こん、と控えめに一度だけノックした。
　光のない暗い廊下で返事を待つこと数秒。病室から物音は聞こえず、夜の空気はしんと静まり返ったまま。
　やっぱり眠ってるんだ。当たり前だ。こんな時間なんだから。そう思ってたはずなのにどこかがっかりしている自分に気付いてくるりと回れ右する。
　帰ろう。たとえこの時間に彼女が起きてくれていたとしても、眠るべきだ。重傷患者なんだから。よく眠って、栄養のあるものをたくさん食べて、早く元気になってくれればいい。それから話をしたって全然遅くないはずだ。心がざわざわするからって、それを彼女にぶつけるのは間違ってる。僕の話を聞いてほしいけど、それはもっと時間のあるときだって大丈夫。大丈夫。
　暗い廊下に一歩踏み出したとき、空気が動いた気がして足が止まった。もそもそと動いた気配は布団を抜け出し、スリッパに足を入れて、ぺたぺたと歩いて扉のノブに手をかける。眠そうに目をこすりながら扉を押し開ける、その姿が脳裏に描かれて、気付いたら振り返っていた。
　目をこすってカーディガンを羽織ったの「はぁい」という眠そうな声。
　起きて。いや、僕が起こしたのか。
　ノックの主を探して暗闇を彷徨った目がやがて僕を見つけ、目を凝らすように細められて、それから彼女はあっと声を上げた。
「アレン？」
「あ…すみませ、ん。僕がノックしました。起こしちゃいましたよね、すみません」
　回れ右でのもとへ行く。やわらかく笑った彼女が緩く頭を振った。それから不思議そうな顔で僕を見上げて「どうかしたの？」と訊ねるから、数秒迷った。
　ごめんなさい何でもないんです、そう言って彼女を眠らせてあげるべきだ。頭の中で正論が顔を出す。だけど自分勝手な本当の僕が顔を出す。話を聞いてほしい、ここで起きてくれたのも何かの縁。話がしたい。彼女と、あなたと話がしたい。話が。
　手を伸ばして、右手を取る。左手は相変わらずギプスで固められていて動かないようで、回復にはまだ時間がかかる。
　縋るようにその手を額に押しつけると、彼女のぬくもりが肌に滲んだ。
　冷たい空気のせいで人肌は炎のように熱い。きっと、僕が意識しすぎている、ただそれだけの勘違いだろうけど。
「すみません…すみません」
「アレン？　どうしたのアレン」
「すみません…」
　話が、したいんです。やっと絞り出した声は掠れていた。彼女はすぐに僕を受け入れる。「いいよ。話そう。中でもいい？」「はい」彼女の手に引かれて歩き出すと、自分の視界が滲んでいることに気付いた。僕は自分で思っているよりもずっと彼女と話がしたくてしょうがなくて、追い詰められていたらしい。そう思ったらなんだか少し笑えた。
　彼女と過ごした時間はそう多くはないのに。これが、惚れた弱みってやつだろうか。
「大丈夫？」
「はい。すみませ、」
「もう謝らないの」
　びしっと指を突きつけられてどうにか笑って返す。はい、と。
　ベッドに座り込んだ彼女の隣に腰かけて、カーディガンの裾で目元を押さえる。ミスティーが枕元で丸くなっているのが見えたけど、多分起きてるなあれは。本部に帰ってきてからミスティーはのそばをなるべく離れないようにしている。方舟で彼女と一緒にいられず、怪我を負わせたことを悔いているのだとか。
　紅茶でもあればよかったんだけどね、とベッドの羽根布団を取り上げて僕の肩と自分の肩にかけ、しー、と唇に指を当てる。「看護婦さん達に見つかるといけないから、小さな声でね」はい、と頷いて返して、かわいいなと思った。好きな子の一挙一動はどうしても意識に引っかかりを覚えさせ、何でもないことでも、魅力的に魅せてしまう。
　外に漏れない小さな声を意識しながら「話をしてもいいですか」と訊くと、一つこっちに詰めた彼女がこくりと頷いた。すぐそばにある体温にほっとしながら視線を暗闇へと向ける。
　話をしたいと強く思ったけど、一体どこから話せばいいんだろうか。少し考えてみて、やっぱり順番に。そう思ったから、僕は一番最初で神田と一緒に任務に就いたララの話から始めることにした。
　彼女は頷いたり相槌を入れて、僕の話を真摯に聞いてくれた。眠そうに目を瞬いたりときたま頬をつねっていたけど、それでも眠いとは一言も言わずに話を聴いてくれた。嬉しかった。
「神田は言ったんです。俺達は破壊者で、救済者じゃないって」
「うん」
「それでも、僕は…誰かを救える破壊者になりたいなって」
「そうだね。私も、なれるなら、そんな人になりたいなぁ」
「…退屈じゃないですか？」
「大丈夫」
　彼女がにこりと笑う。そうすると僕はひどく安心した。
　ララの話の次は、本部に帰ってきたらコムリン�兇�暴走していた話。は任務で怪我をして病棟にいた。騒ぎが収束してから僕がお見舞いに行って、彼女はその日のうちに退院した。あのときはアクマのウイルス系統の攻撃にやられたのだと聞いてひやひやしたけど、大したことはなかった。今回の方がよっぽど重傷だ。
　次は巻き戻しの街でミランダさんに出会ったこと。そこで初めてノアであるロードと遭遇したことなんかを話した。そこで左目が一度は潰れたことも。彼女が僕の左瞼に触れて心配そうな顔をしたから、今は大丈夫ですよと笑った。それからラビとブックマンと合流して、コムイさんに師匠の足取りを追う任務を言い渡されて、寄り道してクロウリーに出会ったことをかいつまんで話していく。
「そういえば、その頃は何を？」
「教団にいないリナリーの代わりに手伝いとか、かな。ただ、私もそのあとすぐ任務を言い渡されたんだけどね」
「任務。元帥探しのですか？」
「うん。デイシャが…デイシャって、わりと歳の近いエクソシストの男の子がいたんだけど。ノアに殺されちゃって。だから、私とミスティーは戦力の穴埋めでユウのいるティエドール部隊に配属になったの」
　床から浮いた足をぶらぶらさせながら、彼女はその頃の教団のことを僕に話してくれた。スーマンが情報を売ったことで教団に多数の死者が出て、エクソシストもたくさん死んだこと。知り合いもたくさん死んだこと。聖堂に棺がぎっしりと並んでいたことを。
　困った顔で笑った彼女が「戦争だもの、仕方ないって分かってるの。でもやっぱり死んじゃうのは、かなしいね」とこぼして口を噤んだ。
　彼女は咎落ちになったスーマンの事情は知らないのかもしれない。もしかしたら、このまま知らない方がいいのかもしれない。
　迷った末に、口を開いていた。一度はこの左手を失ったことを、どうして僕のイノセンスが形を変えたのかをきちんと説明したかったのだ。

「咎落ちって。知ってますか？」
「…うん」
「スーマン・ダークというエクソシストがいましたよね。面識はありましたか」
「顔見知りくらいだけど。彼がどうしたの？」
「彼が咎落ちになったんです。暴走して、近隣の町を破壊していた」
「…咎落ち？　どうして？　だってスーマンは適合者だったでしょう？　私の知ってる咎落ちは、イノセンスとシンクロできない不適合者が無理にシンクロしようとして、拒絶されちゃう、そういうのだった」
「スーマンは…ノアに殺されそうになって、命乞いをしたんです」
「……それ、本当に…？」
「相手はティキでした。殺された仲間を見て、彼は怖くなったんです。死ぬことが。生きて会えないと分かっていた家族に恋焦がれた。敵に情報を売ってまで命乞いをした…」
「…じゃあ。みんながたくさん死んじゃった、あれは、」
「……スーマンが流した情報で、そうなってしまったんだと。思います」

　訪れた沈黙。
　彼女は右手で拳を握っていた。「僕はスーマンを助けようとしました」とこぼすと彼女の肩が揺れた。「どうして？」という静かな声に顔を上げる。彼女は表情をなくして僕を見つめていた。
　固く拳を握っていた手をゆっくりと解き、僕よりずっと小さな手にそっと掌を被せる。「彼が生きたいと願っていたから」そう言うと、彼女は視線を伏せた。
　生きたい。彼は強く、そう願っていた。
　酷使し続けたイノセンスが限界に近づき、何かが切れる音がして激痛に苛まれ、それでも構わないと、僕は彼を助けようとした。
　そして、助けられなかった。
　そのことを話すとき、どうしても涙が滲んだ。悔しいのか、悲しいのか、寂しいのか、よく分からなかった。彼を助けたかった。全力を尽くした。だけど僕は彼を救うことができなかったのだ。
　強く唇を噛んだとき、彼女の右手が僕の手から抜け出して、白い髪を撫でた。顔を上げられない僕に「スーマンは、アレンが来てくれて、本当に嬉しかったと思う」「…そうでしょうか」「私も。咎落ちになって、助からないって分かってるのに、それでも誰かが助けようとしてくれたら、やっぱり嬉しいと思う」思いもよらない言葉にスーマンのあの姿に彼女の姿がブレた。一瞬でも。「そんなこと言わないでくださいっ」と声を荒げて肩を掴んでしまってからはっとする。ぱち、と瞬いた彼女はいつもと変わらない表情でやわらかく笑った。目立つのは、亜麻色の髪に絡むような包帯の白。
「大丈夫よアレン。たとえばの話」
「はい…すみません」
　手を離して、一つ深呼吸する。扉の外に誰の気配もないことを確かめてから、そのあとティキと遭遇し、ノアの力でイノセンスを破壊されたことをゆっくり話して聞かせた。
　一度は殺されたのだということを話すと彼女の顔色が青くなった。その手を握ってちゃんとここにいると伝えながら、その後アジア支部に運ばれ、失ったはずのイノセンスが僕を生かし、そして再び形を取り戻すところまで順を追って言葉にしていった。
　その頃彼女は神田と行動を共にしていて、日本に向かっていた。僕らとルートは違うけれど、江戸で合流できたことを思えば納得のいく話だった。

「辛かったねアレン」
「いえ、そんなこと。ないです」
「辛かったよ。悲しかったし、寂しかったし、苦しかった。頑張ったねアレン」
「そ、んなことは、」
「頑張ったよ。もっと自分を褒めていいよ。認めてあげていいんだよ。ね」
「…っ」

　彼女が笑う。震える僕をそっと抱き寄せて「大丈夫。私はアレンが頑張ったなってすごく思った」と言われて、縋るように細い身体を抱き締めた。いや、間違いなく僕は彼女に縋って依存していた。「そうでしょうか」「うん」「精一杯、だったんですけど、どこかに後悔があって」「うん」「…話せてよかった」亜麻色の髪に顔を埋めると、花のにおいはしなくて、ただただ薬品と包帯のにおいがした。
　僕の髪をゆっくりとあやすように撫でてくる、体温が心地いい。できればずっとこうしていたい。朽ち果てるまでずっと。
（なんて、馬鹿な願いを抱いてるのか。神田のこと笑えないな僕も）
　それから、方舟を使って、江戸へ。そこでリナリー達と合流し、伯爵が仕組んだ崩壊寸前の方舟へ送り込まれて、仲間と一緒に戦って。
　そこで、僕のイノセンスが剣になったことも話した。よく分からない体験をしたことも全て話した。
　十四番目というキーワード。僕が弾かないと意味がないというピアノ。弾いたことなんてないはずの楽曲を手が勝手に弾いたこと。だけどその楽譜は憶えのあるものだったこと。師匠が願いを込めて弾けと言ったこと。仲間を返せ、そう思ってピアノを弾いたこと。
　彼女は複雑そうな声で「私、肝心なところで落ちちゃったんだね…ごめんねアレン」髪を撫でられる感触。目を閉じて、彼女がラビを庇って空間に落下したことを思い出した。
　あのとき、は笑っていた。
「どうして笑ってたんですか。落ちたとき」
「え。私笑ってた？」
「少しだけ」
「…こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど。限界、だったのかも」
「……神田を追いかけようなんて思ったんじゃないでしょうね」
「え」
　身体を離すと、彼女はびっくりした顔をしていた。「どしてそんなこと言うの？」おまけに不思議そうに訊かれる始末である。天然というのは怖い。「…こんなこと認めたくないですけど。だって神田のこと好きなんでしょう？」小さな声で確認すると、彼女は照れたように困ったように笑った。「あれ、周りから見て分かっちゃうものなのかな」と。ぷいっと顔を背けて「僕がのことばかり気にかけてるせいかもしれないですけど、やっぱり、好きなんですか」「…うん。そうだね。ユウのこと好きだよ」耳に届く声が胸に痛い。とてもやわらかい声なのに、じくじく、じくじくと頭の中の傷でも抉るようにただ痛む。
（神田め…嫉妬じゃすみませんよこんなの。こんな、僕の初恋相手を奪っておいて、モヤシ呼ばわりは相変わらずであのパッツン男児！）
「？　アレン？」
「あ、いえすいません。僕の話はこんな感じです。ほんと長くてすみません」
「ううん。大丈夫」
　にっこり笑いかけてくれる、その唇にキスしたいなとふと思った。けど理性をフル総員で欲望を抑え込んでベッドから立ち上がる。
　もう、行かないと。僕も男だから、暗い中で好きな人と二人きりで密着してる状態に我慢の限度ってものがある。
　あふと欠伸を漏らした彼女が目をこすっている姿がかわいいと思えてしまう自分がいる。
「すみません、眠ってください」
「でも…」
「僕なら大丈夫です。話、聞いてくれてありがとございました。本当に、すっきりしました」
「うん…」
　彼女が眠れるように羽布団を整え就寝の手伝いをする。頭の傷に響かないようにと用意されたたくさんの枕に頭を預けて、彼女がまどろんだ目で僕を見上げた。眠そうなだけなのにどきりと心臓が跳ねる。か、わいい。
「明日も、来てねアレン。私が心配だから」
「…じゃあ、明日も来ます。今度はちゃんと昼間に」
「うん」
　ふにゃりと笑った彼女。眠るまでそばにいて、寝息が聞こえた頃に壁の時計を見上げたらもう三時を回っていた。
　こんな時間まで付き合わせて、僕はなんて自分勝手な男なんだろう。
「…ミスティー。起きてますか？」
『なんだ』
　試しに呼びかけてみたところ、返事があった。目を閉じて丸まったままの赤いドラゴンの姿と彼女の寝顔を視界に入れながら「なんだと言われると、特に何もないんですけど…」そうこぼしてから目を閉じた。僕も眠たい。病室に戻ったらすぐに寝よう。
「を神田に任せちゃっていいんですか？」
『…任せるつもりはない。少し場所を譲るだけだ』
「それ、任せるって言いませんか？」
『言わぬ』
　きっぱり返されて小さく笑う。ぐっと伸びをしてから立ち上がって、最後に彼女の亜麻色の髪に指を絡めて離した。
「おやすみなさい。ミスティーも」
『…ああ』
　病室を出る。心の霧は晴れていた。もう彼女に隠し事の類はないのだ。聞いてほしいことを聞いてもらった。話をした。受け止めてもらった。神田が好きだっていうそこの部分だけ全然腑に落ちないけど、彼女の気持ちは分かった。今は神田を見てるんだってことも分かった。
　でも僕は、諦められないと思う。この想いを完膚なきまで叩きのめされたら、少しはあの子を諦めようって、そう思えるのかな。
　少し前向きな気持ちで部屋に戻った僕、アレン・ウォーカーを翌朝迎えたのは、ただ冷たい現実で、僕は十四番目の関係者として、中央庁から監視役をつけられることになる。