「…、」
 意識が浮上して、ふっと目を覚ますと、病室独特の薬品のにおいに一番に気付いた。
 と、いうことは。ここが病室なら。本部なら。私は帰還したんだ。
 ぼんやりと天井に視線を向けたままでいると『気付いたか』と声がして一つ瞬く。視線をずらすと枕元にミスティーがいた。ああ、ミスティーだ。よかった、と手を伸ばそうとして左腕が軋むのを感じて声を押し殺す。いったい。
『折れている。完全に回復するには半月かかるそうだ』
「ミスティ、」
『随分無理をしたな』
 赤い鱗に金の瞳。少しの間別れていただけだったミスティーを動く方の手で抱き寄せる。「ミスティー」『なんだ』「無事でよかった」『…ああ』ぺろと頬を舌で舐められた。くすぐったいと目を細めたところでベッドのそばにもう一つ気配があるのに気付いて顔を上げる。不機嫌そうに腕を組んでパイプ椅子に座っているのはユウだった。ぱっと自分の表情が明るくなるのが分かる。
 よかった、ユウだ。方舟崩壊のとき消えたはずのユウがちゃんとここにいるなら、白い部屋で再会したことが本当なら、クロス元帥だって。
「ユウ」
「…調子はどうだ。頭は平気か」
「あ、うん。そんなに痛くないよ」
 ぺたと頭に手をやる。しっかり包帯が巻かれていた。切った腕とか足とかの傷も手当てされてるんだろう。だからこんなに薬品臭がするんだ。
 カーディガン姿のユウが一つ息を吐いて「何気にお前の怪我が一番ひどい」と言った。ぎくっとする。ぎろりとこっちを睨んだ彼が「誰だ、任務に出る度に俺に怪我をするなとうるさいのは」「わ、私です」「なんでそんなボロボロになるまで戦ってんだよ」「だ、て」苛々口調で言われてしょぼんと小さくなる。だって、あのときは戦う以外道はなかったんだし。
 戦う、で折れてしまった剣を思い出す。慌てて起き上がって「あ、ドラグヴァンデルが折れて、」「とっくに修理しろって科学班に渡した」「そ、っか」私の肩を押した手の持ち主がベッドに戻れと無言で訴えてくる。もそりと一度枕に頭を預け直して、右腕に刺さる点滴の管をぼんやり眺めた。右手でミスティーを撫でる度に透明な管が少しだけ揺れる。
 元帥。クロス元帥はどこだろう。ちゃんと教団に留まってくれているだろうか。
 ユウ、元帥のこと知ってるかな、とそろりと顔を向けるとぱちっと目が合った。
「…あの元帥ならちゃんといる。心配するな」
「うん」
 訊いたら怒るかと思って口にしなかったけど、ユウには私の考えてることなんてお見通しらしい。
 ふにゃっと笑うとユウはそっぽを向いた。どことなく不機嫌そうな顔のままなので、ミスティーを枕元に下ろして「怒ってるの」と訊いてみる。こっちを見た目と「なんでだよ」という言葉に眉尻を下げた。「だって、何気に私が一番怪我ひどいんでしょう」「それはな。反省しろ」「はい…」しょんぼりしたところでこんこんとノックの音。扉の方に顔を向けると「失礼しまーす」とラビの声がした。がちゃんと開いた扉の向こうからラビが顔を出して、私と目が合うとぱっと笑顔を浮かべる。
、目が覚めたんだな! よかったさ!」
「ラビ」
 最後に、ラビを庇って剣が折れて、私は落ちて、そして意識を失った。きっとラビにとっては後味が悪かったに違いない。だから起き上がって、私は大丈夫、と右手を伸ばす。ここにいるから、と。だからそんなにくしゃくしゃの顔しないで、と。
「ラビ」
 私の手を取ろうとしたラビの手がすかっと空を切った。どうしてかっていうとユウが私の手を握って遠ざけたからだ。
 一瞬の間のあとラビがショックを受けた顔で「ちょ、大将! ここオレとの感動の再会場面っ」と喚くとじろりとラビを睨んだユウが「うるせぇ」とぼやく。「毎回思うけどユウちゃんばっかりずるいさ、オレにもいい役くれよっ」「うぜぇ奴」「ひでぇ、ユウってばひでぇ!」「あの…二人とも」困ったなと私は笑うしかない。元気だなぁもう。
「いいのかよユウちゃん、そんな態度でよ。オレがぽろっと言っちまうぞー」
「あ? 好きにしろよ」
「む。じゃあ言っちまうから」
「?」
 二人の話がよく分からなくて首を捻る私。
 ユウがいるのが私から見て右手、反対側の左手から枕元までやってきたラビが「ユウってばのこと好きなんだって」と耳打ちしてきた。ぱちと瞬く。ぱちぱち瞬いてからちらりとユウを窺った。彼は私の手を握ったままパイプ椅子に我関せずの顔で足を組んで座っているのみだ。
 うーんと天井を見上げる。っていうかどうしてラビがそんなことを知ってるんだろう。
「ほら困ってる! ざまーみろユウのパッツン」
「上等だ馬鹿ウサギ今すぐ斬り捨ててやる。表に出ろこの野郎」
「今は六幻ないだろー、そんな脅しには乗らんさ!」
「…あのー」
 ばちっと視線をぶつけ合う二人に声をかけてみたところ、揃って振り向かれて、困ったな、と笑う。
 私確か、方舟の中で意識を取り戻したとき。ユウがそばにいて、すごく安心して。それから元帥がいて、夢みたいだと思って。これがロードの夢の続きだったらどうしようって本気で考えて、でもなんだか安心しちゃって。それでユウに。
「ラビ」
「お?」
「私、ユウのこと大好きだよ」
 ラビがかちんと固まった。ユウに笑いかけてみたところふんと盛大にそっぽを向かれてむっとする。ぱたぱた浮かび上がったミスティーがどことなくジト目で『、私のことは』と言うからにっこり笑って「大好きよ」と返した。気に入らないって顔をしてるユウが明後日の方向を睨みながら私の手を握っている。その手を緩く握り返して、ショックを受けたように立ち尽くしているラビがおかしくて、私はくすくす笑った。
 そこへこんこんとまたノックの音がする。「はい」と返事をするとばったんと勢いよく扉が開いて「っ、目が覚めて」とアレンが病室に飛び込んできた。ユウと目が合うとばちっと視線を合わせて無言の小競り合いを開始。睨み合いながらもずいと手にしていたフルーツの盛り合わせを私に向かって差し出して「これ、ジェリーさんに今一番いいものばかりを集めてもらったんです」と言うから一つ二つと瞬いて受け取ろうとして、手が動かないことに気付く。右はユウの手にがっちり握られているし、左は折れてて動かせない。

「いつまで握ってる気ですか、が不便でしょう。離してあげてください」
「ああ? モヤシの言うことなんて誰が聞くかよ」
「誰がモヤシですかアレンです。いい加減名前くらい憶えたらどうですかバ神田」
「うぜぇ奴」
「ま、まぁまぁ二人とも落ち着くさ。ここ一応病室だし、は重傷患者なんだからさ」

 江戸で交わしたような何気ない会話が聞こえる。
 あのときはこういう会話が心地よくて涙が出た。それは今も同じだった。拭える手がないせいで伏せた顔からぽろぽろ雫が落ちていく。
 よかった。そう安心したら、泣けて仕方がなかった。
 すっと伸びた指が私の目尻を拭った。「リナリーもミランダもジジイも、クロちゃんがちょっと寝てるけど、それ以外はあの戦いに関わったみんな元気だよ」と言われて顔を上げる。ラビがやわらかく笑って「だいじょーぶ、がいっちばんひでー怪我なんだからな。ほんと無理しすぎ」そう言う彼の指は、笑顔とは裏腹に少しだけ震えている、気がした。
 困ったなと笑う。ユウにもそう言われた。みんなに心配をかけちゃったんだ。うん、反省します。ごめんね。
 ばちっと火花を散らしていたアレンがしゃきんと左腕を変えた。イノセンスの手というか爪で上手にしょりしょりとりんごの皮を剥き始める彼に「すごいね、器用だねアレン」と感激すると困ったような笑顔が返ってくる。「いえ、すみません、果物ナイフ借りてくるの忘れちゃって」「ううん」ぽーんと宙にりんごを放った彼が左手をさばく。と、りんごが四つになった。上手に全部キャッチした彼が「どうぞ」とりんごを差し出してくれる。受け取ろうにも手が塞がっている状態の私は「あーん」と口を開けた。びっくりした顔のアレンが次には笑って口にりんごを運んでくれた。しゃくしゃくりんごを頬張る私の隣でユウが苛々と踵で床を叩いている。その向かい側でラビがにこにここっちを観察している。
 そうやって、私は本部に帰還した。
望み望まれた檻の中から
「あ、」
「あ?」
「どしたさ
「神田ががっちり掴んでたから手が痛みますか?」
「てめぇモヤシっ」
 ばちっといがみ合うユウとアレンを視界の端に入れながら、私は愕然としていた。ギプスでがっちり固定されている左腕を見ていて気付いたのだ。あるべきものがないことに。
 左手の中指に指輪がない。ロードと戦ったとき、じゃないならこれは、ティキと戦ったときに壊してしまったということだ。看護婦さんが取り上げたって話は聞いてない。ラビとおそろいのバンダナ、元帥とおそろいのロザリオはちゃんとそばの棚の上に置いてあるのに指輪だけないのはその証拠だ。
 そろそろとユウを見る。彼は眉根を寄せてこっちを見ていた。
 ユウ、怒るだろうか。怒るかもしれない。それでも言わなきゃ。隠してたってすぐバレちゃう。
「あの、ユウ」
「なんだよ」
「あの…ゆ、指輪が」
 ようやく離してもらった右手でそろりと自分の左手を示すと、彼が私の手を一瞥してからぷいと顔を背けた。突き出すようにこっちに左手を突きつけて「俺も壊した」とぼやく声に「ええっ」と声を上げてしまう。がしと彼の左手を掴んでじっと見つめても、手袋も何もしてない手に指輪は現れてはくれなかった。どうやら彼もノアとの戦闘で壊してしまったらしい。私達は武器が剣と刀で手で扱うものだし、もたないだろうとは思ってたから、これは長くもった方だって分かってるんだけど。でもなぁ。
 肩を落とした私に彼がぼやく。「また買えばいいだろ」と。「めんどくさいって言わない? つけるの」「言わねぇよ」呆れた声でそう言われてほっと息を吐く。よかった。やっぱりつけるものはめんどくせぇからもうしない、なんて言われたらどうしようかと。
 それまでじっと私とユウのやり取りを見ていたアレンがはいはいと唐突に挙手した。「僕とも何かおそろいを作ってください」それでそんなことを言うからぱちぱち瞬く。「え? どうして?」「だって師匠とはあのロザリオ、ラビとはバンダナ、神田とは指輪でおそろいなんでしょう?」「うん」「ならぜひ僕とも」ずいと顔を寄せたアレンに首を傾けて、あまり深く考えず「いいよ」と言うと彼がにっこり笑った。「ありがとうございます」と。「何にするか考えておいてもいいですか?」「うん。アレンが決めていいよ」「はい!」「…おい」そこでユウの声が割って入ったので顔を向けてみると怒りのオーラどころか背後に鬼を醸し出していた。ユウ怖いよ。
「お前とおそろいだ? 冗談じゃねぇよ死ねこのくそモヤシ」
「誰も神田とおそろいだなんて言ってません。僕はとおそろいがしたいんです」
「そんなこと俺が却下する」
「神田にそんな権限ありません」
「俺とこいつはなぁ、」
 がったんとパイプ椅子を蹴倒したユウがそう言いかけて途中で口を閉ざした。じろと私を睨むように見やると「モヤシとおそろいなんてするなよ」と棘のある声を出すから困ったなと笑う。さっきいいよって言っちゃったよ。前言撤回なんて言ったらアレンが悲しむ気がする、な。
 頷けない私に一つ舌打ちした彼がつかつか歩き出して病室を出て行った。ふう、と吐息する。
 困ったなぁ。本当アレンと仲が悪くて。ラビとだってここまでじゃなかったのに、どうしてアレンとは駄目なんだろう。
 ベッドに頬杖をついていたラビが「はー、ユウちゃん大胆になったなぁ」とぼやくから私は首を捻った。彼は何やら思案顔だ。でも、ユウは昔からあんな感じだったような。
 アレンがユウが使っていたものじゃないパイプ椅子を持ってきて腰かける。ユウのものになんて触れたくないとでも言いたげだ。…ユウもユウだけど、アレンもアレンだなぁ。
「俺とは、の続きはなんですか?」
「え」
 じっとアレンに見つめられて何となく慌てる。「え、なんだろう。ラビ分かる?」「え、そこオレに訊くの?」参ったなぁって顔をしたラビが頬をかいて「そりゃまぁあれだろ、は俺のもんだって言おうとしてたんじゃないのユウちゃん」と言う。「へっ」と間の抜けた声が出てしまってぱしと自分の口を押さえた。
 それって、つまり。あれ?
 むぅと腕組みしたアレンが「そうきましたか。予想はしてましたけど」とこぼして顔を上げる。まっすぐ私を見て「」と呼ぶから「はい」と返事して姿勢をきちっとした。うん、何となく、真剣だって目が言ってるから、私も真剣にならなくちゃ、って。
「この際なので言ってもいいでしょうか」
「えっと、何を?」
「僕ものこと大好きです」
「へ」
 聞こえた言葉にぱちぱちと瞬く。にこりと笑ったアレンが「神田には負けません」と宣言する。
 ラビがずずずと頬杖を崩してベッドに突っ伏した。「えええアレンもかよー」というぼやき声にアレンがラビに視線を投げて「もってなんですかもって。まさかとは思いますけど」「や、オレは違う。違うって」ぱたぱた手を振ったラビが顔を上げて笑う。ぴょんと起き上がると「んじゃ、寝てるんだぞ。オレも病室抜け出してきたから戻らんと」「うん。またねラビ」「おー、またな」屈託なく笑ったラビがアレンの背中を押して「さぁ戻るぞアレン」「え、ちょっと僕はまだ」「もういいだろまたにしようぜ。婦長が探しに来たらこえーもん。休ませてやらにゃ」「それは、そうですね」最後にこっちを振り返ったアレンが「また来ますからっ」と言った。私は笑顔で右手を振る。ばいばい、またね、と。
 ぱたんと扉がしまると、さっきまで騒々しかった場所が急にしんと静まり返る。
 ぼふりと枕に頭を埋める。薬品のにおいがする。そのうち鼻が麻痺しそうだ。
 右手を伸ばしてミスティーの鱗に触れた。ひんやりと冷たいのにどこかにぬくもりのあるドラゴンの鱗。『大丈夫か?』「うん。元気もらっちゃった」『そうか。私には騒々しかったが』息を吐いたミスティーにあははと笑って目を閉じる。
 ユウが見える。ラビが見える。アレンが見える。みんな無事なんだ。ここはホームなんだ。よかった。帰ってこれた。
 あとで、ダメもとで婦長に外に出ていいか訊いてみよう。私が個室なのはそれだけ重傷ってことだろうけど、腕を折ったのと頭が痛むのと身体中傷だらけになったくらいで他は大したことないはずだ。だから、三十分だけでも出かける許可を取って、リナリーやみんなに会いに行こう。
 ほう、と一つ息を吐いて、意識を緩める。
(おかえり私。ただいま、私)