない。剣が、イノセンスがない。あれがないと私は戦えない。 ドアに背中を押しつけたユウが「出るぞ」と言う。私は家を振り返って「待って、元帥は?」「あ?」「あ、お父さん、は?」「知らん。さっきふらっと出てってそれきりだろ」元帥で通じないのでお父さんと言ってみると彼は不機嫌そうな顔で私の腰に手を回してばんとドアを開け放って走り出す。スカート走りづらいと思いながらぼこぼこになっている煉瓦の舗道を蹴る。途中で外套が風に煽られて飛んでいってしまった。ユウが気にしてた空を見上げてみると何かがきらりと光る。 あれは、アクマじゃなくて、あれは。人が戦争に使う、 「伏せろっ」 がしと私の頭を掴んだユウが叫ぶのと、あっという間に視界に迫った黒い塊が私の頭上を飛んで後ろの方で爆発したのはほとんど同時だった。癖で腰の剣に手をやるのに、そこにあるべきものがなくて手は空しく空を切るだけ。 ユウに抱き締められて煉瓦の舗道に転がってからげほと咳き込む。 こんなの、イノセンスがあれば、第二開放して翼を持てばこんなの。 ごほと咳き込んだ彼がぺっと唾を吐いて「畜生め」とぼやく。私の手を取って膝を折って「立てるか」と言う彼に頷く。 また駆け出した私達を追いかけるような、アクマの砲台の音にとてもよく似た音がする。 「ユウ、これ、何っ」 「空撃だ! どこの国か知らんが攻めてきやがった!」 「え、」 言葉をなくす。彼が上に視線を跳ね上げて建物と建物の間の路地に飛び込む。私もそれに続いた。どおんと爆発の音がする。悲鳴が聞こえる。何かが壊れていく音がする。 はぁ、はぁと肩で息をしながら狭い路地から区切られた空を見上げる。何か黒光りするものが、爆弾みたいなものをバラまいていく。 怖い。けど、怖くない。だって私はこれよりも怖いものを知っている。 (ロード? ロードの仕業なの?) はぁ、と肩で息をして袖で汗を拭う。ごちと壁に頭をぶつけた彼が「よりによって今日とはな。ツいてねぇ」とこぼして私に視線を移した。私の腕を引いた彼が「最後かもしれない」とぼやく声に身体が震える。最後、って。 冗談の色のない瞳が私を見ている。 「」 「う、ん、何?」 「一回しか言わない」 「う、うん」 「…愛してる」 私の両頬を挟んだ彼が、そう言った。目を見開く。一回しか言わない、その言葉には聞き覚えがあった。私とユウが方舟でノアを前に別れた、あのときだ。 (…私は) べしと彼の口を掌で塞ぐ。キスしようとしてた彼が眉間に皺を寄せた。そんな彼を見上げて私は口を開く。 これは、幻。 「にパッツンガキ! こんなとこにいやがったかっ」 「、」 「乗れ! 早くしろ時間がない!」 元帥の怒声に通りを振り返る。車で乗りつけた元帥はそれなりにぼろぼろだった。 あれは幻、あれは幻、自分にそう言い聞かせるのに、元帥に駆け寄ろうとしている私がいる。 そんな私を後ろから抱きすくめた腕の感触と、目の前に落ちた、黒い砲弾。 爆発で全てが弾け飛んだ。吹き飛んで、ユウの腕に抱かれて地面を転がる。 「う…っ」 最後にごちんと頭を打って視界がくらくらした。頭に手を添えて通りを振り返って、そこにさっきまで元帥が乗っていた車が大破しているのを見て声が出なくなる。 元帥が。クロス元帥が。 (しっかりして、あれは幻。幻なの。幻…まぼろし……っ) ぼろりと涙が落ちる。やめてと心が叫ぶ。私を抱いた腕の持ち主が「畜生が」とこぼして頭を振って起き上がった。通りを見つめる私の視線を追って一度視線を逸らして、それからまた私を見る。「」と。腕を引かれても私は立ち上がれなかった。これは幻、これは幻、これは全部幻。それなのにユウの体温も触れる肌の感触も声も姿も、感じる痛みでさえ、全てが鮮明すぎる。 心が痛い。 やめて。元帥。元帥が。 「!」 「っ」 びくっとして小さくなった私。吐息したユウが私を立たせる。「しっかりしろ」と。いつかにも聞いた言葉をかけてくれる。ぺしと私の両頬を掌で挟んで顔を寄せて、ごちっと額同士がぶつかった。 「お前は俺が守る」 「ゆう、」 「絶対にだ」 「…うん」 じんわりする視界。唇を寄せられて、今度は拒めなかった。 そんな場合じゃないのにと思ってもユウが私を抱き締めているし、私もユウに縋っていた。これは現実じゃない、幻だと自分に言い聞かせているのに、さっき見た光景が頭から離れない。元帥の乗った車が大破した光景が頭から離れない。 「あれぇ? おかしいなぁ。キミ誰?」 ふいにロードの声が響いて身体が固まる。振り返れば時間が止まったような景色の中にロードが立っていた。彼女は私ではなくユウを見ている。「キミはボクの言うこと聞けないの?」「…お前の言うことなんて聞かない」口を開いたユウが低い声を出す。私は癖で腰に手をやって、すか、と空を切ることにまた歯噛みする。やっぱりイノセンスはないままだ。 目を細めたロード。私のことは見ていない。ユウを見てる。 そういえば、と彼を見上げて一つ瞬く。 そういえば、さっき家にロードが現れたときは気付いた顔はしてなかったのに。どうして今は彼女のことが見えてるんだろう。 「コイツは還す」 「勝手は許さないよ。ここはボクの夢の中なんだからね」 「ほざけ。コイツの夢はコイツのものだ。お前が土足で踏み込んでいいものじゃない」 彼の右手。そこに光が現れて、それが刀の形を取る。 六幻だ。間違いない。六幻。 切っ先をロードに向けた彼が「お前の相手は俺だ」と言って私を突き放した。どんと壁に背中をぶつけて「ユウっ」と声を上げる。何言ってるの、やめて、ロードは私とラビが。ユウはもう戦って、きっと傷ついてて、だから。胸のうちで言葉が形にならずぐるぐる巡る。そんな私を一瞥した彼がふっと笑う。優しい顔で。 「還れ。これは現実じゃない。お前だって分かってるだろ」 「ゆ、でも」 「いいから還れ。俺が稼げる時間はそう多くない」 ロードに意識を戻した彼が六幻を構えて地を蹴った。彼女はその場を跳んで空に浮かび上がる。「六幻。二幻刀」刀を二本に増やした彼が剣気を纏って空を舞う。ロードを追って刀を振り被る。 私は唇を噛んで空っぽの右手で拳を握った。 (お願い。イノセンス) ぎゅっと目を閉じて願う。祈る。 お願い。私はユウを置いていきたくない。最後まで一緒にいたい。戦いたい。 彼が行けと言っても行けない。行きたくない。一緒にいたい。とても心配だから。 私、ユウのこと大好きだから。 だから。 「、」 ぱちと目を開ける。掌に馴染んだ硬い柄の感触がしたのだ。 視界に入れた自分の右手は剣の柄を握っていた。腰にベルトがあって鞘があった。 きっと顔を上げて抜刀する。「ドラグヴァンデル発動」ヴンと光を灯した剣。「第二開放」と呟いて背中に翼を生やした。出力を上げて飛ぶ。ロードの周りに出現した蝋燭に周囲を囲まれて舌打ちしたユウに向かって刀身を垂直にして「グラヴィス・セカンド」と唱える。十字の模様が入った光の壁が彼を覆った。蝋燭の攻撃を全て防いでくれたことにほっとしながらロードの前に下り立つ。彼女はイノセンスを取り戻した私に拗ねたような顔をしてみせた。 「あらら。イノセンス戻っちゃったのか」 「勝負よロード」 かしゃんと剣を構える。光の壁の箱から出てきたユウが隣に並んだ。「お前な」とぼやく呆れた声に「これでいいの」と言う。 私、生き残ることももちろん大事だって思ってるんだけどね。それもやっぱり大事だと思うんだけど、最後まで、大事な人のそばにいたいの。一緒に戦いたいの。同じ相手を見て同じ状況で剣を振るいたい。これって多分私のわがままなんだけど、一人はね、やっぱり。いやなんだよ。 足手纏いだって言われたとしても、今度は絶対譲らない。 「…」 「うん」 「頑張ったな」 「え」 「お前の勝ちだ」 その言葉にロードから視線を外しかけた私に顔を寄せた彼が口付けた、瞬間、世界が暗転する。 |