床に叩きつけられて息が止まった。遅れて咳き込みながら薄目を開けた視界の中、ロードの扉が粉々に壊れてしまっているのが見えて、頭の中が白くなる。
 出口が。扉が壊されてしまった。
 どうして。一体誰に? そう考えたところでどくんと心臓がざわめくのを感じてどうにか手をついて起き上がる。
 何かがいる。ティキ・ミックが倒れていた場所に、何かが立っている。僕を引きずり降ろした蔦のようなものを纏って、誰かが。
「お、まえ、は」
 ごほと咳き込む。ああ、骨の一つにヒビでも入ったかもしれない。息苦しい。
 確かにティキのノアは僕が神ノ道化で破壊したはずだ。それなのにティキが立っている。異様な空気を纏って、蔦のようなものを纏わせながら立ち上がっている。
(そんな、ノアの力は、破壊したはずだ…っ)
「どういうことだ。お前は、誰だ」
 答える声はなかった。あの軽快な、こちらをからかうような飄々とした声は聞こえない。
 ティキが無言でこっちに歩いてくる。
 どうにか身体を起こせば、軋む全身に口の端に血が滲んだ。げほと咳き込んで左腕を押さえる。
 胸がざわめく。吸う空気がひどく冷たい。とてもいやな感じがする。
 左腕を剣へと変えて構える。「どういうことだ、なぜ…っ」そうこぼしてからティキの血が黒いのに気付いた。やっぱり何かがおかしい。「が、あああああッ」と声を上げたティキの纏う蔦が縦横無尽に駆ける。剣でそれを薙ぎ払ったり受け止めたりしているうちに彼の様子がどんどんおかしくなる。どんどん、異様になっていく。
 大きく気配が膨らみ、そして消失したあと。そこに残っていたのは、ティキの外見をなくしたティキではない誰かだった。
 動きがない。今のうちに斬るしかない。
 だんと跳んで剣を振り被り彼の真上を取る。
「はあああああっ」
 僕はその誰かに斬りかかった。確かに捉えたと思った相手。だけど僕の剣は床にヒビを入れただけだった。
 避けられた、いや消えた? どこへ、と考えたときぶしゅとと身体のどこかが切れる感触。「え、」とこぼした僕を追撃するように背中から衝撃。吹き飛んでごふと血を吐く。なんだ今の、見えなかった。
 どうにか受身を取ってずざざとブーツの底でブレーキをかけて転ぶのを防ぐ。はぁ、と一つ息をした瞬間に背筋の寒くなる感覚に振り返りざま剣を構える。全身黒くなったティキはもう目の前にいた。速い。拳から放たれるその攻撃をどうにか剣で防ぐ。防ぐだけで手いっぱいで、反撃の余裕も隙もない。防戦一方で追い詰められたとき、ちかりと視界の端で光った何かが高速で僕らに突っ込む。
「アレンっ!」
…っ」
 ど、床を一閃した破壊した剣の一撃。それをティキは容易に避けてみせた。
 剣を構えて隣に下り立った彼女が「何あれ、ノアなの?」と漏らすから僕は「分かりません」と返して剣を構える。
 本当に分からない。ティキ・ミックに一体何があったんだ?
 が床を蹴って跳ぶ。その背中の翼が炎を噴き出して彼女は高速の弾丸のようにティキに突っ込んだ。が剣を振りティキがそれを避け、ティキの攻撃を彼女が避けてまた剣を振るうの攻防がされている間に切られた箇所を押さえながら口の中の血を吐き出す。くそ。
「がぁッ!」
「く、のぉッ」
 ずばん、と彼女が蔦の一つを斬った。同時にティキの攻撃を受けて吹っ飛んだ細い身体が柱に叩きつけられる。「っ!」叫んで駆け出そうとすれば背中にぞくりとした感触。とっさに振り返って構えた剣を大きな衝撃が襲う。耐え切るだけで精一杯、そういう攻撃が。
 くそ。くそ。くそ!
 がらがらと崩れる柱から一つ光が飛び立つ。「ああああっ」剣を振り被った彼女がティキに突っ込む。どんと黒い腕を斬りつけた彼女が目を見開いて「そんな」と漏らした。圧倒的な攻撃力を見せるティキは、防御力さえ上がっていたのだ。彼女の剣を受けて腕が斬れていない。それどころか傷さえ、
「どっけぇ!」
 ラビの声が降って、満で巨大化した槌の一振りを避けたティキが跳び退った。
 はぁ、はぁ、と肩で息をしている彼女と駆けつけたラビの二人に、唇を噛んで事実を告げる。
「扉が…」
「え?」
「扉がどうした、アレン」
「扉、は…もう、ないんです」
 残骸となっている扉を震える手で示すと、ラビが唇を噛んで俯いた。が肩を震わせて青い顔をする。でも次には振り切るように一つ頭を振ってからじゃりと瓦礫を踏み締めて立ち上がった。剣を構える姿は、この状況での絶望を振り切ろうとしている。
 がしゃ、と剣を支えにして僕も立ち上がる。
 ティキはこっちを見て笑っている。と思ったのに、瞬きの次の瞬間に僕らに肉薄したティキが腕を振るった。ラビの槌が僕らへの攻撃をどうにか防いでくれる。その間に僕とでティキを挟み撃ちにして剣を振るった。だけど届かない。くそ。
「シムラクルム・セカンド!」
 剣を振るった彼女。唱えた言葉に応じるように剣が光り、ティキを取り囲むように無数の光の剣が出現、ティキを貫いた。少しの空白。その隙にラビが僕と彼女の襟首を掴んで「伸っ」と槌の柄を伸ばして上へと逃れる。
 だけどこの塔以外の場所は崩落している。
 たとえ今上に逃れたとしても、逃げる場所はもうない。
(く、そ)
「ラビっ、アレンくん、!」
 リナリーの声がした。重い瞼を持ち上げて、震える手で、剣の柄を握り締める。絶望に負けそうになる心でぎりと歯を食い縛る。
 出口はもうない。この方舟からは出られない。
 それでも。死ぬまで、戦うしかない。
☆  ★  ☆  ★  ☆
 アレンが倒したはずのティキが生きていた。ノアの力なのかも分からない強すぎる力を持ってオレ達を襲ってきた。正直な話全く歯が立たない。事前詠唱のいらない直火判を見舞ってやろうと思ったら当たる前に攻撃されるし、そのせいで出血がひどいし、唱えてからやる攻撃はする暇もないし、まともに動けないしで、もう辛い。辛いったらない。
 それでも心が挫けていないのは、多分。きっと。
「はあああぁっ!」
 剣を振るう音がする。 の声がする。きちんと本物の声が。
 戦闘音がする。瓦礫の音が。地響きがする。ここも崩壊が始まってる。もう、そんなに時間も残ってない。
 身体中が痛い。だけど立つ以外にオレがすべきこともない。
 ぐっと身体に力を入れて立ち上がる。リナリーとチャオジーを庇いながら戦っているの姿が見える。もう全身傷だらけだ。オレらと一緒でもうボロボロ。それでいてオレらの中で今一番ティキとやりあってる。
 崩れ落ちた塔。水と瓦礫のこの場所ももうもたない。端から崩れていってる。
 チャオジーが瓦礫の山を持ち上げてる異様な光景が見えるけど、あの感じは多分イノセンス。どっから反応してどこから来たのか知らないけど今は戦力として当てにはできない。あの感じだと、クロちゃんみたいに即戦力になる寄生型ではないだろうし。
 槌の柄を握って砕けそうな足で駆け出す。
 が吹き飛ばされて瓦礫の山に突っ込んで血を吐いた。赤い色が目に痛い。
「オレを忘れてんじゃねぇぞっ!」
 振るった槌でティキの横面を叩き潰すつもりだった。だけどスカった。当たり前のようにオレの後ろを取って拳を撃ち込んでくる。その一撃が重くて口の中が逆流した血で埋まる。くそ。
 瓦礫の山をぶっ壊したアレンの剣が、吹っ飛んだオレの代わりにティキに突っ込む。どうにか立ち上がったが見えたけど、出血がひどい。左腕がさっきからぶらりとしたまま動いてないのが見えるし、折ったのかもしれない。くそ。
 もうみんなボロボロだ。
 ぺっと血を吐き出してから「だいじょぶか」と声をかける。がらりと瓦礫を越えて隣にきた彼女が「あんまり。なんて、言ってられないし」とこぼしてがしゃりと片手で剣を構える。ティキの攻撃に吹っ飛んだアレンが宙で翻ってどうにか着地してオレらの横に並んだ。
 三対一でこのザマだ。
、左腕、上がってませんけど」
「ごめん。もう動かないの」
「ってやっぱり折れたんか? くっそティキの野郎、よくもっ」
 歯噛みして全身黒いティキを睨む。両手で光の波動を撃ち出してくる相手に肩で息をしながら三人で地を蹴る。
 戦う。まだ戦える。オレは立てる。
 が戦う。アレンが戦う。オレ達はまだ生きてる。だから戦う。
「マル火、劫火灰塵っ、火判!」
「シムラクルム・セカンドっ」
「十字架ノ墓ッ!」
 三人それぞれ今の全力で攻撃する。の光の剣がティキを取り囲んだが全て薙ぎ払われ、オレの火判も掻き消され、アレンの攻撃も受け止められる。にたりとした笑みを浮かべたティキがオレ達を容赦なく弾き飛ばす。水の中に落下して、ごぼと息を吐く。
(あー畜生、反則みてぇにつえぇ。オレらじゃ歯が立たない)
 ざぱと水面から顔を出す。瞬間に迫った黒い拳から放たれた一撃を、彼女の剣が防いだ。ぎちぎちぎちと刃と拳の攻防が続いてぴしりと音がする。の剣に亀裂が入ったのだ。
 まずい。この状況でイノセンスを失ったりしたら本当にもうまずい。「満」と唱えて一回り大きくなった槌を振り回して跳び退ったティキがすぐに突っ込んでくる。「まずいぞ、剣にヒビっ」「わか、てる」はぁと息を吐いた彼女がそれでも剣を構える。右の額から頬にかけてをべったりと赤い色が伝っている。頭からも出血がある。打ったのか。

 どうしてそこまでして戦うんだよ、と言いたかった。
 人間なんて愚かだ。いつまでたっても戦争戦争戦争、戦戦戦。争いばかりを起こす種族にオレは呆れ果ててた。自分は違う、そう思っていたかった。だってそうしてないとしんどいから。オレは確かに人間だけどブックマンてものに属されて、無益な争いを起こす愚かな種族とは違うんだと、そう思っていたかった。
 そうだと思いたかった。彼女に、恋をするまでは。
 自分は何者にも属さず心を移さないブックマンである。そう思っていた。そうであらなくてはならなかった。
 だけどオレは、彼女を、を好きになってしまった。ロードの言葉を借りるなら、彼女を愛してしまった。
 人が戦う理由。戦い続ける理由。各々武器を取り続ける理由。それが少しだけ分かってしまった。
 譲れない大切なものがあるから、人は戦い続けるんだ。

「ま、け、ない…っ」
 が剣を振るう。その動きがだいぶ遅くなってきている。背中の翼もさっきから頼りなく揺れてるように見えるし、本格的にまずい。そう思ったとき、ごば、と地面が崩れた。いつの間にか端まで追いやられていたのだ。ティキは当然跳び退り、オレもどうにか地を蹴る。
 だけど彼女は、もう動けないようだった。瓦礫と一緒に落下するに手を伸ばす。「っ!」と、手を伸ばせ、と言う。虚ろになりつつある瞳がオレを映す。そうして口元だけで笑って「クルクス」と唱えた。ごっと光の一閃がオレのすぐ横を通過し後ろに迫ってたんだろうティキを突き放す。
 そして、ばきん、と音を立てて彼女の剣が砕けた。
 その背中にあった翼がふっと消える。発動できなくなったから。
「ばいばい…ラビ」
 が笑う。オレの好きな笑顔で。大好きな笑顔で。
 そうして何もない空間に落下して、彼女の姿は視界から消失した。