みんなで本部に戻ってから三日が経過した。当然というか、三日程度じゃ折ってしまった左腕は全然治っていない。頭の傷が落ち着いて、身体の痛いところが少し減ったかなって程度。
 でも三日間ちゃんと大人しくしていたから、婦長から一時間だけなら出歩いてよろしいと言われた。監視のゴーレムつきで。五分前にアラームが鳴るようセットされているものだ。もちろん私はそれを了承して出歩くことを選んだ。一時間だけど、移動にエレベータを使っていいんなら、食堂でおやつを食べるとか、他の病室のみんなに会いに行くとか、そのくらいのことはできる。
 ユウはもう退院したのだと聞いた。ラビとアレンはまだ静養中。リナリーは大きな怪我はないけどイノセンスの問題がごたごたしてるらしくて検査とかに忙しい。クロウリーが寝たままの状態だけど、概ね、みんなが順調に回復中だとも聞いた。
「よい、しょ…と」
 ぺったんこの靴を履いてゆっくりベッドから起き上がって、寒さ対策にばっちり着込んでからミスティーを連れて病室を出た。つかず離れずの距離に一つ目の蝙蝠型ゴーレムがぱたぱた飛んでいる。
「出歩いていいのか」
 ぱっと振り返る。カーディガン姿で腕を組んでいるユウが病室の外にいた。いつもの仏頂面に笑いかけて「うん、一時間だけ。このゴーレムは監視なんだって」ぺしとゴーレムを叩くと息を吐いた彼が「厳重だな」とぼやく。それで、すっと手を差し出すから、私は瞬きを重ねてその左手を見つめた。…この手はなんだろう。
 きょとんとした私に舌打ちした彼がぱしと右手を取る。「どうせ食堂だろ。甘いもんか」「あ、当たり。すごいね、よく分かるね」「甘くみんなよ」はっと笑った彼が私の手を引いて歩き出す。ついていきながらちらりと病室を振り返った。場所は大丈夫、憶えてる。
 私に合わせてくれてるんだろう、気持ちゆっくりめに歩く彼と並んで歩きながら、人が行き交って忙しない回廊を進む。
 元帥が帰還した。どことなく教団内がそういうふうにざわついている気がする。エクソシストの中でも強い人達が帰ってきたのだから、みんながほっとするのも無理ないのかもしれない。
「じっとしてろ」
「え? って、わっ」
 エレベータまで来たと思ったら問答無用で抱き上げられた。私一人なんて軽々抱えてエレベータに跳び乗った彼が操作盤に掌をつける。食堂に向かって降下していく視界の中で、ユウはそっぽを向いている。お、下ろしてくれてもいいような。
「あの、重くない…?」
「あ? 軽い。もっと食えよ」
 軽いと言われたことにほっとしている自分がいるのを見つけると、なんか、やっぱり女子なんだなぁって実感する。
 戦うにはそれなりに体重とかあった方が一撃が重くなるとかの利点もあるって思うのに、やっぱり重いって言われるのはどことなくショックなのだ。そんな考えが空気から伝わってしまったのか、はぁと息を吐いた彼が「軽すぎる」とぼやいた。食堂のある階に音もなく止まったがポーンと音を立てて到着を知らせて、またもや、私を抱えたままエレベータから跳び下りたユウ。床に下ろされて、そろそろと立ってみる。
 そうかな。重くないならいいんだけど。ユウにとって私は軽すぎるのだろうか。それは攻撃を受けたときに踏んばりきれず吹っ飛ぶとかそういう方面のことを言ってるのかなのかなぁなんて考えていたら、また私の手を取った彼が食堂に向かって歩いていく。
 ここまで来ると見知った顔の人をちらほら見つけた。

「ミランダ」
ちゃん、怪我の具合いはどう? 大丈夫?」
「うん。治るのに時間はかかりそうだけど」

 すれ違ったミランダと会話してばいばいと手を振る。ユウは構わず歩いていってしまうから一言しか話せなかった。向こうの方にマリが見えた気がしたけど遠くてよく見えない。
 背中に回った手がとんと私をカウンター前まで押し出す。「ジェリー」カウンター越しにユウが呼びかけるとフライパンでチャーハンを炒めながらジェリーさんが顔を出してくれた。「注文どうぞーん。ってあらちゃん! ボロボロじゃないの、大丈夫なの?」「あはは」困ったなと誤魔化して笑う。左腕が動かなくて頭に包帯ぐるぐるな私は、傍から見て絶対大丈夫には見えないんだろうことは分かっていた。誤魔化して笑いながら「どうしてもジェリーさんのケーキが食べたくて。今何が残ってますか?」「あらぁ嬉しいこと言ってくれるじゃない。ケーキね、ちょっと待ってねん」冷蔵庫を開けたジェリーさんを見つつちらりとユウを見上げる。彼は注文するでもなくただ私のそばにいるだけ。
「今日は紅茶の茶葉を使ったチョコレートケーキよん。ムース仕立てだから病み上がりのお腹にも優しいと思うわ」
「じゃあそれお願いします。あったかい紅茶もいいですか? キャンディがいいです」
「オッケーよん! 持ってくから座ってなさいな。重傷じゃないの」
 ものすごく心配されてるようだと分かって、照れくさいな、と笑うと「笑うところか」とユウにツッコまれた。むーと頬を膨らませて、彼が私の背中を押すからカウンターを離れる。いつもならこの時間そんなに混まないのだけど、私の後ろに人が並んでいた。これから注文か。遅い昼食か、私みたいにおやつか、どっちかかな。
 今は各地の支部から人が集ってきているせいもあって、どのテーブルもそれなりの人で賑わっている。
 ユウはうるさいのは好きじゃないだろうと分かっていたけど、人のいないテーブルはなさそうで。しょうがないから適当なテーブルの端っこに二人並んで腰かける。ぱたぱた浮かび上がったミスティーに「お腹空いてない?」と訊くとふるふる首を振って返された。帰ってきてからミスティーはジェリーさんの料理をお腹いっぱい食べたみたいで、食べる物には困ってないようだ。
 私の右側に腰かけているユウはわいわいがやがやうるさい音に苛々してるように腕を組んで目を閉じている。
「あのー、ユウ。無理して一緒にいなくてもいいよ?」
「あ? 無理なんてしてない」
「でもうるさいの嫌いでしょう」
 わいわいがやがやを示すと彼が舌打ちした。「うるさいのは嫌いだ」と。それからこう付け足した。「お前を一人にはしない」と。
 ん? と首を捻る。今のは何か…ええと、私、ツッコミ入れた方がいいのかな?
 困っている間に時間がすぎたようで、遠くからジェリーさんが「ちゃんお待ちどーん! どの辺りかしらー?」「あ、ここです! ジェリーさんここ!」ぶんぶん手を振って取りに行こうとしたらユウが先に席を立った。つかつか歩いていってジェリーさんからケーキと紅茶のセットをひったくるようにしてこっちに戻ってくる。
 カシャンと目の前に置かれたトレイ。隣にどかりと腰かけた彼が頬杖をついて、苛々を誤魔化すように瞼を閉ざす。
 …あれ。なんだかユウが優しい。
 そろりと表情を窺ってみる。いつもと同じ不機嫌そうな顔だ。今は眉間に皺を寄せて余計に不機嫌そう。じっと見ていると私を一瞥したユウが「なんだよ」と言うからぶんぶん首を横に振った。フォークを手に取った私に対し、彼はつまらなそうに紅茶の入ったポットを見ている。
(なんか、こそばゆいな)
 いただきますをしてからケーキを切り分けて一口。紅茶の上品な香りとチョコレートの甘みがじんわり口の中に広がった。久しぶりに病人食以外のものを食べた。おいしい。やっぱり甘いものはおいしいなぁ。

「…怪我の具合いはどうだ。痛まないか。頭とか」
「平気。ユウの方はもう平気?」
「ああ」
「そっか。私もユウみたいに早く治ってくれればなぁ」
「…俺みたいになんて言うな」

 ず、と紅茶をすすりつつ、ぼやく声に肩を竦めた。それ、なんか前にも言われた気がする。いつだったか忘れちゃったけど。
 ジェリーさんはちゃんと二つカップを用意してくれていた。ユウの方にも紅茶を注いでみたけど、彼はあまり飲む気はないようだ。一口飲んでから、あとはゆらゆらカップの中の紅茶を揺らしているだけ。「おいしくない?」と訊いてみると「甘い」と予想してた答えが返ってきた。苦笑いして「じゃあもらう。冷めちゃうよ」と彼の手からカップを取り上げる。すっかり冷め気味の紅茶を一口。甘いっていうか、これが紅茶だと思うんだけどな。
 明後日の方向に視線を逸らした彼が「なぁ」と言うから「うん」と返す。そこから間ができた。彼は何かを言い淀んでいるようだ。
「俺は」
「うん?」
「お前のことが好きだ」
 聞こえた言葉に危うく紅茶を吹き出すところだった。ごくんとどうにか飲み込んでごほごほ咳き込む。あんまり苦しいもんだから目に涙が滲んだ。
 ちょっと待って。ユウは急に何を。
 呆れた吐息と私の背中をさする掌の感触が分かる。
 けほ、と最後に咳き込んでからそろりと彼を見てみた。いつもの仏頂面をしている。
「あの」
「俺のこと好きだっつったな」
「う、ん。大好きだよ」
「…嘘じゃないな」
「嘘なんて言ってない」
 ちょっとむっとしたらユウはふうと息を吐いた。「あの元帥よりか」ぼそっとした声でそう続けられて瞬く。
 それは、えっと。クロス元帥のことはもちろん大好きで、でもユウのことも好きだし。アレンもラビもリナリーもみんな好きだなぁ。
 困った顔でもしてたのか、視線だけで私を見た彼が何か言いかげて口を噤んで、それから「」と呼ぶから「うん」と返事すれば、視線を人混みに逃がした彼がこう言う。「あいしてる」と。
 ……あいしてる、ってなんだっけ。
(アイしてる…あいしてる。愛、してる?)
 右手を握られる。慣れているはずの体温を急に熱いと感じた。「あ、の、ユウ」「あ?」「あいしてるって、誰が、誰を?」「俺が。お前を」「す、好きって言ったんじゃ」「ああ? 同じことだろ。愛してるって」「え、うええ」愛してる? ユウの仏頂面からは想像できない言葉すぎた。好きだって言われたときだって私、まともな反応返せずにいたのに、愛してるってどういう。どういう。
 そんなに私の顔がおかしかったのか、彼が小さく吹き出して笑った。「変な顔」と。私は変な顔と言われたことよりもユウがちゃんと笑ったことにぽかんとする。
 なんだ。そういうふうにも、笑えたんだ。
「そうやって笑えるんだね。そっちの方が全然いいよ」
 私が笑うと彼は途端にそっぽを向いた。そして「お前にだけだよ」といつもの平坦な声。
 右手を握られると私は何もできないので、そろそろ彼の手から抜け出した。カップを持ち上げて「あの」「あ? んだよ」「えっと…つまり?」私に愛してるって伝えて、彼は何が言いたいのだろうか。どきどきしてる心臓を感じながらカップに口をつける。彼は明後日の方向を見ながら「別に。俺が言いたかっただけだ。ただの自己満足」とぼやいたユウに、心臓がどくどくしている。まるでノアとの戦闘を控えた、あのときみたいだ。
 なんとも居心地の悪いというか落ち着かないというか、そんな時間がしばらく通りすぎた。
 そばを飛んでいたゴーレムがピピピピと電子音で残り時間五分を告げる。そろそろトレイを片付けて病室に戻らないといけない。
 ポットから最後の紅茶を注いで急いで飲み干す。カップをソーサーに戻して一息吐いたところで彼がトレイを取り上げた。「戻るぞ」と。慌てて立ち上がってさっさと歩いて行ってしまう彼の背中を追いかける。一時間経過したらきっとこのゴーレムから婦長さんの怖い声が聞こえるに違いないから。
 ぎりぎりに病室に戻った。ら、婦長が怖い顔で待ち構えていた。鬼の角が出かかったこわーいあの顔で「ぎりぎりね」と壁時計を振り返る婦長にあははと空笑いする。す、すみません。今度はもう少し早く戻ります。
「ケチケチすんなよ。腕と頭なんだ、出歩くぐらい別にいいだろ」
「ユウ」
 彼からしたら正論を言ったつもりなんだろうけど。ぎらりと婦長の目が光って「お黙り。怪我を順調に回復させたいと思うなら、あなたも時間厳守に協力なさい」ぴしゃっと言われてうっとユウが怯む。婦長の怖さはユウにも健在なのである。彼の視線が曖昧に泳いで「治っては、ほしいが。だからって窮屈な思いはさせたくない」ぼそぼそ反論する彼に自然と口元が緩んだ。その反論がちょっと嬉しかったのだ。私のことを考えてくれていて。
 でも婦長の言うとおり、今は怪我を治さないといけないときだ。ベッドで寝ているだけなのは退屈だし、身体もすごくなまっちゃうからいやなんだけど。でも早く元気になってみんなと一緒にいられるようになりたい。
 何より、私はエクソシストだ。戦う力のない人達のためにも、戦う術を持つ私は、早く戦場に復帰しなければ。
 ぺこっと頭を下げて「ごめんなさい婦長。次は、半分の三十分でいいです。外の空気が吸えればそれでいいから」と言うと、ふうと息を吐いた婦長が「いいのよ。時間は減らさないわ。ちゃんと戻ってきてくれるなら、ね」どことなく含みのある声に視線で伺うと、婦長は私というかユウを見ていた。なので視線を移してみると、彼は明後日の方を向いて舌打ちしたところ。
 大人しくベッドに戻る。ミスティーがぱたぱた浮かび上がって枕元に下り立った。ユウがパイプ椅子にどかと腰かけて腕を組んで目を閉じる。看護婦さんの手によって、私の頭の傷を診るため包帯がしゅるしゅると外されていく。
 白い色が視界を落ちる。
「ユウ。鍛錬とか行っていいんだよ」
「ここにいる」
「え? でも」
「うるせぇ」
 つんとそっぽを向いた彼は、言葉を撤回する気はないようだ。ぱさ、と落ちた包帯に少し血色が滲んでいるのが見える。
 治療に邪魔なら、思い切って髪を切ってしまおうか。リナリーはすごく短くなってしまった。できれば私がショートになってリナリーにはロングに戻したいくらい。自分の亜麻色の髪をつまんでじっと見つめていたら「切るなよ」とぼそっとした声で言われた。ユウがこっちを睨んでいる。切るなって、髪のことか。ユウは私の考えてることがよく分かるなぁ。
「駄目?」
「駄目だ」
 きっぱりすっぱり駄目だと言われて息を吐く。そうか。うん。リナリーだってそんな理由で私が髪を切ったと知ったらショックを受けるだろうから、切らないけどね。
 私の手から髪の一房をつまみあげたユウの手と「もったいないだろ」という言葉に一つ瞬く。
 もったいない。
 髪を弄ぶ彼に「そうかな」と訊くと「そうだ」と返された。確かに、リナリーの髪が短くなってしまったことに私ももったいないなって思った。から、ユウもそういう気持ちでいてくれてるって、そういうことなのかな。
 私達の会話は看護婦さんに丸聞こえである。どうしてかくすくす笑われて、何となく居心地が悪くなって、誤魔化して私も笑う。
 ユウはそっぽを向いて私の髪を手離した。椅子の背もたれに体重を預けて目を閉じるくせに、退屈で他には何もない病室から出ていこうとはしない。
 その姿を見つめてひっそりと息を吐いた。

 愛してると言った彼の声が、まだ胸のうちを熱くしている。