ユウ起きて
 冷たい胸のうちをあたたかくくすぐるような、懐かしい、声がした。
 拳を握ったままの手が、ぴく、と動く。
 自分の手を認識した視界に、まだおぼろげな思考で顔を上げる。
 そこには崩壊したはずの部屋が再生する景色があった。
「…………」
 拳を握ったままの手を持ち上げて目の前にかざしてそっと開けば、粉々になっている銀の指輪の残骸がしゃりと音を出す。
 視線をずらすと六幻の残骸も見える。左肩に目をやれば梵字。侵食するように左胸から肩にかけて模様が広がっている。
 間違いない。さっき崩れた部屋だ、ここは。
(どうなってる…?)
 俺は、次元の狭間とやらに消えて消滅したんじゃなかったのか。
 六幻の欠片をまとめ、コートの右ポケットに突っ込む。左のポケットには指輪の欠片を突っ込んで、まだふらつく足で地面を踏み締めて立ち上がる。
 部屋の出口が見える。確かあれが次の部屋へ進む扉だったはず。現状がいまいち理解できないが、行くしかないか。
 次の部屋でクロウリーだったかが落ちてるのを見つけ、眉根が寄ったものの仕方なく肩に担いで運んでやった。
 かつん、と白い階段を上がりながらあいつの姿を探して視線を上げる。見当たらない。こいつ以外にはまだ誰も見つけていない。
 かつ、こつ、と白い階段を上がっていった先にところで次の扉が見えた。「待てよ。オレらが助かってんなら、もしかしてユウとクロちゃんも…!」聞き覚えのある声が耳を突く。だからユウって呼ぶんじゃねぇよこの野郎。あいつより先に馬鹿ウサギの方を見つけるとは俺も大概終わってるな。
「ユウのパッツん」
「上等じゃねぇかこの馬鹿ウサギ」
 ばんと扉を開けて出て行けば「おおっ、ユウ!」と駆け寄ってくるラビがうざかった。舌打ちして拾ったクロウリーを押しつける。「クロちゃん、しっかりせいクロちゃん」「落ちてた」説明はそれだけして視線を左右に向ける。ラビがいてチャオジーとか何とかって奴はいるが、あいつはいない。
「馬鹿ウサギ。あいつはどこだ」
「あいつ? ああ、アレン達なら今オレらも探してるとこで」
「誰がモヤシのことを訊くか。はどこだっつってんだ」
 苛々しながらそう言うとラビがはっと顔を青ざめさせた。「そうだ、もいない」「探してくる」つかつか歩き出せば「ええちょっと待つさユウ、状況分からんのにバラバラになるのは…っ」とか何とか声が追いかけてきたが無視した。
 俺やラビが無事ならあいつだってどこかにいるはずだ。いやそうであってくれ。そうじゃなきゃ俺はどうしたらいい。
、どこだ。っ」
 白い町と煉瓦の舗道を大股で歩きながら彼女の名前を呼んだ。返事はない。「、返事しやがれッ!」大声を張り上げても反応なし。くそ、と舌打ちして走ると次の角を曲がったところで何かに蹴躓いてがくと視界が落ちた。壁に手をついて転倒を逃れながらまだ感覚の戻らない自分の足にまた一つ舌打ちする。そこで、何に蹴躓いたのか分かって息が止まった。
 が倒れている。血にまみれて。
?」
 呼んでも返事はなかった。その顔色が嫌な感じに白い。「俺だ。」声をかけながら、膝をついて慎重に気を失ったままの彼女を抱き起こす。
 ざっと見たところ大きな傷は頭部からの出血と、左腕がおかしな方向に曲がっているところを見るに恐らく折れている。戦ったんだ、何かと。この場所を考えるなら恐らくはノアと。
 上が焼き切れて下もぼろぼろ状態の自分のコートを口でちぎって切れ目を入れ、びいと思い切り破った。血で汚れてべったりしている彼女の髪を手で持ち上げて包帯代わりにコートの端切れを巻く。ないよりはマシなはずだ。
 すぐそばに、折れた剣が転がっていた。彼女のイノセンスだ。俺と同じく壊したらしい。
 二人揃ってコムイに頭下げる、なんて光景が思い浮かんで口元だけで笑った。
 息はしてる。傷は大きいが恐らく大丈夫だ。本部に戻れば半月もあれば全て治るだろう。俺は三日もあれば治る傷だが、は少し時間がかかる。
「…無茶しやがって」
 べっとりと顔を汚している血をコートの端切れで拭う。固まっている部分は指先で弾いて落とした。腕を吊るすものもあった方がいいだろうと思ってびいとまたコートを歯でちぎって破ったところに走ってくる足音が一人分。ラビの野郎が角から飛び出してきて「どわ、たっ、だぁっ!」どうにか彼女を跳び越えてずっこける。それを無視してちぎったコートの切れ端を彼女の首に回し、腕に回して高さを調節してからぎゅっと結ぶ。本来あるべき形に腕を戻したものの早く診てもらった方がいい。頭の傷も気になる。
「てぇー…」
「馬鹿ウサギ、そこに転がってる剣拾え。こいつは俺が運ぶ」
 腕にを抱えてから立ち上がる。足には感覚が戻っていた。
 がしゃ、と金属が擦れる音がしてから「、はどうなんさ大将」と訊かれて無言を通す。彼女の寝顔は安らかな部類ではあるがそれだけに気になる。息はしてる。呼吸はしてる。だけどぼろぼろだ。早くここから出て本部に。
「なぁってば」
「うるせぇよ。見れば分かるだろ、ボロボロだ」
「や、傷とか、致命傷ないか?」
「左腕は折れてるし頭を打ってる。程度は知らんが、早くここから出て治療させるしかない」
 傷に響かないよう気持ちゆっくりと歩く。俺に並んだラビが「すまん」とこぼして折れた剣を腕に抱いた。「なんでてめぇが謝るんだ」とぼやくとラビが一つ頬をかいて「いや、何となく」と漏らすのが気に食わない。

「おい」
「はい?」
は俺のもんだ。他の誰にもやらない」
「え、ユウちゃんどしたんさいきなり。っていうかどんな心境の変化さ? オレにそんなこと宣言するなんて」
「うるせぇよ。あとユウって言うな」

 じろりと睨むとラビは肩を竦めた。それから急に真面目な顔になり、「そうかぁ」と言ったきり黙り込む。
 絶対何かしら突っ込んでうるさくすると思っていた相手が黙り込んだのに拍子抜けした。なんだよ。やけに神妙な顔しやがって。変な奴。
 それからはお互い黙って白い町の中を歩いた。
 かつ、と煉瓦の舗道を上がる。そのうち白い髪の分かりやすいモヤシが見えた。「ラビー、神田ー!」こっちに手を振る姿に「おうアレーン、無事さー?」とラビの野郎が応える。そこでようやく奴の神妙な顔は途切れた。「リナリーも無事かー?」と声を上げるラビの横で、視線を彼女に落としたまま、声を思い出す。俺の名前を呼んで起きてと言った声を。
(お前が起きろよ。いつまで寝てんだ、この馬鹿)
 ぎりと唇を噛む。俺に言える台詞じゃないが、無茶をしすぎだ。馬鹿野郎。
 そうやって、方舟での戦いは終結した。
 呑まれた俺達は誰一人欠けることなく、ろくでもないクロス元帥とも合流した。
 彼女が目を覚ましたのは、俺が引きずってきたソファに寝かせたときだった。瞼が僅かに震えて薄く目が開く。「」と呼んで膝をついて目線を合わせると、どことなく虚ろな視線がゆらゆらさまよってから俺を捉える。
「ゆ、う?」
「ああ。俺だ」
「ゆぅ…」
 痛いって顔で頭に手をやった。動かないんだろう左手に目をやって「おれて、る」とこぼす声に「動かすな。本部に帰ったらすぐ診てもらおう」と返すと、持ち上がった視線がもう一度俺を見る。
 頼りなく伸びた右手を握り締めた。その体温が掌に沁みる。
 お前の声が聞けたから、余裕のなかった心に少しだけ隙間ができた。
 目を覚ましてくれて、よかった。
「ゆう」
「なんだ」
「私…」
 囁くような小さな声に顔を寄せたところで「なんだ、目が覚めたか」と上から声が降ってくる。ぴきと青筋の立った俺とは逆に彼女は表情を固めた。それから恐る恐るというふうに上を見上げる。いけ好かないあの元帥がそこに立っていて、彼女を覗き込んでいる。
 煙草の煙を吐き出して「ボロボロだなおい」と彼女の頬を撫でる手が至極気に入らない。できれば振り払ってやりたい。だけどこれは彼女にとって感動の再会ってやつだ。できれば、邪魔はしたくない。
 くそ、と顔を背けて一歩引いた。こんな奴のどこがいいんだよ。
「クロス、元帥?」
「他の誰に見える」
 彼女の目にじわっと涙がたまった。すぐに溢れて顔を伝って髪に落ちる。俺の手を離れた手が元帥へと伸ばされる。気に入らない。そう思って立ち上がるのに、そばを離れることもできない。
 元帥、元帥。か細い声がいけ好かない奴のことを縋るようにそう呼ぶのが聞こえる。
(こんな奴のどこがいいんだよ。くそ)
 舌打ちしたくなるのをどうにか堪えた。「傷は痛むか」「だ、いじょうぶ。です」「そうか。馬鹿弟子にすぐ本部と繋げるよう言うから、もう少し辛抱しろ」「げんすい」「ん? なんだ」「…一緒に、かえって、くださいね」会話が聞こえる。声がする。またの前からいなくなるつもりなら俺が縛ってでも連れ帰ってやると思ってると元帥の方は諦めた息を吐いた。「分かってるさ」とぼやいた声とこっちを一瞥した目をじろりと睨み返す。
「なんです」
「チビでガキだったのがでかくなったなぁおい」
「神田です」
 ぴりぴりした空気を出していると「ゆう」と呼ばれた。元帥を睨んでやりつつ膝をついて目線を合わせ「なんだ」と言うと彼女がへにゃっと笑う。「ぶじで、よかった」と。
 その言葉は素直に嬉しかったし、怪我をしてるとはいえ、お前も無事だった。よかった。共通した思いに口元を緩めて「お前もな」と返したところで、わざとらしくぽんと手を叩く音。「ほほうそうかぁ」と大げさに今気付いたって声がする。あんたちょっとは黙ってられないのか、と睨み上げればにやりと笑った元帥がいて、「さてはお前、のことが好きなわけだなおい。オレのかわいい娘が」「はあんたの娘じゃねぇ」舌打ちして喧嘩腰で言い返してから手を引かれ、立ち上がりかけたところで視線を戻す。「ゆう、わたし、も」「あ?」「わたしも。ユウのこと大好きだよ」それで、へにゃりと笑った彼女がそんなことを言うからぴしと思考が固まった。
 待て。待て、なんだって? お前今なんつった。
 確かめる前に、彼女の手が落ちた。反射でぱしとその手を取ってからもう意識がないことに気付く。
 やっぱり本部で傷を診てもらった方がいい。一度は意識が戻ったとはいえ、辛そうに息をしてるし。さっさとモヤシの首根っこ掴んで引きずってきて、
「ところで神田よ」
「は? なんです」
 素直に神田と呼ばれたことに一瞬思考が追いつかず、遅れて返事をした。元帥の方は煙草を口元にやって「ドラゴンの方はどうした」と言う。眉根を寄せてから「俺が知るわけないでしょう」と返す。彼女と別れたのがあの橋のたもとなら恐らくマリや師匠と一緒だろうと思いはしたが、言わなかった。
 離すタイミングを見失った手を握ったまましばらく。コートの端切れを布団代わりにしたままの彼女を眺め、はぁ、と息を吐いて床に胡坐をかいてソファに顎を乗せる。

 …さっきの言葉の真意が気になるところだが、今はいい。今は、こうして、そばにいられるだけで。体温を感じるだけで、十分だ。